2019年01月の全記事一覧
- 01/28 川越市 藤間地区 かつての行政区界探し
- 01/23 川越市 高階地区の小学校
- 01/20 新河岸川の旧河道と力石 古市場 渋井
- 01/17 川越市 新河岸周辺 河川改修の跡を追って
- 01/14 高階五社と力石
- 01/11 川越市高階地区 寺尾調整池周辺
- 01/08 藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り
- 01/06 川越市高階地区散歩 藤間周回
川越市 藤間地区 かつての行政区界探し

Photo0 送電鉄塔下を通る高階村の行政区界
記録
日程:2019,01,27
メンバー:安田
01/27天候 晴れ:
行程9.1km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
今は川越市高階地区、合併する以前は高階村だった。高階村と周囲の村の行政区界を偶然見つけたので現在の地図に反映してみると市道になっていないところが何箇所かあった。
明治6年の地租改正とそれに伴う明治7年の地籍編成事業で地主の住所で何処の村に所属するかきめられたので道でないところも土地の所有者で区界がきめられた名残であろう。専門家ではないので良く解らないが・・・・・飛び地もおそらくそのような理由で出来てしまったのだろう。
かつての区界をまたいで今は住宅となっているところもあるが今回は高階南西部の区界探しに歩いてみた。
いつものように高階市民センターを出発し東に向かって市道5322を歩き東上線の新河岸踏切へ、踏切を渡って直ぐに左折し昭和60年に出来た地下道を歩いて線路の反対側へ出た。
新河岸駅に電車が停車している間も踏切が閉まっている時間が長く、特に朝夕は踏切を通る車も多いので歩行者用の地下道が出来た。
この地下道内部の東面には舟運が盛んなときの新河岸川の風景を、

Photo1 地下道のモザイク画 新河岸川
西面には杉並木の川越街道を人馬が行き交う風景を描いた素晴らしいタイルモザイク画がある。一見の価値あり。

Photo2 地下道のモザイク画 川越街道
地下道から出て新河岸踏切まで戻り、緩やかな坂を登って砂新田地区と藤間地区の境界となっている市道5321を西に進むとR254と交差する直前で緩やかな降りになる。
右側にある高階地区自主地域防犯センター”高階254ステーション”には平成20年に高階市民センターが出来るまで川越市役所の高階支所と高階公民館があった。
市道5321を挟んで左側にはかつて高階駐在所があったが記憶によると平成20年代後半に廃止され今では住宅となっている。
高階254ステーションと市道5321の間には小さな花壇がありその中にかつて新河岸踏切のところにあった道祖神が移されている。

Photo3 新河岸踏切のところにあった道祖神
東上線開通(大正3年)以前は市道5321と市道44が踏切のところで交差していたので道祖神はそこにあったと思われるが東上線建設で踏切横に移動。地図を見ると痕跡でわかるが解るが鉄道で分断されるまで市道44と市道6301は一直線の道だった。
道祖神が踏切横にあったのを覚えているので高階支所(昭和47年)が出来てから移動したものと思われる。
坂を降った右側には川越中央消防所高階分署(高階254ステーションの一階部分)、目の前には高階地区に2箇所ある歩道橋の1つ高階歩道橋がある。

Photo4 高階歩道橋
かなり古い歩道橋で出来たのは昭和42年、近くにある高階中学校のために設けられたと思うがなぜか階段は中学校とは逆向き。
歩道橋の近くにある市道43とR254の交差点にある信号機が出来たのが昭和39年、設置予算のことが市報に載るような時代だったので川越市内でも早かったのだろう。
信号設置の時期は調べても解らず記憶に頼ったが、歩道橋の設置時期は国土交通省の資料で判明した。
道祖神は諸般の事情で簡単に移動出来ても、信号や歩道橋は道路がなくならない限り他所へ移動したり消滅しないので交通の安全を願う現代の道祖神といえる。
歩道橋を渡り市道6325に出て川越街道市道46に入り南下、直ぐに右折して市道6333を進んだ。今は市道6325が市道46道から更に先へ延びているがかつては市道46までだった。
市道6333から市道50に出て初雁高校を過ぎ、左折して川越南文化会館”ジョイフル”の横を抜けると、

Photo5 川越南文化会館 ジョイフル
武蔵野の面影を残す雑木林の中を巡る”森のさんぽ道”の入口。

Photo6 森のさんぽ道入口
子供の頃に中を探検した雑木林だが遊歩道が整備され歩く人が多いのか小路に落ち葉は無く、土の路面が現われていた。

Photo7 武蔵野の面影が残る雑木林の中の小路
かつて正月が過ぎると農家では家族総出で落ち葉を熊手で掻き集めて堆肥を作っていたので、雑木林が管理され下草が茂ったり落ち葉が堆積して残ることも無かったが今は遊歩道から外れると落ち葉がいっぱい。
ナラやクヌギは薪にするので成長して直径が10~20cmになると切り倒され、残った切り株から新たに芽吹いて木が育という循環をしていたのでそれほど高木は無かったが今では手入れをしないので高木が多い。カブトムシやクワガタの宝庫でもあったが・・・・。
森のさんぽ道の要所には番号が書かれた道標が立っているが、勝手知ったところとばかりに昔と違って踏跡の濃い小路をそのまま進んだらいつの間にか今福の松原地区だった。
農家の庭先を抜けて市道51に出て左折し高階村との区界になっている市道52に復帰すべく東へ進んだ。
途中、今まで訪れたことが無い下松原の稲荷神社に立ち寄ると

