川越市 高階地区の小学校

Photo0 高階地区で最も歴史が長い高階小学校
記録
日程:2019,01,22
メンバー:安田
01/22 天候 晴れ:
行程12.5km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
かつては高階地区に1校しかなかった小学校が人口増加に伴い今では5校になった。先日のブログで高階地区の小学校のルーツが川越市渋井の蓮光寺だということに触れたので今回は高階地区の小学校を巡ってみた。
まだ高階村成立以前の砂新田、藤間村、寺尾村、上新河岸村、下新河岸村、扇河岸村、砂村と分かれていた時代の明治5年に学制が発せられ、それまでの寺子屋をもとに渋井の蓮光寺にできた渋井学校の分教場として明治7年に砂学校、藤間学校、江川学校が設けられ、明治8年にそれぞれ独立した。
明治22年に上記7ヶ村が合併して高階村が成立すると明治24年には砂学校は高階尋常小学校、藤間学校は藤間尋常小学校とそれぞれ改称し、明治33年には尋常小学校の授業料が無償化された。
この間に江川学校の名前が消えている。古い地図を見ると藤間学校は民家が並ぶ川越街道沿いに、砂学校も舟運で栄えた新河岸に近く更に川越城下への道筋にあったので相応の就学児がいたと思われるが、寺尾にあった江川学校は台地端で坂を降ると湿地帯が広がっており民家が少なく就学児数も限られていたのでやがて藤間学校や砂学校に通うようになったと思われる。
明治36に氷川神社の西側に高階尋常小学校の新校舎が出来て勝光寺から移転し、高階村の教育は北部を高階尋常小学校、南部を藤間尋常小学校が担うことになった。
大正12年になると藤間尋常小学校と砂の高階尋常小学校が統合されて高階尋常小学校が発足し、東上線の開通新河岸駅の開業を経て経済的、地理的に高階村のほぼ中心である現在位置に昭和2年に高階尋常高等小学校が開校した。
昭和16年に高階国民学校、昭和22年には高階村立高階小学校と改称、昭和30年に川越市と高階村が合併し高川越市立高階小学校となったが、それの以降急激な人口増加によって昭和40年代には高階地区に新たに小学校が4校開校した。
小学校の歴史を時代順に歩くと複雑なコースとなるので今回は一筆書きになるような時計回りで巡るコースを選んだ。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5332,市道5425を通り稲荷町の坂を降って高階南小学校(昭和44年高階小学校分校、昭和45年開校)を半周した。

Photo1 高階南小学校
もちろんかなり昔のことなので藤間学校の痕跡すらなく、今では境内の一隅が幼稚園になっている。

Photo2 藤間学校があった東光寺
東光寺から市道6409を西に進み、高階西小学校(昭和49年開校)を訪れた。

Photo3 高階西小学校
ここでは正門が開放されていたので校庭内に入り込んで写真撮影。何処の学校でも周囲は金網のフェンスで囲まれているが、ところによっては更に内側にネットが張り巡らされている。諸事情によるとは思うが・・・・・もっと開放的であって欲しいものだ。
子供の頃は放課後一度帰宅してから再び校庭に戻って遊んだり、あちこちへ出掛ける待ち合わせ場所でもあったので小学校は今よりもっと身近だったように思う。
高階西小学校から始めて西中学校(昭和60年開校)に向かったが案内板に従うと道は正門で行き止まり。仕方がないので畑を横切って市道6391に出て更に西へ進む。
このあたり武蔵野の面影を残す雑木林が続き、”武蔵野ふれあいの森”として林の中に散歩道があるが先を急ぐので今日はパス。

Photo4すっかり落葉したナラやクヌ 緑の松が混じる雑木林
市道6387に出て二又で折り返し市道49に入る。

Photo5 二又 左から来て右へ折り返す 左の道は砂利道
この道は川越市文化会館ジョイフル(平成6年)とゴルフ練習場のトミーゴルフプラザ、初雁高校(昭和58年)で分断されてしまっているが現在の市道6319とは一直線の道だった。二又からトミーゴルフプラザまでの間は昔と変わらぬ砂利道、中学生の頃体育の授業で走らされた頃と殆ど変わっていない。
五ツ又の交差点を過ぎると市道49は市道6319となって区画整理地域に入る。かつて一面の畑だったところには同じような住宅が建ち並び 何処が何処やら戸惑いながら住宅の隙間から垣間見る高階北小学校(昭和48年開校)を目指して漸く辿りついた。

Photo6 高階北小学校
高階北小学校から砂学校があった勝光寺へは県道336今福木野目線を歩いたほうが距離が短いが、先日歩いているので今回は別の古くからの道を歩こうと思いいったん県道336に出てから右折し市道6280市道6275市道6274市道5299を歩いて再び県道336に出た。

Photo7 砂学校があった勝光寺
勝光寺にも砂学校の痕跡は皆無。ここから少し歩いて高階尋常小学校があった砂氷川神社西側は今では住宅が建ち並んでいるので立ち寄らずに氷川神社前を直進、古くからの道、市道5318市、道5339、市道5335、市道5381を伝って江川学校があった寺尾の勝福寺に向かった。

Photo8 江川学校があった勝福寺 本堂前の天水桶や香炉には三つ葉葵の寺紋
遊びまわっていた子供の頃は気にも止めなかったが勝福寺の天水桶に描かれた寺紋は三つ葉葵、天台宗なので川越喜多院と結びつきが深かったようだ。喜多院といえば徳川家康の側近の天海が住持だったのでその縁によるのか?寺尾調整池周辺のブログでも触れたが家康、家光の鷹狩りもこのあたりで行われたようなのでその折には寺にも立ち寄ったであろう。
余談だが天海が開いた東京上野の東叡山寛永寺は慶応4年に彰義隊が上野のお山で戦った折に殆ど消失してしまったので、今の根本中堂は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築したものです。
勝福寺から坂を降って寺尾中学校横を通り抜け寺尾小学校(昭和53年開校)へと進んだ。

Photo9 寺尾小学校
前回とは川越市とふじみ野市の市境を歩こうと試みたが入り組んでいて良く解らず。
市道5455に出て直ぐに右折、ここでも記憶を頼りに古くからの道を歩き寺尾地区を通り抜けて市道44に出た。市道43に出て東上線踏切を渡り市道43を西に進むと高階小学校。

Photo10 木造の高階小学校 バスケットボールのポールがあるので昭和30年代か
かつては市道44に面して立派な門があり校舎へ向かうのには校庭の真ん中を横切らなければならなかった。今では正門は閉ざされたままで門柱のみが残っている。
私が学んでいた頃の校舎は大正13~14年の竣工、昭和2年の開校時と殆ど変化なく木造平屋の校舎で中央にあったモルタル造りの2階建て本館を挟んで東西の後ろには開校時からの裏西側校舎と戦後の昭和28年に出来た裏東校舎があり、3教室ほどのあたらしい校舎は6年生が使っていた。
高階小学校からは市道5324に出て高階市民センターへと戻った。
現在の小学校の校舎はどれを見ても似たり寄ったりで基本パターンと言ったものがあるのだろうかこれと言った特徴がない。かつての木造時代の高階小学校には新河岸の舟問屋”伊勢安”から寄付された講堂があり、今全景の写真を見ても個性的でと堂々としている。
村に唯一の学校(当時はまだ中学校はない)を建てたときの高階村の教育に対する熱意が伝わってくる。
松本の開智学校を始め各地に残る古い小学校のなんと個性的なことか。今の画一的な建物の校舎で学んだ人たちからは熱意や個性が生まれないのでは。