2019年02月の全記事一覧
- 02/23 ふじみ野市 六道の辻
- 02/21 川越市 南古谷 並木の大クス
- 02/14 新河岸駅・南古谷駅・上福岡駅 3駅周回
- 02/08 川越五河岸と仙波河岸
- 02/02 川越市 高階地区の時代の変わり目の出来事
ふじみ野市 六道の辻

Photo0 “六道の辻”にある六道地蔵
記録
日程:2019,02,20
メンバー:安田
02/20天候 晴れ:
行程12.4km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
久々に気温が上がり春めいてきたので高階市民センターがある台地から隣の台地・上福岡を歩いてみることにした。
上福岡の台地上には”六道の辻”と呼ばれるところがあり、今では解りにくくなっているがかつては麦畑の中を通る古道が交わっていた。
東上線西側部分に昭和30年代初めに住宅公団により霞ヶ丘団地を造成され始め、34年に完成して入居が始まるとあたりの景色も一変し、高階市民センターのある台地の南端、今の藤原町や稲荷町の坂上からは建設中の白く聳える公団住宅が遠望できた。
高階市民センターと上福岡の台地はともに武蔵野台地末端部なのでその間にある低地は縄文時代には海の入り江だった。崖線部には住居跡や土器などが見つかっている。
上福岡の台地北西端は霞ヶ丘団地の影響もあって民間業者による開発が進み、昭和30年代後半になり台地の間の低地が区画整理されて熊野町・清水町・稲荷町の4町が生まれたが既に宅地化された部分は区画整理から取り残されてしまった。
現在、市道5455と市道5458にはさまれた北斜面の地域は台地の上から低地に向かって櫛の歯のように道が並び、坂道の途中が石段になっていたり行き止まりになっているところがある。台地の崖線下には着色した水や汚水が流れる江川が流れていたが今は地下を流れる江川都市下水路となっている。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5425に入り藤原町を通過して坂を下りしばらく進んで市道5455とのT字路で右折。少し進んで曲がりくねった市道5457に入った。

Photo1 川越市道54575 左右の地面の高さ違いから崖線下と解る(振り返って撮影)
市道5457は直ぐにR254に出てしまうが、道の左側はコンクリートや石積みの擁壁になっておりかつての崖線の様子を色濃く残している。
R254に出て左折してすぐの藤間歩道橋のところから

Photo2 藤間歩道橋
六道の1つ”まちや道”に入った。住宅街の中の一方通行の道を進み正面に地蔵が見え出すと“六道の辻”に出た。

Photo3 “六道の辻“ 右上に進むと上福岡駅方面
仏教で言う六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という輪廻転生する6種の世界だが、
ここでいう六道とは①福岡・引又道(引又とは志木市にあった新河岸川の引又河岸のこと)、②亀久保・江戸道(江戸道とは旧川越街道のこと。川越街道と呼ばれるのは明治以降で江戸時代は江戸道)、③鶴岡道、④藤間・町屋道(町屋とは川越城下のことか?)、⑤寺尾・新河岸道、⑥古市場道という交差している6古道をいう。
“六道の辻“でV字ターンをして”つるおか道”に入り暫く進むとR254に出た。
交通量の多いR254を避けて手前のR254と並行する路地を進み県道56に出たところで左折、暫く県道56を進んだ後上福岡駅を目指して左折、住宅街の中を歩いてわずかに”ひきまた道”の痕跡を残す駅前に出た。ここから再び“六道の辻”を目指して進み、“六道の辻”で再びV字ターンして”えど道”をしばらく歩いて上福岡青果市場のところから再び県道56に出た。

Photo4 上福岡青果市場 県道を進むと東上線踏切方面
上福岡青果市場は一般客相手の小売市場ではなく、川越南部やふじみ野市など周辺の農家から出荷される野菜類の集積市場で丁度箱詰めにされたホウレン草が運び込まれていた。
上福岡青果市場から県道56を少し進んで右折し、県道56に合流する狭い裏道を北東に進み、東上線踏切の少し手前で県道56に合流して東上線を越え直ぐに左折。