Photo8 中央の稲荷神社本殿と左側の愛宕神社
本殿左側の小山の上にある境内社のひとつ愛宕神社に力石を発見。

Photo9 愛宕神社の前に置かれた力石
今までの経験によると鳥居付近に力石が置かれていることが多いので再び鳥居まで戻ってみると

Photo10 稲荷神社の鳥居
やはり左右の柱のそばに石が置かれていたが、

Photo11 鳥居左側の力石
左の石は力石と思われるが右の石についてはは少し自信が無い。
帰宅手持ち資料を調べると記載されていないので直ぐに専門家に連絡、後ほど実際に確認していただくことに成った。
下松原の稲荷神社から更に北東方向に進み高階西小学校のところで右折、市道6420を南下し現在は市道と認定されていない地図に示した区界Aを探したが民家が建ち並んでいて良く解らない。次に区界Bを探すと送電鉄塔下を通る農道があった。
このあたりには畑が広がっているので野菜が栽培される時期になれば畑と畑の境界が解りやすくなるだろう。そのときには農作業中の人を見つけだし聞けば良さそうだ。
乾燥して土がパフパフの区界の農道を歩き市道6525に抜け高階南公共広場のところで左折して市道6415から市道6418を通り、市道46の旧川越街道に出て
川越市とふじみ野市の市境へ向かった。旧川越街道とR254の合流点あるのが高階地区にあるもう一つの歩道橋で昭和45年に出来た藤間歩道橋。

Photo12 藤間歩道橋
これで高階地区の歩道橋を2つ確認できたので帰路は車で立ち入ることの無い古くからの道、市道6406から市道6405を通り抜け再び市道46に出て高階支民センターへと戻った。
先日寺尾調整池を歩いた折に改修中の江川都市下水路の写真を撮った歩道橋、川越市とふじみ野市と市境にある歩道橋は西沼歩道橋といい平成6年に出来たふじみ野市管理の歩道橋です。
今日の散策の目的、区界探しは一勝一負ながら途中で立ち寄った下松原の稲荷神社で手持ち資料には無い力石を見つけた。
ただ歩くだけでなく目をキョロキョロして歩けば思わぬものを発見できるものだ。歩道橋を確認し出来た時期を特定しようなどと思う者は私ぐらいだと思うがただ歩くだけの身体の健康管理だけでなく頭の健康管理にも役立つ。
川越市 高階地区の小学校

Photo0 高階地区で最も歴史が長い高階小学校
記録
日程:2019,01,22
メンバー:安田
01/22 天候 晴れ:
行程12.5km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
かつては高階地区に1校しかなかった小学校が人口増加に伴い今では5校になった。先日のブログで高階地区の小学校のルーツが川越市渋井の蓮光寺だということに触れたので今回は高階地区の小学校を巡ってみた。
まだ高階村成立以前の砂新田、藤間村、寺尾村、上新河岸村、下新河岸村、扇河岸村、砂村と分かれていた時代の明治5年に学制が発せられ、それまでの寺子屋をもとに渋井の蓮光寺にできた渋井学校の分教場として明治7年に砂学校、藤間学校、江川学校が設けられ、明治8年にそれぞれ独立した。
明治22年に上記7ヶ村が合併して高階村が成立すると明治24年には砂学校は高階尋常小学校、藤間学校は藤間尋常小学校とそれぞれ改称し、明治33年には尋常小学校の授業料が無償化された。
この間に江川学校の名前が消えている。古い地図を見ると藤間学校は民家が並ぶ川越街道沿いに、砂学校も舟運で栄えた新河岸に近く更に川越城下への道筋にあったので相応の就学児がいたと思われるが、寺尾にあった江川学校は台地端で坂を降ると湿地帯が広がっており民家が少なく就学児数も限られていたのでやがて藤間学校や砂学校に通うようになったと思われる。
明治36に氷川神社の西側に高階尋常小学校の新校舎が出来て勝光寺から移転し、高階村の教育は北部を高階尋常小学校、南部を藤間尋常小学校が担うことになった。
大正12年になると藤間尋常小学校と砂の高階尋常小学校が統合されて高階尋常小学校が発足し、東上線の開通新河岸駅の開業を経て経済的、地理的に高階村のほぼ中心である現在位置に昭和2年に高階尋常高等小学校が開校した。
昭和16年に高階国民学校、昭和22年には高階村立高階小学校と改称、昭和30年に川越市と高階村が合併し高川越市立高階小学校となったが、それの以降急激な人口増加によって昭和40年代には高階地区に新たに小学校が4校開校した。
小学校の歴史を時代順に歩くと複雑なコースとなるので今回は一筆書きになるような時計回りで巡るコースを選んだ。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5332,市道5425を通り稲荷町の坂を降って高階南小学校(昭和44年高階小学校分校、昭和45年開校)を半周した。

