黒髪尾根周回あれこれ
榛名 黒髪尾根・相馬山周回 Appendix
洗い越し

Photo1 洗い流し構造
登山に出かけ林道を歩いていると時たま道路を横切るように沢が流れるようになっている場所がある。普通は沢や川には橋を架けて道路が横切るものだと思い込んでいたので道の上を水が流れるのは工事の手抜きや氾濫による災害跡と思っていた。今回2箇所も道路上を横切る沢を渡渉したので調べてみると道路上を水流が横切る構造を”洗い流し”と呼ぶことが判った。
”洗い流し”とは?
川に橋を架けずに道路と川が平面交差している構造
最初から意図された立派な構造だったんだ。疑問を持って調べるといろいろ勉強になる。山行でちょっとお利口になった。
大正13年の旱魃

Photo2 大正12年旱魃の石碑
林道脇にあった大岩の上に立つ”大正13年の旱魃”碑から気になって調べてみると大正13年には西日本、中部日本を中心に全国的に大旱魃に襲われた事が分かった。
この旱魃災害が契機となり各地に用水が整備され、四国を中心とする瀬戸内海沿岸では田野々池(豊稔池)などの近代式ため池の築造がはじまった。碑が残されているということは榛名山麓でも旱魃災害が大きかったのであろう。
まだ90年そこそこの時間しか経っていないので災害の記憶は忘れ去られ大旱魃の碑は訪れる人も殆どいない。
いまや廃道になってしまった黒髪山登山道の脇に建っている碑だが建てられた頃には多くの登山者、参詣人が碑の前を行き交ったのであろう。
黒髪山登山道

Photo3 黒上山登山道 両側には石碑が並んでいます。
今回歩いた登山道は既に廃道になって久しいようだが、明治時代の鎖がかかっていたように昔から厳しい山道だったようである。
私が確認できた鎖は明治15年のもの、情報によると明治43年のものもあるらしい。
登山道の始点となる棒東村の黒髪山神社は相馬山(黒髪山)への登拝が困難な老人や婦女子のために明治20年に建てられた里宮で境内には”相馬山登山道"と刻まれた石碑も残るとか。
麓の榛東村の黒髪山神社(里宮)から山頂の黒髪山神社(奥宮)までの 古の登山道 を予想して地図に書き入れてみました。今では陸上自衛隊の演習場の中を通っていたようです。
右京の泣き堀

Photo4 右京の泣き堀
高崎城主松平右京太夫輝貞は榛名南麓の新田開発をするためスルス岩の下をくり貫いて榛名湖から水を引き白川へ流そうと考えたが工事に失敗中止となった。その用水トンネル跡が"右京の泣き堀”、”むだ堀”、”馬鹿堀”などと呼ばれる。榛名山麓は火山灰地なので旱魃のときだけでなく常日頃から水不足だったようだ。
デ・レーケ巨石堰堤

Photo5 デ・レーケの巨石堰堤
明治政府に雇われたオランダの土木技師ヨハンス・デ・レーケの指導を受けた技術者によって作られた砂防堰堤、大きな自然石を積み上げたアーチ形状。
今ではかなり埋まってしまったと思うが現在のコンクリート堰堤と違い自然石を積上げているので周辺の景色に溶け込み違和感が無い。榛名山山麓のデ・レーケ砂防堰堤は土木遺産になっている。
とまぁ、今回の山行で見かけた石碑や山岳信仰の跡・珍しい砂防堰堤など歴史的なもの、今まで疑問に思っていた道路構造など技術的なものを帰宅後に調べてみるとなかなか面白い。パソコンでいろいろ情報を漁っていると次から次へと拡大し・・・・・なんだか知恵熱が出そうです。
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洗い越し

Photo1 洗い流し構造
登山に出かけ林道を歩いていると時たま道路を横切るように沢が流れるようになっている場所がある。普通は沢や川には橋を架けて道路が横切るものだと思い込んでいたので道の上を水が流れるのは工事の手抜きや氾濫による災害跡と思っていた。今回2箇所も道路上を横切る沢を渡渉したので調べてみると道路上を水流が横切る構造を”洗い流し”と呼ぶことが判った。
”洗い流し”とは?
川に橋を架けずに道路と川が平面交差している構造
最初から意図された立派な構造だったんだ。疑問を持って調べるといろいろ勉強になる。山行でちょっとお利口になった。
大正13年の旱魃

Photo2 大正12年旱魃の石碑
林道脇にあった大岩の上に立つ”大正13年の旱魃”碑から気になって調べてみると大正13年には西日本、中部日本を中心に全国的に大旱魃に襲われた事が分かった。
この旱魃災害が契機となり各地に用水が整備され、四国を中心とする瀬戸内海沿岸では田野々池(豊稔池)などの近代式ため池の築造がはじまった。碑が残されているということは榛名山麓でも旱魃災害が大きかったのであろう。
まだ90年そこそこの時間しか経っていないので災害の記憶は忘れ去られ大旱魃の碑は訪れる人も殆どいない。
いまや廃道になってしまった黒髪山登山道の脇に建っている碑だが建てられた頃には多くの登山者、参詣人が碑の前を行き交ったのであろう。
黒髪山登山道

Photo3 黒上山登山道 両側には石碑が並んでいます。
今回歩いた登山道は既に廃道になって久しいようだが、明治時代の鎖がかかっていたように昔から厳しい山道だったようである。
私が確認できた鎖は明治15年のもの、情報によると明治43年のものもあるらしい。
登山道の始点となる棒東村の黒髪山神社は相馬山(黒髪山)への登拝が困難な老人や婦女子のために明治20年に建てられた里宮で境内には”相馬山登山道"と刻まれた石碑も残るとか。
麓の榛東村の黒髪山神社(里宮)から山頂の黒髪山神社(奥宮)までの 古の登山道 を予想して地図に書き入れてみました。今では陸上自衛隊の演習場の中を通っていたようです。
右京の泣き堀

Photo4 右京の泣き堀
高崎城主松平右京太夫輝貞は榛名南麓の新田開発をするためスルス岩の下をくり貫いて榛名湖から水を引き白川へ流そうと考えたが工事に失敗中止となった。その用水トンネル跡が"右京の泣き堀”、”むだ堀”、”馬鹿堀”などと呼ばれる。榛名山麓は火山灰地なので旱魃のときだけでなく常日頃から水不足だったようだ。
デ・レーケ巨石堰堤

Photo5 デ・レーケの巨石堰堤
明治政府に雇われたオランダの土木技師ヨハンス・デ・レーケの指導を受けた技術者によって作られた砂防堰堤、大きな自然石を積み上げたアーチ形状。
今ではかなり埋まってしまったと思うが現在のコンクリート堰堤と違い自然石を積上げているので周辺の景色に溶け込み違和感が無い。榛名山山麓のデ・レーケ砂防堰堤は土木遺産になっている。
とまぁ、今回の山行で見かけた石碑や山岳信仰の跡・珍しい砂防堰堤など歴史的なもの、今まで疑問に思っていた道路構造など技術的なものを帰宅後に調べてみるとなかなか面白い。パソコンでいろいろ情報を漁っていると次から次へと拡大し・・・・・なんだか知恵熱が出そうです。
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自分も勉強になりましたw
安田様
いつもブログ拝見させていただいて感心しています。
「洗い流し」勉強になりました。
当方のブログにも連日遊びに来ていただき恐縮です。
これからもよろしくお願いします。
いつもブログ拝見させていただいて感心しています。
「洗い流し」勉強になりました。
当方のブログにも連日遊びに来ていただき恐縮です。
これからもよろしくお願いします。