Photo5 東上線で分断された”ひきまた道” ホームを越えた先が”六道の辻“
東上線に分断された”ひきまた道”に出たところで右折し県道56を横断して直進した。
県道56を越えたところから”ひきまた道”は商店が連る中央通りと名を変え、七夕のときには垂れ下がった七夕飾りと人出で進むのが困難なほどの賑わいをみせたが、今ではシャッター通りの様相を呈しマンションや駐車場、空き地が目につく。
図書館前の交差点で再びV字ターンで折り返し、上野台団地が再開発でコンフォール上野台と名前を変え、その一角にある中央公園横の道路を上福岡駅方面に戻った。
上野台団地以前にあった火工廠ができる昭和初期までは地図上に赤線で示した古道(新河岸と引又河岸を結ぶ陸路)があった。
上福岡駅入口交差点で右折し、

Photo6 寺尾街道(川越市に入ると市道44)
直ぐに左折して古道の跡を少し歩いて再び左折して上福岡駅東口前に出た。ここから東上線に沿ってマーケットの間を通り抜けた先の突当りが”ふるいちば道”で左手は線路で行き止まり(A地点)、

Photo7分断された”ふるいちば道” 線路の先は”六道の辻“へ繋がっていた
右に暫く進んで左から鋭角で合流する道へV字ターンし、西に向かって暫く進むと再び東上線の線路で行き止まり(B地点)。

Photo8 川越市とふじみ野市境の藤間歩道橋まで伸びていた古道跡
少し戻って線路と並行する道を北上し、川越市とふじみ野市境の道を東に進んで市道44に出て左折、坂を降る途中で左折し市道5403に入った。
市道5403は”六道の辻”から延びる”しんがし道”の一端で台地から降って寺尾街道(市道44)に合流する。

Photo9 東上線と寺尾街道(市道44)の間に残る“しんがし道”
さらに寺尾街道を北西に進み、藤間諏訪神社の東側の分岐を右に進む(市道5341)と新河岸に出る。
市道5403も東上線に突き当たり(C地点)、左に折れて線路に沿って狭い坂道を上がってゆくと市境の市道5458に出た。

Photo10東上線を跨ぐ藤間北野歩道橋(線路の先が上福岡駅)
藤間北野歩道橋で東上線を越え、さらに市道5458を進んで旧霞ヶ丘団地の末端まで来たところで左折、B地点からの古道で右折しR254の藤間歩道橋の下に戻った。
藤間歩道橋からR254を少し歩いてR254と川越街道旧道(市道64)の間にある市道6406市道6404市道6400を経てR254を渡り出発点の高階市民センターへ戻った。
幸いにも”六道の辻”は霞ヶ丘団地に取り込まれずに残ったが”六道の辻”を通過していた古道は東上線建設で分断され、霞ヶ丘団地部分は消滅した。
”しんがし道”部分が残っているようにも見えるが霞ヶ丘団地時代に拡幅直線化され古道であったことが窺い知れる物は無い。
川越市 南古谷 並木の大クス

Photo0 埼玉県の天然記念物 “並木の大クス”
記録
日程:2019,02,19
メンバー:安田
02/19天候 晴れ:
行程9.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
以前出掛けた茂来山の”コブ太郎”(トチノキの大木)を思い出し、それよりは小ぶりだが埼玉県指定天然記念物になっている”並木の大クス”を見に出掛けた。
”並木の大クス”は目通り幹囲が5.8mと言われるが前回は遠くから眺めただけだったが今回は住宅街の中をうろついて漸く全体像を見ることが出来た。
いつもと同じように高階市民センターから市道5322を歩き市道43に出て東上線踏切を越えて新河岸川手前で県道336に入り、新河岸川の旭橋と九十川の共栄橋を渡ってR254(ふじみ川越道路)に出た。更に県道336を直進し県道335との交差点に出た。ここまで県道とはいうものの道幅は狭く曲がりくねっているので歩いただけでは市道と県道の区別がつかない。まぁ国道とは名ばかりのところもあるので同じようなものか。
県道335の起点である南古谷方面に北上し大クスが見えてきたところで市道4370に右折したが住宅街に入り込んでしまったので、そのまま道なりに進むと右に曲がったり左に曲がったりしたあと漸く県道113に出ることが出来た。市道4370は県道335から県道113への車の抜け道となら無いように考えられた道なのかそれとも都市計画以前の住宅開発の跡なのかわからないが車では入り込むには覚悟が必要な道だ。
県道113を南古谷駅方面に少し進んで市道4184に右折。大クスの全体像を見ようと程よい距離で周囲を巡るが住宅に囲まれていて全体像どころか姿が全く隠れてしまうようなところもあった。
市道4184の先には田圃が広がり、さらにその向こうにはJRの川越車両センターが見えてきた。