Photo1 高階南小学校
もちろんかなり昔のことなので藤間学校の痕跡すらなく、今では境内の一隅が幼稚園になっている。

Photo2 藤間学校があった東光寺
東光寺から市道6409を西に進み、高階西小学校(昭和49年開校)を訪れた。

Photo3 高階西小学校
ここでは正門が開放されていたので校庭内に入り込んで写真撮影。何処の学校でも周囲は金網のフェンスで囲まれているが、ところによっては更に内側にネットが張り巡らされている。諸事情によるとは思うが・・・・・もっと開放的であって欲しいものだ。
子供の頃は放課後一度帰宅してから再び校庭に戻って遊んだり、あちこちへ出掛ける待ち合わせ場所でもあったので小学校は今よりもっと身近だったように思う。
高階西小学校から始めて西中学校(昭和60年開校)に向かったが案内板に従うと道は正門で行き止まり。仕方がないので畑を横切って市道6391に出て更に西へ進む。
このあたり武蔵野の面影を残す雑木林が続き、”武蔵野ふれあいの森”として林の中に散歩道があるが先を急ぐので今日はパス。

Photo4すっかり落葉したナラやクヌ 緑の松が混じる雑木林
市道6387に出て二又で折り返し市道49に入る。

Photo5 二又 左から来て右へ折り返す 左の道は砂利道
この道は川越市文化会館ジョイフル(平成6年)とゴルフ練習場のトミーゴルフプラザ、初雁高校(昭和58年)で分断されてしまっているが現在の市道6319とは一直線の道だった。二又からトミーゴルフプラザまでの間は昔と変わらぬ砂利道、中学生の頃体育の授業で走らされた頃と殆ど変わっていない。
五ツ又の交差点を過ぎると市道49は市道6319となって区画整理地域に入る。かつて一面の畑だったところには同じような住宅が建ち並び 何処が何処やら戸惑いながら住宅の隙間から垣間見る高階北小学校(昭和48年開校)を目指して漸く辿りついた。

Photo6 高階北小学校
高階北小学校から砂学校があった勝光寺へは県道336今福木野目線を歩いたほうが距離が短いが、先日歩いているので今回は別の古くからの道を歩こうと思いいったん県道336に出てから右折し市道6280市道6275市道6274市道5299を歩いて再び県道336に出た。

Photo7 砂学校があった勝光寺
勝光寺にも砂学校の痕跡は皆無。ここから少し歩いて高階尋常小学校があった砂氷川神社西側は今では住宅が建ち並んでいるので立ち寄らずに氷川神社前を直進、古くからの道、市道5318市、道5339、市道5335、市道5381を伝って江川学校があった寺尾の勝福寺に向かった。

Photo8 江川学校があった勝福寺 本堂前の天水桶や香炉には三つ葉葵の寺紋
遊びまわっていた子供の頃は気にも止めなかったが勝福寺の天水桶に描かれた寺紋は三つ葉葵、天台宗なので川越喜多院と結びつきが深かったようだ。喜多院といえば徳川家康の側近の天海が住持だったのでその縁によるのか?寺尾調整池周辺のブログでも触れたが家康、家光の鷹狩りもこのあたりで行われたようなのでその折には寺にも立ち寄ったであろう。
余談だが天海が開いた東京上野の東叡山寛永寺は慶応4年に彰義隊が上野のお山で戦った折に殆ど消失してしまったので、今の根本中堂は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築したものです。
勝福寺から坂を降って寺尾中学校横を通り抜け寺尾小学校(昭和53年開校)へと進んだ。

Photo9 寺尾小学校
前回とは川越市とふじみ野市の市境を歩こうと試みたが入り組んでいて良く解らず。
市道5455に出て直ぐに右折、ここでも記憶を頼りに古くからの道を歩き寺尾地区を通り抜けて市道44に出た。市道43に出て東上線踏切を渡り市道43を西に進むと高階小学校。

Photo10 木造の高階小学校 バスケットボールのポールがあるので昭和30年代か
かつては市道44に面して立派な門があり校舎へ向かうのには校庭の真ん中を横切らなければならなかった。今では正門は閉ざされたままで門柱のみが残っている。
私が学んでいた頃の校舎は大正13~14年の竣工、昭和2年の開校時と殆ど変化なく木造平屋の校舎で中央にあったモルタル造りの2階建て本館を挟んで東西の後ろには開校時からの裏西側校舎と戦後の昭和28年に出来た裏東校舎があり、3教室ほどのあたらしい校舎は6年生が使っていた。
高階小学校からは市道5324に出て高階市民センターへと戻った。
現在の小学校の校舎はどれを見ても似たり寄ったりで基本パターンと言ったものがあるのだろうかこれと言った特徴がない。かつての木造時代の高階小学校には新河岸の舟問屋”伊勢安”から寄付された講堂があり、今全景の写真を見ても個性的でと堂々としている。
村に唯一の学校(当時はまだ中学校はない)を建てたときの高階村の教育に対する熱意が伝わってくる。
松本の開智学校を始め各地に残る古い小学校のなんと個性的なことか。今の画一的な建物の校舎で学んだ人たちからは熱意や個性が生まれないのでは。
新河岸川の旧河道と力石 古市場 渋井

Photo0 新河岸川旧河道 富士見川越バイパスからの風景 富士山も見えた
記録
日程:2019,01,19
メンバー:安田
01/19天候 晴れ:
行程9.7km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
旧新河岸川の下流側の河道を辿るついでに先日の寺尾調整池周回のときに見つからなかった江川都市排水路と北江川の合流点を探しに出かけた。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5332に出て直進、東上線踏切を渡って三角地帯で右折し市道5341から市道5353へ進み、

