川越五河岸と仙波河岸

Photo0 川越五河岸のうち下新河岸跡(手前)と寺尾河岸跡(奥)
記録
日程:2019,02,07
メンバー:安田
02/07天候 晴れ:
行程9.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
武蔵野台地の末端に位置する川越の東側には新河岸川が流れている。江戸時代から明治にかけてその新河岸川を利用した舟運が埼玉県西部から青梅方面までの物資輸送を担ってきが、やがて鉄道輸送の時代を迎えると舟運は衰えていった。
今日は舟運で栄えた川越五河岸と最上流に最後に開かれた仙波河岸を歩いた。新河岸川の舟運については各種の研究や出版物があるがもっとも簡潔にまとめられている みなと文化研究事業 の "川越(新河岸川)の「みなとの文化」" が参考になる。
いつものように高階市民センターから市道5322を歩き東上線の踏切を渡って市道43を東に進み緩い坂を降ると新河岸川に架かる旭橋に着く。旭橋から新河岸川の右岸上流側が①上新河岸、下流側が②下新河岸、さらに少し下ると③寺尾河岸、旭橋を渡った左岸が④牛子河岸で、さほど広くは無いところに河岸が存在していた。
旭橋を渡って左折し、新河岸川左岸堤防上を上流に向かうと直ぐに旭住宅という住宅地。

Photo1 旭住宅 右は旧九十川河道
昔の地図で見ると旧九十川と新河岸川の合流点で中州のようになっているところで大正から昭和の初めにかけての新河岸川改修で九十川の流路変更で出来たところで、昭和30年代に宅地化された。
丁度対岸にはそのときの新河岸川直線化で取り残された新河岸川の旧河道の一部がニジマスの釣堀(川越淡水魚センター)になっていたが、平成10年の洪水とその対策として実施された”激甚災害特別緊急事業”による堤防のかさ上げで今は無くなった。
川越線を走る電車を眺めながら良く整備された左岸堤防上を進むと新扇橋(平成15年)が見えてきた。かつて少し下流に扇橋があったが都市計画で上流に移動し名称も”新扇橋”となった。対岸(右岸)の辺りが⑤扇河岸が合ったところで江戸時代には最上流の河岸で、①~⑤までが川越五河岸と呼ばれていたが、明治になって更に上流に仙波河岸(明治2年)が設けられた。
新河岸旭橋の畔に河岸場跡の碑と説明板、それにコンクリートで造られた船着場があるが

Photo2 新河岸 河岸場跡
九十川の流路変更、新河岸川の直線化、堤防の強化など数回に及ぶ洪水対策でかつての面影を残すものは殆ど残っていない。
新扇橋の直ぐ上流は新河岸川と不老川の合流点で

Photo3 不老川(左)と新河岸川(右)の合流点
ここを過ぎると新河岸川は右に曲が始めJR川越線の新河岸川橋梁に差し掛かる。
昭和15年に大宮から高麗川に至る川越線が開通し、そのときに造られた鉄製橋桁のブレートガーダー橋(昭和11年)が架かっていたが、新河岸川改修工事に伴って平成22年にコンクリート製の新しい橋梁となった。
新河岸川橋梁から少し遡るとかつての川越市の下水処理場”滝ノ下終末処理場”(昭和41年から運転開始)が

Photo4 新河岸川上流水循環センター
あるが今は埼玉県に移管(平成18年)され、”新河岸川上流水循環センターとなっている。
不老川が昭和58年から3年連続で”日本一汚い川”になり、その対策の一環として水循環センターで処理した水を不老側上流の狭山市の入曽まで送り放流している。
滝ノ下橋を渡り市道を進むとR16をくぐる手前左側に仙波河岸史跡公園がある。