Photo1 川越車両センター遠景
川越車両センターは昭和60年に川越電車区として使用が開始され、平成4年に改称された埼京線・川越線・八高線の運行車両の基地。
市道4182市道7180と巡ったが大クス全体の姿を見ることが出来ないので住宅街の中に入り込んでみると狭い公園((大クス公園))の中央に大枝を広げていた。植生保護のため根元まで近づくことが出来ず幹に触れることが出来なかったが公園脇の道路から漸く全体像を捉えることが出来た。
”並木の大クス”を後に県道113を川越市内方面に向かい川越線踏切手前で市道5461に左折、川越線沿いに暫く歩くと九十川手前で道は左に折れ、九十側沿いの道となった。川越線の九十川橋梁は新しくなったコンクリート製の新河岸川橋梁と異なり、

Photo2 JR川越線 九十川橋梁
古いままの鉄製ブレードガーダー橋なので近づいてみようと思ったが鉄柵で近づけなかった。次回訪れるときには対岸から迫ってみよう。
九十川左岸を進むと学校橋に出たがそのまま九十川の堤防上を進むと、かつて蛇行していた時代の河道跡と思われる空間(田圃)が現われた。

Photo3 九十川直線化以前の河道跡
地図では田圃の向こうの道路が弧を描いているのが良く解るが全体を捉えられない写真では良く解らない。
九十川の堤防上を歩き県道336の共栄橋に出たところで右岸に渡り、

Photo4 共栄橋から九十川上流側
更に新河岸川との合流点を目指して進み、途中に唯一残された無名の人道橋で左折し堤防から降った。

Photo5 幅が狭い無名の人道橋
昭和初期に開鑿された九十川の両岸の田圃を結ぶ農道の橋でリヤーカーが通れるほどの幅しかなく、かつては欄干も無かった。記憶によると橋から田圃の中に伸びる農道があったはずなので市道5242を辿ると昭和52年に開校した牛子小学校に突き当たってしまった。どうやらそのときに一帯の区画整理が行われ記憶の片隅にあった農道は消滅したようだ。
牛子小学校から市道5231、市道5230を経て県道335に戻り、新河岸川を渡って市道5340に左折した。新河岸地区から寺尾地区に入るとかつては畑が広がっていたので周囲の景色から判断して迷うことは無かったが、住宅が建ち並んだ今は自分の位置さえ解りにくい。
市道5340から市道5345に入り漸く見通しの利く住宅街の片隅に出たところで、遠くに見える散歩している人の姿を追いながら農道を歩いてどうにか市道5322に出た。
市道5322から市道5331市道5322と歩きいつものように高階市民センターへと戻った。
新河岸駅・南古谷駅・上福岡駅 3駅周回

Photo0 新河岸の対岸から見た蓮光寺 左の木立のあたりに惣門があります
記録
日程:2019,02,13
メンバー:安田
02/13天候 晴れ:
行程11.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
JR川越線の南古谷駅からふじみ野市に向かってほぼ直線で伸びる埼玉県道335(並木ふじみ野線)はふじみ野市に入ると直ぐに埼玉県道56(さいたまふじみ野所沢線)に合流している。
地図を見ると県道56は曲がりくねっていて古くからの道だったことは解るのだが・・・・県道335とは?
調べてみると県道335はかつてふじみ野市にあった火工廠(東京第一陸軍造兵廠川越製造所)と南古谷駅を結ぶ軍事道路だった。川越線が開通したのが昭和15年なので時を同じくして開かれたのであろう。
先日の散策で新河岸川の堤防の上から川越線(埼京線)を走る電車を見たので今日は東上線の2駅(新河岸駅とふじみ野市の上福岡駅)と川越線の南古谷駅の3駅を結んで歩いた。
いつものように高階市民センターから市道5322を東進し、東上線踏切を渡って更に線路沿いに進むと新河岸駅。
新河岸駅は大正3年の東上線開通から1ヶ月遅れて高階駅として開業、

Photo1 開業時とほとんど変わらない新河岸駅踏切時代
その後大正5年10月に新河岸駅に変更された。駅が存在する村名から高階駅と名付けられたのであろうが当時はまだ新河岸川の舟運が運行されており、新河岸のほうが広く知れていたので駅名を変更したものと思われる。
その後東上線は電化、複線化されたが駅は殆ど変わらず、子供のころ駅舎からホームへは池袋側の踏切を渡って電車に乗った。
昭和40年頃川越側にホームが延長されたとき直近の踏切が廃止され電車は8両編成化、昭和54年に駅舎からホームへはそれまでの踏切から跨線橋になってホームが池袋側に延長され電車は10両編成となった。