Photo1 寺尾の後原(せどはら) 台地の上は北風による畑土飛散防止の麦畑
市道5367で寺尾の台地を抜けて寺尾調整池に出た。
新河岸川上空を優雅に飛ぶ白鷺を見ながら新河岸川の堤防上を進み江川都市下水路の樋門で右折、

Photo2 新河岸川で餌の小魚を狙うサギ
江川都市下水路右岸の葦原中学校横を進むと対岸にある元福小学校と寺尾調整池の間の道路の下辺りに流出口らしきものがあった。

Photo3 北江川の江川都市下水路への流入点
出口には蓋があり北江川から水圧がかかると蓋が開き、江川都市下水路側からは逆流しない構造になっている。地図で見ると寺尾調整池が出来る前とおなじ位置。
宿題を終えたところで再び新河岸川堤防に戻り、下流へと向かうと直ぐに県道335並木川崎線の川崎橋。

Photo4 新河岸川を越える県道335の川崎橋
少し前まで架け替え工事をしていたが完成したのはいつだったか?平成10年の激特事業の新河岸川改修と同時期だったと思うが記憶が曖昧。
よく欄干の親柱のところに橋の名称と竣工年月日の銘板があるが、ここには名称しか書かれていない。架橋時ならたいしてお金が掛からないはずなので竣工年月日ぐらい書いたらどうでしょうかね。
川崎橋を渡り直ぐに右折。

Photo5 新河岸川の旧河道
新河岸川旧河道左側に沿って重機のキャタピラー跡を進むと直ぐに消失したので畦道を通って市道4385に出た。
旧河道に沿って進みR254富士見川越バイパスのサイクリング道兼歩道に出て南下。現在の新河岸川と昭和初期の河川改修で出来た新河岸川の旧河道に囲まれた部分はふじみ野市。一面に田圃が広がり建物が無いため見晴が良く写真では解りにくいが冨士山が見える。
歩道を暫く進んで信号のある交差点で市道38に右折すると直ぐに古市場氷川神社の前に出た。
道路横にある左右の幟掲揚石柱の手前に力石と見受けられるものがそれぞれ1個ずつ置かれていた 。右側の石には刻字があるが左側の石には無く、手持ち資料によるとこの神社にはある力石は1個ということなので右側のものだけが力石?刻字が無い左側の石も素人目には形、大きさともに力石のように見えるのだが。

Photo6 古市場氷川神社の力石
両者ともに土に埋もれかかっているがわざわざ左右の石柱のところに置かれているので地元の人たちは両方とも力石と見なしているのかも知れない。掘り起こせば刻字が出てくるかもと思いつつもひ弱な現代人では転がして確認できそうも無い。
この古市場氷川神社では見慣れた狛犬の前に始めてみる大理石製の狛犬があった。

Photo7 手前は大理石の獅子 奥は良く見かける狛犬
獅子宮氷川神社とも書かれたものがあったので獅子かとも思ったが良く解らないので調べてみたら獅子像も狛犬と言い、大陸から伝わった当所は獅子だったらしい。
不思議に思ったこと、解らないことをネット検索しながらブログを書くので時間がかかる。今回の得た知識は狛犬と親柱。橋の欄干は知っていが欄干の一番隅の柱を親柱と言うこことは知らなかった。
古市場氷神社の直ぐ後ろが河道なので忠実に辿ろうとしたがとても無理なのでなるべく旧河道に沿うように道路を歩き、

Photo8 古市場氷川神社裏の新河岸川旧河道
民家のブロック塀の間から旧河道に出て踏跡の無い草の土手を進み排水機場の横を抜けて新河岸川の堤防に出ると直ぐに県道56さいたまふじみ野所沢線の養老橋に出た。
更に堤防上を対岸の福岡河岸と福岡河岸記念館を見ながら進み蓮光寺を訪れた。

Photo9 川辺が河岸場 左奥の黒い建物が河岸場記念館
蓮光寺は立派な門構えの寺だが山門と総門が違う方向を向いている。山門・本堂ともには西向きで道路を隔てた新河岸川の土手、更にはその先の台地の方に向いて建っているのに対し、江戸時代の総門は新河岸川と直角で川越城下に向かって建っているのは、

Photo10 川越城下の方を向く蓮光寺総門
長禄二年(1458)に開かれたという蓮光寺の長い年月の歴史の間に氾濫を繰り返し、流路を変えた新河岸川の影響があるのかも知れない。
蓮光寺は高階の近代教育のルーツでもある。明治5年に初めて学制(太政官第214号)が発せられ蓮光寺に学校が出来、その後高階の砂の勝光寺と寺尾の勝福寺、藤間の東光寺に蓮光寺学校の分教場が出来て、明治8年にはそれぞれが砂学校、寺尾は江川学校、藤間学校として独立した。以降の推移については後日散策予定。
蓮光寺から往路の堤防上の道ではなく参道を経て県道56へ出て養老橋へと戻った。