Photo5 仙波河岸史跡公園入口 左のトンネルの上はR16
R16は直ぐ先の崖の上、仙波河岸史跡公園は崖下になっており仙波の滝の湧水があるがこの時期は水涸れ。

Photo6 仙波河岸跡
仙波河岸の跡が整備され保存されているが子供の頃は整備されていなくて、朽ち果てた川舟が沈んでいた。
五河岸は江戸時代に繁栄していたが台地上の川越城下までは距離もあり、烏頭坂という難所もあったので明治2年に仙波河岸が開かれた。
先ほど通った市道は台地上に上がる道路だが、坂の両側は切り通しのように削られ勾配が緩くなっている。これも仙波河岸と同時期に出来たものであろう。武家社会が崩れ民衆が取って代わった時代の変わり目に出来た仙波河岸は城下の川越商人が従来の勢力に取って代わろうと開かれたのかも知れないが、川越商人の勢力もやがて外からの力、鉄道と新河岸川の洪水対策により大正になると衰え始める。
明治28年の川越鉄道(国分寺と川越間、現在の西武新宿線の一部、川越資本は殆ど参加せず))の開通でそれまでの所沢飯能入間など埼玉西部への物資輸送は舟運から鉄道に変わり川越商人の商圏は狭くなった。
仙波河岸が開かれる以前から新河岸川は川越北辺を流れる赤間川が注ぐ伊佐沼を源流としていた。伊佐沼周辺は低湿地でその後の陸上輸送には不向きだったのに対し新河岸は水量も多く緩やかな坂で台地に上がることができたので埼玉西部への陸送が容易だった。
仙波の滝から流れが注ぐ不老川は渇水する冬になると干上がってしまう”としとらず川”なので水量が少ないうえに季節変動も大きかった。以上のような要因で五河岸が繁栄したと思われる。
新河岸川の曲がりくねった河道が舟運を可能にする水量を保つ上に大きな役割を担っていたが一方洪水も多かった。
大名や旗本などが分割統治していて治水対策もままならなかった江戸時代から明治になると広い範囲で洪水対策が行えるようになり、関東平野を襲った明治43年の大洪水の対策の一環で新河岸川下流の改修が行われると水量が減った。
さらにそれまで川越城下の北辺を流れていた赤間川の流路が、

Photo7 新河岸川上流方面 この辺りから上流が昭和9年までに開鑿された
川越城の外堀の一部を利用し台地縁辺を南下して新河岸川に直結する流路に変更され、昭和9年までに田谷橋から仙波河岸付近まで開鑿され、現在のR16とR254に沿った両岸に桜並木がある新河岸川となった。
地図上では旧赤間川部分も新河岸川となっているが今でも古くからの川越市内に住む人は赤間川と呼んでいる。
仙波河岸史跡公園から坂道を上り愛宕神社に立ち寄ってR16を西進、R!&とR254の交差点の歩道橋から眺めるとここが下からJR川越線(昭和15年開通)、東上線(大正3年開通)、R254(川越街道 昭和16~20年)、R16(昭和44年)と重なっている川越の交通の要所。

Photo8 左から中央が東上線 一段低く右から中央が川越線 トンネルで東上線と交差
旧川越街道市道46とR254(現川越街道)は直ぐ先の東京寄りの烏頭坂途中で合流している。旧川越街道が出来たのが江戸初期、現在のR254は旧高階村内で出来たのが資料(高階村史)によると昭和15年。

Photo9 現在の川越街道(R254)が出来る前後の様子
そのときに市内まで一気に繋がったのかどうか調べたら思わぬところで発見した。
昭和16年の航空写真では旧高階村の県道336までしか道路が出来ていません。昭和21年の写真を見ると市内まで延びているのでおそらく昭和20年の終戦時には出来ていたのではないかと思われる。
河川改修、道路建設等の大きな工事は時間を要するのでどの部分がいつ出来たかということがなかなか解らない。公文書や文献を調べても年と年度の表記があるので判りにくい。今も昔も年度末駆け込みが多いのは相変わらず。
交差点から烏頭坂を降り旧川越街道市道46を暫く進むと不老川の御代橋。

Photo10 不老川 御代橋から上流に向かって
先日下流のR25の不老橋を車で通ったときには水が涸れていたが今日はすき無いながら水流があった。
ここから右折して不老川右岸の堤防上を歩き県道336の砂久保橋を目指した。
水は透明度があるもののやはり多少臭う。先ほど通った新河岸川上流水循環センターからの水が放流されていつのだろうが・・・・・。
不老川の両岸には住宅が建ち並んでいるが少し離れると立川面の関東ローム層の赤茶けた土の畑が広がっている。不老川の川床には拳大の角が丸い石があるので水に入っても泥に足をとられることなく、太古の時代に関東山地から流れ出た多摩川によって運ばれたものか堆積しているので
武蔵野台地(基本的には多摩川の扇状地)を東に流れる川は涸れやすい。武蔵野台地から降ると表土の黒土を集めて川床は泥深くなり台地端の崖線(仙波の滝や新河岸日枝神社下など)では水が湧いている。
砂久保橋に出たところで左折し県道336を東に進み直ぐに市道6348に右折すると砂久保共同墓地に着いた。

Photo11 将棋盤の上に乗る石川源五右衛門の墓 (中央右)
先日のブログで書いた農兵反対一揆の一方のリーダー石川源五右衛門の墓地は文献にあった”墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は将翁博石居士”を探すと墓地の中央に見出したが、裏面に記されている一揆の概要を読み取ることは出来なかった。散歩知識としては先日のブログ程度のことがわかっていればまぁ良しとするか。
共同墓地から再び市道に戻り五ツ又で市道に右折、近道を歩こうと思い途中で左折してみたがぐるりリ巡ってもとの道に出てしまった。結局市道6324から市道6325を経て高階市民センターに戻った。
- 関連記事