Photo2 跨線橋になった新河岸駅
新河岸駅ホームの古い基礎部分は大谷石が積まれているが川越側と池袋側にそれぞれ延長されると延長部分は鉄骨製になり、また基礎の高さも当初より増していることが横から見た拡幅・延長跡から解る。

Photo3 駅ホーム 延長部分は鉄骨製
新河岸駅は開業以来改札口が1ヶ所(西側、以前は東側には畑が広がっていた)だったので利用者の増加とともに東口開設の要望が増し、平成29年になって長年の懸案だった東西を結ぶ線路を跨ぐ通路をもった橋上駅になった。

Photo4 橋上新河岸駅 東口
新河岸駅から市道5309を進み県道336に出て新河岸川の旭橋を目指した。
途中の砂氷川神社と新河岸駅周辺は昭和29年に”人違いバラバラ事件”が起きたところで一躍有名になり今でも古くから住む人たちの間では語り継がれている。
事件は青年団の運動会帰りの19歳の女性が犯人の誤認で殺され、身体をバラバラに切断されて氷川神社や新河岸駅ホームの川越側への延長で廃止された踏切の西側にあった肥溜めに遺棄されていたというものだった。
乳房と性器は切り取られ膣や肛門には布切れを詰め込み、両足を切断したといった田舎の農村に起こった猟奇殺人事件だった
まだその頃のことを覚えている人たちによると、
”学校の社会見学で先生に引率されて現場を見に行った”とか”小学校の入学式が終わったら親と一緒に現場検証を見に行った”とか。
今でも”川越 バラバラ事件”や”高階村 バラバラ事件”などでネット検索すれば事件のことがいろいろ出てきます。
新河岸川旭橋から九十川の共栄橋を渡り市道5113進んで富士見川越道路(R254バイパス)の下をくぐり、さらに市道5090を進むと県道335並木川崎線に出た。
左折すると直ぐにJR川越線南古谷駅に出た。

Photo5 JR川越線(埼京線) 南古谷駅
駅前でUターンしてふじみ野市に向かって歩くと左側に”並木の大クス”(埼玉県指定天然記念物)が見えてきたが、

Photo6 並木の大クス
今回は立ち寄らずに暫く県道335を進んで新河岸川に架かる川崎橋(平成22年架け替え)を渡るとふじみ野市川崎地区に入った。
川崎橋を渡るとまもなく県道56との合流点(県道335の終点)だが今回は橋を渡ってすぐに新河岸川右岸堤防上に踏跡を見つけたので踏み入ってみた。
踏跡を辿り養老橋を越え更に進むと踏跡は崖線下の良く整備された散策道になり

Photo7 新河岸川沿いの散策道
やがて対岸に蓮光寺が見えてきた。(ページトップの写真)
先日の散策のおり不思議に思っていた蓮光寺の建物の配置(本堂山門は西向きに対し惣門は北向き)が疑問だったが、かつては本堂山門惣門と直線状に並び西向きで新河岸川に面していたが昭和8年の新河岸川の拡幅・改修工事で惣門は移動されたとのこと。納得!
散策道の終点から右折し緑地公園から道路を横切ると権現山古墳群に出た。全く時代が異なるが江戸時代の初め家康が鷹狩りのときに小山のような古墳群の上から東に広がる低湿地帯を眺めたとき、新河岸川対岸の蓮光寺が目に入り茶を所望。そのときに寺領七石を寺に与えたとか。
権現山古墳群を横切りかつては火工廠(今は大日本印刷や新日本無線、団地や学校等の公共施設となっている)の外周に沿って進み県道56に出た。

Photo8 コンフォール上野台
県道56を横切って進むと直ぐに上福岡駅でここの西側には霞ヶ丘団地が昭和34年、東側の火工廠跡には上野台団地が昭和35年に竣工し上福岡駅は昭和34年に東武鉄道(東上線ではなく東武鉄道)で初めての橋上駅になった。

Photo9 上福岡駅 東口
日本住宅公団が造成した両団地は老朽化し今はUR都市機構により再開発されて、上野台団地はコンフォール上野台に霞ヶ丘団地はコンフォール霞ヶ丘になっている。
上福岡駅で東上線を越えて線路伝いに進み、ふじみ野市と川越市の市境の跨線橋を右に見て坂道を降って市道5428を北上し清水町・稲荷町を経て坂を上り藤原町に入った。
市道5428と東上線の線路の間に建つ大型マンション”ソフィア川越四季彩の街”は