Photo11 県道56の養老橋
養老橋の親柱には平成十三年三月竣工と書かれていたので平成10年以降の激特法以前から進められていた埼玉県による新河岸川流域河川改修の一環として架け替えられたものであろう。養老橋で対岸に渡り直ぐに左折、新河岸と同じように整備された河岸場の横を通り直ぐに右折して坂道を上がってゆくと右側に福岡河岸で回漕問屋を営んでいた福田屋の建物が福岡河岸記念館として保存公開海されている。今回は立ち寄らずに県道335に出て、立ち並ぶ住宅の中に張り巡らされた網目のような道から古道を探しつつふじみ野市から川越市域に入り高階市民センターへと戻った。

Photo12 1918年の地図に描かれている二又分岐
住宅が立ち並び自分の位置さえ良く解らなくなるようなところでは所では行き止まりが多い。行き止まりかどうか見分けるコツは道幅で4m程度なら通り抜けることが出来るが6mなら行き止まり。更に新しく出来た道か古くからの道かを見分けるには道の曲がり具合。古くからの道はくねくね曲がっていることが多い。山なら踏跡と周囲の地形で判断できるが込み入っていて高い建物など目印となりそうな物の見通しが利かない市街地では数百メートル進むのも難しい。
追記
雨宮清子(ちから姫)さんからコメントいただきました。
古市場氷川神社の石は両方とも力石として記録されているとのことです。神社は舟運で賑わった福岡河岸にも近く、昭和の大改修以前は新河岸川が直ぐ裏を流れていたので
力仕事の人たちも多く、その上境内の前は直ぐ道なので行き交う若い娘たちの視線を浴びて若衆たちが力自慢を争ったのでしょう。
川越市 新河岸周辺 河川改修の跡を追って

Photo0 新河岸川対岸の寺尾調整池付近 水辺にはサギの姿も
記録
日程:2019,01,16
メンバー:安田
01/16天候 晴れ:
行程9.6km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
寺尾調整池から新河岸周辺を歩いたときに遊びまわっていた当時との地形の変化に驚いた。
平成10年8月の台風4号による大雨で新河岸川があふれたため河川激甚災害特別緊急事業(激特法)に指定され、5年間にわたる新河岸川の河川改修工事で寺尾調整池の設置や樋門、排水機場の新増設や整備が行われた。
今回は高階市民センター横の市道5325を北上し市道5321を通って市道43に出て東上線踏切を越え東に向かって直進。2005年に17年に架け替えられた旭橋を渡って牛子地区に入った。

Photo1 県道今福木野目線 新河岸川旭橋
このあたりは新河岸川の舟運が栄えていた時代には地形の変遷でも解るように九十川(くじゅうがわ)と新河岸川の合流点だった(図中Ⅰ)が、

Photo2 新河岸川旭橋周辺の地形変化
大正11年から昭和6年にわたる新河岸川改修工事で九十川の流路が変更になり合流点は新河岸川のずっと下流に変更された(図中Ⅱ)。
やがて中州だったところは整備され住宅が立ち並ぶようになった(図中Ⅲ)。ちょうど私がこのあたりを遊びまわっていた子供時代です。
そして平成10年の水害で激特法が適用され新河岸川の河川改修の結果、旧河川の旭住宅周辺の河道が少し変更になった(図中Ⅳ)。
旭住宅は新河岸川の向こう側にあるにもかかわらず新河岸(高階地区)の飛び地だがかつては中洲、新河岸川や九十川の昔からの河道変化を見れば納得できる。
旭橋を渡って左折し旭住宅入口で旧河川の土手に出た。

Photo3 旧河道 左側が旭住宅
ここから旧九十川沿いに歩いて昭和初期に開鑿された現在の九十川との分岐点、共栄橋を目指すが旭住宅を回りこんだ先からは土手上に踏跡が無く田の畦を歩いたり冬枯れした草を掻き分けて進んだ。
途中の用水路に架かった石橋は流路変更前には田んぼから九十川への流水を堰き止めた田島堰の残骸であろうか?”田島堰”と刻まれていた。

Photo4 旧田島堰の残骸 石標が今では石橋
共栄橋近くになると”旧牛子堰”の跡があり、

Photo5 旧牛子堰 大正2年竣工
かつての水門に刻まれた文字を読むと”大正貮年”
この旧牛子堰は昭和初期に新しい流路が開鑿され九十川の共栄橋のところに出来た新しい”牛戸堰”に役目を引き継いたのでわずか10数年の稼動だったようだ。

Photo6 共栄橋から上流側 牛子堰は共栄橋の直ぐ隣
田に水を張る時期に牛子堰を閉じるとその直ぐ下流の共益橋あたりは水量が減り川床や堤防の法面が蛇篭だったのでザリガニの宝庫だった。
共栄橋から九十川は少し弧を描いて後は一直線に新河岸川に向かい合流する。

Photo7 昭和初期に開鑿された九十川 1つだけ残る橋
九十川左岸堤防上を新河岸川との合流点目指して進むと以前は九十川の左右を繋ぐ農業用の渡るのが怖い欄干が無い橋が2本ほどあったが今残っているのは1本のみ。残存する橋は橋脚に昔の面影を残しているが両岸ともに宅地化が進み欄干が設けられていた。他の橋は撤去され場所さえわからなくなり跡形も無い。
激特法で出来た九十川樋門周辺はまだ堤防と川床改良工事が進行中で

