川越市高階地区散歩 藤間周回

Photo0 高階藤間のかつてのランドマーク 火の見櫓(昭和29年)
記録
日程:2019,01,04
メンバー:安田
01/04 天候 快晴:
行程7.21km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップ の道路台帳を参考にしました。
新年を迎えて4日目。上空は高気圧で穏やかな日になった。昨年からちょっとした足の故障でリハビリに励んでいたが、そろそろ山に出掛けようとしても思っても今度は体が寒さに慣れずについウダウダ。この間にひょんなことから自宅付近の古地図と100年前の古い地図を発見し、天気の良さに誘われて古い地図と現在の地図を見比べながら自宅周辺を歩いてみた。
自宅のある川越市の藤間地区は昔の藤間村、明治になって周辺の村々と合併し高階村(明治22年)になりその後昭和30年に川越市と合併。古地図には鉄道や国道も無く,寛永16年頃に出来た川越街道(旧道、現在の市道46号線)が北西から南東に縦断するのみだった。
今回は東上線開通直後の100年前の古い地図の道を歩き、更に区画整理や鉄道輸送力アップ・安全強化に伴い失われた踏切跡も探してみた。
現在地域のランドマークとなる高階市民センターを基点に

Photo1 高階市民センター
西に進みR254を越えて川越街道(旧道、現在市道46)との交差点で左折, そのまま進むとかつては藤間地区全体を見渡したであろう火の見櫓(昭和29年)。
横を通り右に”首切り地蔵”を見て、やがて坂を降る途中にある東光寺を過ぎ暫く進むと古地図にある現在の市道6414の入口を見つけた。
ここで右折するとやがて人家が途切れ田園地帯の中の道となった。子供の頃には良く通った道であるが車を運転するようになると子供の頃には無かった南側にできた市道6418を通るようになってしまい、周辺の新しく家が建ったり、生垣からブロック塀になったりといった景観変化で古道の入口さえ解らなくなってしまった。
古道を進みやがてこれも古道の市道64208に合流して直進、市道52に入ってふじみ野市との市境寸前で左折今度は市道6525を川越街道目指して進んだ。
新興住宅地を抜け川越街道(旧道、市道46)に出て右折、緩い坂を登って行くと直ぐに川越市とふじみ野市との境界、かつ川越街道旧道と新道(現在のR254)の合流点にでた。

Photo2 R254上の歩道橋より東京方面を望む
ここでR254を歩道橋で越えて更に市境の狭い市道5458を進むとやがて東上線の線路に突き当たった。

Photo3 東上線の歩行者用跨線橋 かつてはここにも踏切があったようだ
歩行者のみ通行できる跨線橋を渡って右に上福岡市(ふじみ野市成立以前)の住所、左に川越市の住所が書かれた表札を見ながら進み突き当りを左折、坂を降って交差点で左折し市道5455を西進して東上線のガードをくぐり直ぐに右折して市道5429に入った。この右折は歩行者のみ可能。

Photo4 東上線のガード 下はかつて江川、今は暗渠
このガード(a地点)は子供の頃は川越江川を渡る東上線の鉄橋だったがいつの頃か川は暗渠になり上は道路に変わった。ガードを支える両側の擁壁には昔の名残が残る。
東上線に沿った市道5429を線路土手を観察しながら進むと微妙な形状変化が認められた(b 地点)ので地図をチェック、区画整理外だった東上線反対側にはやはり分断された古道の名残の市道5396があった。
更に進むと線路をくぐるトンネルが反対側に通じている(c 地点)が、通ることが出来るのは歩行者のみ。

Photo5 古道の名残で反対側に抜ける歩行者用トンネルがある
ここも古道の名残だ。線路の向こう側は市道5394。
更に進んで古道があったと思われるところ(反対側は市道5394)を探したが痕跡すらなかった(d地点)。やがて市道45と交差、ここで右折して再び東上線のガードをくぐったが、このガード(e地点)も先ほどと同様にかつては川を越える東上線の鉄橋だった。

Photo6 ガードもかつては川を越える鉄橋 川は今は暗渠になっている
線路を支えるガードの壁は東上線下り側がレンガ積、上り側はコンクリート製、土手の法面は玉石を積み上げコンクリート補強したものだ。
下り線側レンガ壁は東上線開業(大正3年)当時のもの、コンクリート壁は複線化(昭和32年)のときのものと思われる。市道45を進んで左側に藤間諏訪神社の石段が見えたら左折、

Photo7 正月で幟が立っている諏訪神社
神社下で更に左折して市道5351を西進すると線路で行き止まり(f 地点)。鉄道と其の前後の道路の高さが同じだった踏切があったが区画整理とともに先ほどの線路を潜り抜けられる市道45が出来て踏切は消滅。

Photo8 道路と線路の高さがほぼ同じ高さだった廃踏切
少し戻って坂を登り市道5358に出て西進、またもや線路で行き止まり(g 地点)。この道は古地図にはあったが100年前の地図には踏切が無い。
丁度線路が切り通しのようになっているので線路の前後の道は坂道になるので踏切で線路を楽に越えられた先ほどの市道3251が近いこともあり鉄道開通時には踏切が設けられなかったようだ。
ここから少し戻って更に線路に沿って北上、子供の頃諏訪神社参りのときに歩いた道を探すと畑の中に道跡を発見。
両脇の畑とは違和感のある長さ数メートルで線路に行き止まる道(h 地点)。地図をチェックすると昔の里道は幅はそのままで今ではちゃんと市道5350になっていた。

Photo9 畑の中に残る里道、川越市のマップを見るとこんな所も市道として載っています
ここからは新しく出来た市道5579を寺尾地区と藤間地区の境界をなす市道44(昔は寺尾街道と呼んでいたけど今は?)に出て新河岸駅目指して北上。
市道5334とのT字路のところで線路側に踏み込んでみるが、

Photo10 かつてはここにも踏切があった
ここにもかつてあった踏み切りの痕跡が残るものの現在市道5344は線路まで延びておらず、行き止まり部分は廃道になった(I 地点)。
記憶にある限り市道5344と市道5322は繋がっており踏切で東上線を越える一本の道だった。両側が坂道だった踏切が廃止され東上線西側に新たに駅に向かう道が出来て分断された。
東上線開通直後の100年前の地図にも踏切は無いが、線路は周囲の地面より低く其のうえ線路上に橋を掛けるほどの高低差も無いので踏切の前後は坂道だった。従って開通当時は踏切が無く、その後に設置されたと思われる。参考にした後の時代の地図では踏切になっている。
つまり開通当時は古道が分断されその後設置、更に時間が経過してまたもや廃止されたということか。
鉄道開通以前の新河岸川舟運が盛んなときは重要な道であったが東上線開通、昭和6年の通船停止令による新河岸川の舟運停止とともに重要性は次第に薄れ、遂には分断されてしまったのだ。
更に新河岸駅方面に進み東上線を渡って反対側を線路沿いに南下、先ほどの分断箇所の反対側地点に出て市道5322を西進、出発点の高階市民センターへ戻った。
住んでいて何気なく地域の変化を見ているもののいつ変ったかを思い起こすと記憶はあやふや。覚えているのは活動時間の大半を地元で過ごした幼少期、変化後の様子がつぶさに解るようになったのはリタイヤ後。
この間の地元以外ところで活動時間の大半を過ごしている間のことは住まいが変わらずともスッポリ抜け落ちている。探してみても案外周囲の出来事の記録は残っていないものだ。ましてや記憶はあやふや。
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