Photo10 藤原町遺跡があったところに建つマンション
縄文時代の住居跡が発掘された藤原町遺跡があったところだがそれをうかがい知るものは全く無い。
平成9年に出版された350ページに及ぶ川越市教育委員会の遺跡調査会報告書第19集も川越市中央図書館にあるのみでそれも貸し出し禁止となっているので殆ど一般人の目に触れることは無い。
川越市立博物館 を訪ねても資料は無く教育委員会を紹介されたにとどまった。
藤原町遺跡から更に市道5428を北上し市道5331市道5322を経て起点の高階市民センターに戻った。
川越五河岸と仙波河岸

Photo0 川越五河岸のうち下新河岸跡(手前)と寺尾河岸跡(奥)
記録
日程:2019,02,07
メンバー:安田
02/07天候 晴れ:
行程9.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
武蔵野台地の末端に位置する川越の東側には新河岸川が流れている。江戸時代から明治にかけてその新河岸川を利用した舟運が埼玉県西部から青梅方面までの物資輸送を担ってきが、やがて鉄道輸送の時代を迎えると舟運は衰えていった。
今日は舟運で栄えた川越五河岸と最上流に最後に開かれた仙波河岸を歩いた。新河岸川の舟運については各種の研究や出版物があるがもっとも簡潔にまとめられている みなと文化研究事業 の "川越(新河岸川)の「みなとの文化」" が参考になる。
いつものように高階市民センターから市道5322を歩き東上線の踏切を渡って市道43を東に進み緩い坂を降ると新河岸川に架かる旭橋に着く。旭橋から新河岸川の右岸上流側が①上新河岸、下流側が②下新河岸、さらに少し下ると③寺尾河岸、旭橋を渡った左岸が④牛子河岸で、さほど広くは無いところに河岸が存在していた。
旭橋を渡って左折し、新河岸川左岸堤防上を上流に向かうと直ぐに旭住宅という住宅地。

Photo1 旭住宅 右は旧九十川河道
昔の地図で見ると旧九十川と新河岸川の合流点で中州のようになっているところで大正から昭和の初めにかけての新河岸川改修で九十川の流路変更で出来たところで、昭和30年代に宅地化された。
丁度対岸にはそのときの新河岸川直線化で取り残された新河岸川の旧河道の一部がニジマスの釣堀(川越淡水魚センター)になっていたが、平成10年の洪水とその対策として実施された”激甚災害特別緊急事業”による堤防のかさ上げで今は無くなった。
川越線を走る電車を眺めながら良く整備された左岸堤防上を進むと新扇橋(平成15年)が見えてきた。かつて少し下流に扇橋があったが都市計画で上流に移動し名称も”新扇橋”となった。対岸(右岸)の辺りが⑤扇河岸が合ったところで江戸時代には最上流の河岸で、①~⑤までが川越五河岸と呼ばれていたが、明治になって更に上流に仙波河岸(明治2年)が設けられた。
新河岸旭橋の畔に河岸場跡の碑と説明板、それにコンクリートで造られた船着場があるが

Photo2 新河岸 河岸場跡
九十川の流路変更、新河岸川の直線化、堤防の強化など数回に及ぶ洪水対策でかつての面影を残すものは殆ど残っていない。
新扇橋の直ぐ上流は新河岸川と不老川の合流点で

Photo3 不老川(左)と新河岸川(右)の合流点
ここを過ぎると新河岸川は右に曲が始めJR川越線の新河岸川橋梁に差し掛かる。
昭和15年に大宮から高麗川に至る川越線が開通し、そのときに造られた鉄製橋桁のブレートガーダー橋(昭和11年)が架かっていたが、新河岸川改修工事に伴って平成22年にコンクリート製の新しい橋梁となった。
新河岸川橋梁から少し遡るとかつての川越市の下水処理場”滝ノ下終末処理場”(昭和41年から運転開始)が

Photo4 新河岸川上流水循環センター
あるが今は埼玉県に移管(平成18年)され、”新河岸川上流水循環センターとなっている。
不老川が昭和58年から3年連続で”日本一汚い川”になり、その対策の一環として水循環センターで処理した水を不老側上流の狭山市の入曽まで送り放流している。
滝ノ下橋を渡り市道を進むとR16をくぐる手前左側に仙波河岸史跡公園がある。