Photo8 九十川樋門
九十川樋門のとなりに出来た九十川排水機場は九十川と新河岸川に囲まれたた地域の出水時には九十川を経て新河岸川に排水するようだ。

Photo9 九十川排水機場
新河岸川左岸堤防上の道を対岸の江川樋門・新鷹匠橋・寺尾町制池排水機場を見ながら上流に向かいて進み、途中から堤防から降って市道5255に出た。
道路横の牛子稲荷神社に立ち寄り、赤い鳥居の根元に力石2個見つけたが文字は刻まれていない。

Photo10 牛子稲荷神社の力石
更に市道5255を進み県道336今福木野目線と交差、市道5212から市道5202に入り砂中学校横の新河岸川堤防上に出た。このあたりにかつて扇橋があったが今は無く、砂中学校西側を通る市道99が新扇橋で新河岸川を越えている。

Photo11 新扇橋
新扇橋の直ぐ上流は不老川と新河岸川の合流点だが今日は市道99を新河岸方面に向かい、新扇橋を渡って扇河岸に入った。
かつては新河岸五河岸(寺尾河岸、牛子河岸、下新河岸、上新河岸、扇河岸)の一番上流のにあった扇河岸も私が遊びまわっていた当時にも既に面影は無く、点在する民家と田んぼだった。市道99から左折して市道5266に入ると堤防に突き当り、多分この延長に扇橋があったと思うがあたりの風景は一変していた。
新河岸川右岸堤防上を少し南下すると右側に今は干上がってしまった”弁天沼”跡。当時弁天沼かられ出す川は深く両岸は葦が茂っていたが今はわずかな水流と葦原が残っている。

Photo12 弁天沼跡
深い水を湛えていた弁天沼も今では広場となり、沼の畔にあった弁天様を祭る厳島神社も古びているものの昔の社殿ではなかった。
弁天沼から道路を隔てた旧養魚池の横を抜け、かつてあった釣堀”川越淡水魚センター”を目指した。
”川越淡水魚センター”は昭和初期の新河岸川改修工事のときに出来た旧新河岸川の河道跡にあった池で虹鱒などの管理釣り場。

Photo13 川越淡水魚センター跡
川魚魚料理の”かしわや”もあったが残念なことに平成10年の水害い、その後の激特法による新河岸川工事で池の大半が増強された堤防の下になってしまった。
残る一部も干上がって残念な姿になり新河岸川との間に排水機場が出来ていた。
川越淡水魚センター跡から先日訪れた砂氷川神社の横を抜けて新河岸駅前を通り起点に戻った。
高階五社と力石

Photo0 藤間諏訪神社境内の一隅に置かれた力石
記録
日程:2019,01,13
メンバー:安田
01/13天候 快晴:
行程5.7km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
小学校や中学校それに市民センターなど川越市の地区として名を残す”高階”。この地区は昭和30年に川越市と合併する以前は高階村と呼ばれ、その高階村成立(明治22年)以前は藤間村・寺尾村・扇河岸村・上新河岸村・下新河岸村・砂村・砂新田村と分かれていた。
いま、高階地区にはかつての村を代表する神社が五社(藤間諏訪神社・寺尾日枝神社・新河岸日枝神社・砂氷川神社・砂新田春日神社)あります。
五社を巡って参拝することを”高階五社巡り”といって正月には最近まで各神社にスタンプと台紙が置かれていたそうですが・・・・私は実物を1回見たことがあるだけです。子供の頃は当然無かったし社会人現役地元空白時間中は初詣に出かけても神社を徘徊することが無かったので気がつかなかった。
それぞれの神社には子供の頃には良く遊びに行ったものだがその後半世紀以上ご無沙汰。今日は神社に置かれている力石探しで一気に五社を巡ってみた。
高階市民センターを起点に一番近い藤間諏訪神社に向かうが正月中だった先日とは異なり鳥居横に幟は立っていなかった。目当ての力石は鳥居をくぐって石段を登りきった境内の片隅、石段の左右に一つずつ置かれていた。

Photo1 藤間諏訪神社の力石 石段上両側
次は寺尾日枝神社。先日寺尾調整池へ歩いた道とは異なり今度は台地の中腹を行く細道を進むことにした。今は市道5359になっておりすぐに左に曲がって台地の上に向うように伸びって居る。左へ曲がる突き当たりを見れば民家の裏に延びる細い踏跡があったのでこれを進むと直ぐに市道5360に出た。

Photo2 市道5360突き当りから振り返った細道
地図を見ても道が無いが子供の頃は家も殆ど無かったので勝手に通っていたのか。
市道5360に出ると寺尾日枝神社は目の前だが道を下って鳥居をくぐり正規の参道から境内を目指した。

Photo3 寺尾日枝神社の力石 石段を登って左側
力石はここでも参道の石段を登りきった左側に1個置かれていた。
次に新河岸日枝神社目指すが寺尾日枝神社周辺から新河岸日枝神社の間は畑が広がり、北側に防風林を持った農家が点在していた往時とは様変わりして道の両側は立ち並ぶ住宅で見通しが利かない上に新しく出来た道もそこかしこ。子供の頃に通った道を記憶を頼りに曲がり具合を確認しながら進むが道幅が狭くその上新しく出来た道で複雑になってしまったのでとても車で乗り入れる気になれない。
観音堂と境内を一にする新河岸日枝神社の社殿は左手奥の一段と高くなった小山の上にある。

