川越街道 藤間あたり

Photo0 処刑場跡に立つ開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)
記録
日程:2019,03,22
メンバー:安田
03/22 天候 晴れ:
行程6.95km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
春彼岸の中日、春分の日が過ぎたら都内の桜の開花宣言が出ていよいよ春本番。風が少しあるものの自宅近辺を歩き回るには丁度良いので江戸時代初期に整備された川越街道旧道(現在は市道64)の散策に出かけた。
いつもの事ながら高階市民センターから歩き出し、市道5233を東に向かい、東上線に突き当たったところで道なりに新河岸駅方面に進んで新河岸駅踏切手前で市道5321に左折した。市道5321は高階村成立以前は藤馬村(明治の初めに藤間村と改称。江戸時代は藤馬村。更にそれ以前は藤間村)と砂新田の境だった。

Photo1 藤馬村(藤間村)と砂新田の境界 現在は市道5321
市道5231を進みR254(川越街道)に出るとその先は現在高階中学校になっているが、戦後の教育改革で高階中学校が出来る以前はR254を越えて川越街道旧道(現在の市道46まで延びていた。
戦後直ぐの航空写真を見つけたので高階中学校付近の写真を切り出してみるとかつての村境(中学校建設当時は大字の境)の道をつぶし、畑と雑木林だった土地に中学校が建設される様子が良く解る。

Photo2 高階中学校建設の様子
R254を越えて市道5325を西に進み市道46 (川越街道旧道)との交差点で左折し高階中学校に沿って進むとやがて市道51との分岐に出る。

Photo3 市道46と51の分岐 分岐の中央が開明地蔵大菩薩
かつての川越街道のこの間は両側が杉並木で子供の頃にはまだ何本か杉の巨木が残っていたが、今では伐採され住宅や商店が建ち並び痕跡すらのこっていない。姿を消してしまった川越街道の杉並木は有名な日光街道の杉並木と同様に川越城主松平伊豆守信綱によるものだった。
市道46と市道51の分岐のところにある開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)は”お仕置き場”と呼ばれ刑場跡だと言われているが、高階村の外れでもないし、ましてや藤間地区の中央部だし?????なぜこの場所にあるのか子供の頃から疑問だった。
新編武蔵野風土記稿寛政重修諸家譜といった古書の活字本が国会図書館のデジタルコレクションの中にあり、自宅のパソコンでも見ることが出来るので調べてみると徳川家康の関東入府以来川越城主は酒井家、堀田家、松平家(大河内)、柳沢家、秋元家、松平(越前)家、松平(松井)家と変わっている。
更に所領について調べてみると酒井家から松平(大河内)家の時代まで藤馬村を取り囲む砂新田や寺尾村砂村は川越領となっていたが藤馬村だけは旗本米津(よねきつ)氏の所領となっていたことが解った。
つまり藤馬村は川越街道が整備された松平伊豆守信綱時代は米津氏領、元禄時代になって柳沢吉保が城主になったときに加増で藤馬村は川越領となったので藤馬村が川越城付領に組み込まれるまでは砂新田が川越城付領のもっとも外れになっていた。
江戸の府内の外れにあった日光街道の小塚原刑場や東海道の鈴ヶ森刑場と同じように人の行き来が多かった川越街道の砂新田の外れに刑場が置かれたのであろう。
米津領藤馬村が川越城付領になってもそのまま残され現在に至っていると思われる。
専門家ではないので断言することは出来ないが漸く長年の疑問に対し答えを見出すことが出来た。
市道46を更に進み東光寺前の坂を降って行くと(武蔵野台地から降ると)かつて川越街道には川越城下に近いほうから一の橋、二の橋、三の橋があったという。
先日歩いた(藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り)流路の痕跡が残る北江川に架かっていた橋が一の橋、

Photo4 川越街道の一の橋から下流側
そして現在は江川都市下水路となって地下トンネルになっている江川の橋が三の橋だったというが川五街道を歩いた記録のブログや記録を見ても二の橋の場所は不明になっている。
一ノ橋と二の橋の中間あるはずの二の橋の痕跡を探しながら歩くと市道46から左側の民家に入る私道の横にそれらしき掘割を見つけた。

Photo5 川越街道二の橋から下流側 道路右側が流路 道の突き当りは民家
市道46の右側の家々は塀が密着し川の痕跡と思われるものが見当たらないので下流に向かって進むと、民家の間を縫うように曲がりながら掘割が続き

Photo6 明瞭になった掘割 奥がR254
やがて市道6402に出た。
直ぐに交わるR254を越え市道5422に出ると道に沿って暗渠が続いているので、

Photo7 市道5422右側が暗渠
区画整理される前には間違いなく二の橋の下を流れる川があったことが解った。市道5422を暗渠の行き先を求めて進むと東上線の線路手前の市道5428との交差点で暗渠が消え失せてしまった。
道路を良く見るとマンホールの蓋に”うすい”とかかれたものと”おすい”とかかれた2種類あることを発見したので

Photo8 雨水マンホールの蓋
今度は”うすい”のマンホールを探しながら市道5428を進むと地下を江川都市下水路が通っている市道5455に出てしまった。おそらくここで下水路に合流していると思われる。
市道5455を越えてコンクリート階段を上り、武蔵野台地上にあるふじみ野市との境の市道5458に出て左折、藤間北野歩道橋で東上線を越えて市道44に出たところで左折し、区画整理で変わってしまった東上線西側とは違い未整理のまま住宅が建ち並んでしまった東側から川の痕跡を探してみたが何も発見できなかった。
一の橋があった北江川、三の橋があった江川(今は江川都市下水路)は共に東上線の鉄橋(今では道路)があったが、この間は東上線が土手の上を走っているので区画整理されて暗渠になる以前の東上線開通時から二の橋があった川は江川に合流していたのかもしれない。
古い地図にも現われていないので普段は水が無く、降雨後に流れが現われるような小河川だったのであろう。(地図上のa、b、c、dは以前のブログと同じで区画整理後失われた古道が東上線と交わる地点を示しています。)
藤馬村と寺尾村の境界の道、市道44(寺尾街道)を更に新河岸駅方面に進み市道43に出て踏み切りを渡り直進、高階小学校前から市道5538市道5537市道5325を経て高階市民センターへ戻った。
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