Photo5 仙波河岸史跡公園入口 左のトンネルの上はR16
R16は直ぐ先の崖の上、仙波河岸史跡公園は崖下になっており仙波の滝の湧水があるがこの時期は水涸れ。

Photo6 仙波河岸跡
仙波河岸の跡が整備され保存されているが子供の頃は整備されていなくて、朽ち果てた川舟が沈んでいた。
五河岸は江戸時代に繁栄していたが台地上の川越城下までは距離もあり、烏頭坂という難所もあったので明治2年に仙波河岸が開かれた。
先ほど通った市道は台地上に上がる道路だが、坂の両側は切り通しのように削られ勾配が緩くなっている。これも仙波河岸と同時期に出来たものであろう。武家社会が崩れ民衆が取って代わった時代の変わり目に出来た仙波河岸は城下の川越商人が従来の勢力に取って代わろうと開かれたのかも知れないが、川越商人の勢力もやがて外からの力、鉄道と新河岸川の洪水対策により大正になると衰え始める。
明治28年の川越鉄道(国分寺と川越間、現在の西武新宿線の一部、川越資本は殆ど参加せず))の開通でそれまでの所沢飯能入間など埼玉西部への物資輸送は舟運から鉄道に変わり川越商人の商圏は狭くなった。
仙波河岸が開かれる以前から新河岸川は川越北辺を流れる赤間川が注ぐ伊佐沼を源流としていた。伊佐沼周辺は低湿地でその後の陸上輸送には不向きだったのに対し新河岸は水量も多く緩やかな坂で台地に上がることができたので埼玉西部への陸送が容易だった。
仙波の滝から流れが注ぐ不老川は渇水する冬になると干上がってしまう”としとらず川”なので水量が少ないうえに季節変動も大きかった。以上のような要因で五河岸が繁栄したと思われる。
新河岸川の曲がりくねった河道が舟運を可能にする水量を保つ上に大きな役割を担っていたが一方洪水も多かった。
大名や旗本などが分割統治していて治水対策もままならなかった江戸時代から明治になると広い範囲で洪水対策が行えるようになり、関東平野を襲った明治43年の大洪水の対策の一環で新河岸川下流の改修が行われると水量が減った。
さらにそれまで川越城下の北辺を流れていた赤間川の流路が、

Photo7 新河岸川上流方面 この辺りから上流が昭和9年までに開鑿された
川越城の外堀の一部を利用し台地縁辺を南下して新河岸川に直結する流路に変更され、昭和9年までに田谷橋から仙波河岸付近まで開鑿され、現在のR16とR254に沿った両岸に桜並木がある新河岸川となった。
地図上では旧赤間川部分も新河岸川となっているが今でも古くからの川越市内に住む人は赤間川と呼んでいる。
仙波河岸史跡公園から坂道を上り愛宕神社に立ち寄ってR16を西進、R!&とR254の交差点の歩道橋から眺めるとここが下からJR川越線(昭和15年開通)、東上線(大正3年開通)、R254(川越街道 昭和16~20年)、R16(昭和44年)と重なっている川越の交通の要所。

Photo8 左から中央が東上線 一段低く右から中央が川越線 トンネルで東上線と交差
旧川越街道市道46とR254(現川越街道)は直ぐ先の東京寄りの烏頭坂途中で合流している。旧川越街道が出来たのが江戸初期、現在のR254は旧高階村内で出来たのが資料(高階村史)によると昭和15年。

Photo9 現在の川越街道(R254)が出来る前後の様子
そのときに市内まで一気に繋がったのかどうか調べたら思わぬところで発見した。
昭和16年の航空写真では旧高階村の県道336までしか道路が出来ていません。昭和21年の写真を見ると市内まで延びているのでおそらく昭和20年の終戦時には出来ていたのではないかと思われる。
河川改修、道路建設等の大きな工事は時間を要するのでどの部分がいつ出来たかということがなかなか解らない。公文書や文献を調べても年と年度の表記があるので判りにくい。今も昔も年度末駆け込みが多いのは相変わらず。
交差点から烏頭坂を降り旧川越街道市道46を暫く進むと不老川の御代橋。