Photo4 左奥小高いのが新河岸日枝神社 右は観音堂
境内と社殿の周りを探してみたが力石は発見できず、境内左から石段を降った広場奥の厳島神社の

Photo5 厳島神社
社の裏に台座に乗った力石3個を見出した。

Photo6 日枝神社それとも厳島神社?の力石 台座の上に3個
厳島神社の広場から隣の新河岸川河岸場跡を通り抜け県道336今福木野目線の新河岸川に架かる旭橋の畔に出た。
ここから川越街道市道46までは県道336今福木野目線を歩くことになる。とても県道とは思えない生活道路のような道だが川越地方の物資輸送の拠点として栄えた新河岸から川越街道を経て川越城下に通じる道なのでいち早く主要道として県道になったらしい。
今は県道を示す道路標識も見受けられず、沿道の住民さえ殆ど知らないのでは?
旭橋から新河岸川に沿って進むと道は直ぐに左に曲がりさらに進むと正面に砂氷川神社がある。道はここで今度は右折し更に屈曲を繰り返して東上線を踏切で越え、

Photo7 とても県道とは思えない今福木野目線の東上線踏切
R254と交差(信号は無い)、その後更に右、左と曲がってやがて川越街道市道46に出る。
砂氷川神社では社殿左側の御大典記念碑の前、左右に並べられた2個の力石を見つけた。

Photo8 砂氷川神社の力石 御大典記念碑前に2個
いつから現在地に置かれているのか解らないが大典記念碑は多分昭和天皇即位時のものと思われるのでそれ以降ということになる。
この砂氷川神社で思わぬものを発見。
Photo9 “〆の子”を垂れ下がった注連縄
丁度正月直後なので各神社とも鳥居には真新しい“紙垂(しで)”の垂れ下がった注連縄が張られていたが、ここ砂氷川神社では“紙垂”の代わりに”〆の子"と言われる藁を束ねたものが下がっていました。
見たとき不思議に思い帰宅後調べてみて"〆の子”ということが解りました。漫然と歩いていたのでは頭上にあるものにまでなかなか気が回らないが今回は力石探しでキョロキョロしたおかげでまた一つ知識が広まったのは五社巡りの御利益!
神社入口のご神木と鳥居の“〆の子”飾りの注連縄は他の4社とは異なるという個性表現ですかね。
砂氷川神社から再び県道に出て砂新田春日神社を目指す。
かつて並んでいた背後に防風林を持った家々はすっかり様変わりして今は防風林も無くなりかつてのかつての農家は大きな新築の家になっていた。
川越街道市道46に出て左折し少し進むと左側に砂新田春日神社。

Photo10 石段の上が砂新田春日神社
鳥居をくぐって石段を登り社殿に進んでみたが周囲を石垣に囲われた小山の上なので社殿周囲を巡るのが精一杯。
力石を探して違う石段を降ると境内社の稲荷神社の社の前に力石が1個置かれていました。

Photo11 境内社 稲荷神社前の力石
春日神社で高階五社巡りを終え、ここからは川越街道を南下してすっかり変わってしまった道路両側の家並みを見ながら起点の高階市民ンセンターまでもどった。
今回確認できた力石は高階五社で9個。全て重さが刻まれているものばかりで大きさも様々だった。かつては力石を持ち上げられれば一人前と認められ、15歳以上で酒一升で若者組に仲間入りが出来たとか。
若者組は祭りやその他村の行事を取り仕切ったと言うことなので村で中心的な役割を果たしたのでしょう。村で認められ生活してゆくためには課題の力石挙げを受けなければならないのですから現在の資格試験と同じ様なもの。
神社に残された力石の重さがまちまちなので若者組に入った人たちは自分が持ち上げた石の重さを自慢しあい、娘たちにもモテて熱い視線を注がれたたのでしょう。それとも別に試験用の石があったでしょうか?今となっては解りませんが・・・・・
現存する重さが刻まれた力石は力自慢の村のエリートたちの記念碑?
川越市高階地区 寺尾調整池周辺

Photo0 かつての田んぼは変身して今や寺尾調整池に
記録
日程:2018,01,10
メンバー:安田
01/10天候 快晴:
行程8.1km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
先日の藤間諏訪神社末社5社の旧地巡りのついでに歩いた北江川、殆ど暗渠だったがコンクリート蓋の上は舗道となっていて北江川の筋道をたどることが出来た。今日は諏訪神社下から下流へとたどってみることにした。
子供の頃は諏訪神社下の湧水からは年中涸れずに流れがあり、付近の農家の人たちの洗い場にもなっていた。今は道路となり完全な地下水路となってしまい昔の景観は全く残っていない。
台地端に沿った市道5373を東に進み寺尾日枝神社下まで来ると道は分岐し、

Photo1 市道5373と市道5381の分岐
右側に子供の頃には無かった市道5381が一直線に伸びている。台地端を進む左の市道5373には北側の台地に上がる斜面と道の曲がり具合に昔の面影が残る。
右の市道5381に入り直進した右側にある寺尾中学校は昭和52年開校ということなので、もうその頃には私はこのあたりを遊びまわる年齢ではなかった。
今の市道5381は平成10年地図では水色の線で示される水路となっているので寺尾調整池造成と同時期の平成15年頃に地下水路化し出来た道路なのであろう。