Photo10 不老川 御代橋から上流に向かって
先日下流のR25の不老橋を車で通ったときには水が涸れていたが今日はすき無いながら水流があった。
ここから右折して不老川右岸の堤防上を歩き県道336の砂久保橋を目指した。
水は透明度があるもののやはり多少臭う。先ほど通った新河岸川上流水循環センターからの水が放流されていつのだろうが・・・・・。
不老川の両岸には住宅が建ち並んでいるが少し離れると立川面の関東ローム層の赤茶けた土の畑が広がっている。不老川の川床には拳大の角が丸い石があるので水に入っても泥に足をとられることなく、太古の時代に関東山地から流れ出た多摩川によって運ばれたものか堆積しているので
武蔵野台地(基本的には多摩川の扇状地)を東に流れる川は涸れやすい。武蔵野台地から降ると表土の黒土を集めて川床は泥深くなり台地端の崖線(仙波の滝や新河岸日枝神社下など)では水が湧いている。
砂久保橋に出たところで左折し県道336を東に進み直ぐに市道6348に右折すると砂久保共同墓地に着いた。

Photo11 将棋盤の上に乗る石川源五右衛門の墓 (中央右)
先日のブログで書いた農兵反対一揆の一方のリーダー石川源五右衛門の墓地は文献にあった”墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は将翁博石居士”を探すと墓地の中央に見出したが、裏面に記されている一揆の概要を読み取ることは出来なかった。散歩知識としては先日のブログ程度のことがわかっていればまぁ良しとするか。
共同墓地から再び市道に戻り五ツ又で市道に右折、近道を歩こうと思い途中で左折してみたがぐるりリ巡ってもとの道に出てしまった。結局市道6324から市道6325を経て高階市民センターに戻った。
川越市 高階地区の時代の変わり目の出来事

Photo0 武蔵野の雑木林は昔と変わらず。落ち葉や枯れ枝は集められています。
記録
日程:2019,02,01
メンバー:安田
02/01天候 晴れ:
行程9.1km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
江戸から明治、昭和になると大東亜戦争で政治が一変し人々の暮らしも大きく変化した。高階地区でも江戸から明治への移り変わりのときと昭和20年に大きな事件があったので今日はその痕跡を求めて歩いた。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325を南下、市道5332に突き当たったところで左折して道なりに進み東上線と市道44を越えると右側に花山稲荷宮がある。昭和20年4月24日午前にB29がこのあたりに墜落した。

Photo1 花山稲荷宮 この辺りにB29が墜落
当時空襲を避けるため東上線の電車が停車している近くにB29が墜落したので乗客は電車から降りて見学に押し寄せたと言う。B29の搭乗者はパラシュートで脱出し付近に着陸後に捉えられて高階村役場に連行された。戦争中だったので犠牲者の家族、鎌や鍬の農具や竹槍を持った人たちが押し寄せて忙殺寸前の状態だったが押しとどめて当時貴重だった”サツマイモ”を与え身振り手振りで食べ方を教えて命を救ったといわれる。
当時の若者は兵役か軍需工場の動員に駆出され地元に残っている大人はわずかだったので目撃者は殆ど亡くなっているがいまだに地元では語り継がれている。
この花山稲荷宮は明治41年に寺尾日枝神社に合祀されたがその後他所で独立していた。しかし旧地である現在の場所に戻ったのが昭和251年と言うことなのでお稲荷さんは丁度B29の墜落を避けていたことになる。
花山稲荷宮から少し進んで右折し古くからの道市道5341を進んで市道5304市道5310を経て新河岸駅に抜けた。新河岸駅は平成29年に川越寄りに移動して東西を結ぶ通路を持った橋上駅舎となった。新河岸駅については次の機会に譲る。
新河岸駅から市道5302でR254に出て市道47を進み市道46に左折、高階幼稚園裏で右折して市道48を進み五ツ又で左折して市道6324を南下、市道6334を道なりに進んだ。
市道50と合流、この辺りから市道50は”河岸街道”と呼ばれるらしい。初雁高校、川越南文化会館(ジョイフル)を過ぎ市道52との交差点で左折した。この交差点の左側に”肥料共同購入”の記念碑が建っている。
市道52の周囲が畑から広葉樹の雑木林に変わり緩い坂を登ると砂久保地区の共同墓地横に出た。道路の交点にある墓地は周囲を武蔵野の雑木林に取り囲まれていて子供の頃と殆ど変わらない雰囲気だ。ここに農兵反対一揆のリーダーの一人砂久保の源五右衛門の墓があると思い、始めて共同墓地に入り込んでみることにした。
ここで川越の農兵反対一揆について触れておく。
江戸から明治への転換期、川越城主は幕府の重職だったので江戸湾(東京湾)のお台場警備による財政負担や武士の人員不足、慶応2年の天候不順にる農作物(麦作、養蚕)の不作による武州一揆の発生と鎮圧など騒然とする中、費用は村負担で農民を取り立てて農兵として家臣団の補強を行い領内の治安維持を図ろうとした。
年貢以外に農兵の費用が村に押し付けられることに反発して、代表が江戸の藩邸へ直訴に向かう途中で引き戻され指導者は牢に入れられたがそのうちのリーダーだった砂久保の源五右衛門と藤間の浅右衛門2名は永牢となり、川越藩主が前橋に転封となったのちも身柄を前橋に移され、幕府滅亡後の明治元年12月21日に釈放された。
(参考:川越市史第三巻近世編 昭和58年発行)
その後源五右衛門は石川姓を名乗り福原小学校の教員となり教育にあたったのち77歳で永眠し砂久保共同墓地に埋葬された。墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は”将翁博石居士”、裏面には一揆の概要が記されている。一方藤間の浅右衛門は細川姓を名乗り、自宅で商売を営み生前東光寺に辞世の句を刻んだ墓碑を建て86歳で永眠した。
墓碑に刻まれた戒名は”細川院文翁居士”辞世の句は「生まれきて 世の憂き山の道過し 今は帰らんみ仏の浄土へ」と写真とともに紹介されている。
(参考:小泉功著 ”川越歴史散歩”1995年初版一刷)
(本中の農兵反対の一揆の項で名前と記述と写真のタイトルに乱れがあります。熟読の上理解ください)
先日の散策のときに石標で砂久保共同墓地であることを確認しておいたので中を探しまわってみたが源五右衛門の墓に該当するものは見つからなかった。
帰宅後いろいろ調べたら砂久保地区には共同墓地が2ヶ所あることが判ったので次の機会に訪れてみることにする。
共同墓地から戻り、市道52の反対側の雑木林の中にある胞衣(えな:胎盤や卵膜など後産の際に体外に出されるもの)を収めたと伝えられる祠を訪れた。

Photo2 胞衣(えな)を納めたか埋めた祠 みかんが供えられていた
今では病院での出産が普通だがかつては自宅出産だったので胞衣をここに納めたあるいは埋めた名残であろう。雑木林は落葉し、落ち葉も掃き集められたこの時期だと道路からも祠を見出すことが出来る。
再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。

Photo3 開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)
再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道46と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。”首切り地蔵”ともいわれかつては川越藩の処刑場”御仕置場”が在ったところで川越市内にはもう一ヶ所、上野田町にも刑場があった。
子供の頃先生が斬首のときの音は”濡れ手ぬぐいを両手で横に広げて持ち、勢い良く水を払うときの”バサッと言う音だ”と実演してくれたが、先生もまさか実際に聞いたわけでもないだろう。
開明地蔵大菩薩から市道46を進み下り坂の途中にある東光寺に農兵反対一揆のリーダーの一人藤間の浅右衛門の墓がある。

Photo4 東光寺
藤間東光寺で尋ねると解らないとのことなので小泉功著の”川越歴史散歩”(高階図書館蔵)の本に写真が載っていることを告げると本の存在もご存知無かったのでしょう。
早々に辞して若くして亡くなった友人の墓参を済ませ水屋に戻ると横にある武甲山遭難慰霊碑の後ろに

Photo5 武甲山遭難慰霊碑 この後ろに浅右衛門 細川院文翁居士の墓があります
”川越歴史散歩”に写真が載っている浅右衛門の墓を発見。もう少し注意深く見渡せば所在を聞かなくても直ぐに見出せたのでしょう。諸般の事情により写真は載せられませんが細く背の高い墓碑なので直ぐに見出せるでしょう。
東光寺から坂を降り市道6399に左折、もう一度左折して狭い市道6400から市道6398へと進みR254を横断、藤間白ゆり幼稚園の角を曲がって高階市民センターへ戻った。
川越市史の直訴総代階層票には砂久保源右衛門持高3.5石・生業農外車引渡世、藤間右衛門持高0.9石・農間飲酒餅菓子商・易者取締小前とありますから富農ではなかった。しかし片や小学校教員を務め、片や墓石に辞世の句を残すなど知識教養人だったのでしょう。直訴ご法度の時代から一変した明治の新しい時代を生きた人たちが墓からも自分たちの生き様を後世に語り伝えようとしています。