Photo2 この辺りが"オオゼキ”だったところか?
今は寺尾調整池の最奥、市道5455の横に立つ"墾田之碑”は確か”オオゼキ”と言った北江川にあった堰のところにあったはずだが旧地は皆目検討がつかない。
地図を時代順に追ってみると、すさまじい変化の跡がわかる。
明治大正期までは水田と沼地だったようだが昭和初期に開墾して米作りのために水田を増やした記念碑が"墾田之碑”(昭和10年)。

Photo3 現在の墾田之碑 背後は寺尾調整池堤防
北江川を堰き止めた”オオゼキ”もそのとき作られたと思われる。”オオゼキ"上流は深い水溜りとなっていて水深も在ったので上から飛び込んで遊んだが、水底には湧水があり水温が低かったので、周囲の大人たちや学校の先生からは遊泳禁止にされていた。
また航空写真でも解るが、”オオゼキ"近くには金網に囲まれた養魚場があったが、戦後になって放置されたのか子供の頃は雑魚の格好の釣り場になっていた。

Photo4 1963年の空撮に1965年の地図を重ねてみた
写真に白く見える江川に架かった鷹匠橋(今は無く、元福小学校の北端あたりに在った)の下辺りも水深が深く川底には流れで藻が揺らめいていた。さらに川底は底なしの深い泥で、ここで足が深くもぐると抜けなくなってしまうので水遊びをする勇気は無かった。
寺尾調整池の西側の市道5379に入りそのまま進めば現在"墾田之碑"ある場所であるが逆に折り返して、寺尾調整池を時計回りに巡ることにした。おそらくこの市道5379がかつて”オオゼキ”へ遊びに向かった道と思われる。
台地端と寺尾調整池との間の道市道5373を進み突き当たりの新河岸川の堤防で右折、寺尾調整池排水機場を

Photo5 寺尾調整池排水機場
過ぎると新鷹匠橋。

Photo6 新鷹匠橋
新河岸川増水時にはここから寺尾調整池に水が流れ込むようだ。更に進むと江川都市下水路が新河岸川に合流する水門。

Photo7 江川都市下水路と新河岸川の合流する水門
この合流点から江川上流で平成29年の台風29号による水害が発生した。それまで開渠だった葦原中学校(昭和46年開校)横の護岸は崩れることが無かったが、暗渠だった元福小学校より上流側は覆いがはずれ護岸が崩壊した。

Photo8 芦原中学校横の江川都市下水路の開渠
漸く復旧工事が完成になるようなので歩道橋に上がってみると以前の暗渠は殆ど開渠になっていた。江川都市放水路と道路との間にフェンスが出来れば工事は完成であろう。

Photo9 復旧が間近の江川都市下水路 殆ど開渠、一部上流に暗渠が残る
現在の"墾田之碑”から下流に向かって少し暗渠は残るものの上流側は以前から市道5455下に地下水路となっていたのでこの先を追うことは出来ない。
市道5455を挟んで川越市立寺尾小学校(昭和53年開校)とふじみ野市立元福小学校(昭和50年開校)があることでの解るように、江川に沿って川越市と上福岡市(現在はふじみ野市)の市境があるが複雑で解りにくい。
寺尾小学校のところから入り込んでみたが道は行き止まり。遂には家庭菜園の中の畦道を通って市道5455に戻った。ただ、その複雑さゆえに寺尾調整池が新たに出来て地形が変わったり道路が新設されても大まかに過去の地図を読み解く鍵となる。
暗渠だった下水路が護岸工事で蓋が取られたので見出すことが出来ると思った北江川と江川都市下水路の合流点は分からなかった。
寺尾調整池が出来る前の1998年の地図では北江川を示す水色の線が寺尾中学校北側から元福小学校北側を回り込んで江川都市下水路水門近くの開渠になったところで合流しているのだが・・・・。今では調整池の中になってしまった。
寺尾調整池の堤防上は散歩道になっているので北風の中を散歩している人を見かけた。年配者ばかりなので聞いてみたが"さて・・・?“
先ほどの市道5381の件も然りで水路が埋められた、道路ができたと言った身近な視覚の変化は覚えていてもその年月となると皆さんいつのことだったか???記憶あやふや。
まぁ、そんなものでしょう。
寺尾調整池を一周して再び市道5373に戻り、今度は古道(かつては農道?)だった市道5370で台地に上がり市道5367を降って再び新河岸川の堤防に出た。”
”墾田之碑”以前の古道は現在の市道5367の延長で鷹匠橋に至ったと思われる。(新河岸川の堤防が出来る以前は沼沢地であったが明治以降の整備で堤防が出来ても江戸初期家康公の鷹狩り以来の古道は残った。鷹匠橋とはそのときの鷹匠の通り道)
寺尾調整池端からは新河岸川右岸堤防の上を歩いて上流に向かうが堤防は程なく途切れ、台地端の防風林に置き換わる。

Photo10 新河岸川右岸堤防
ここからは河川敷歩きとなるが、昔は歩くのが困難だった葦が茂る河川敷の湿地もいつの頃から背丈の低い草地になっていた。防風林を上がった台地上には友達の家があり、当時はそこから降ってきて新河岸川に棹を操って進む小さな川舟を出したこともあったが今は痕跡も無い。
舟の係留地横には湧水を利用した生簀があり鯉が飼われていた。もちろん観賞用ではなく食用。産後の肥立ちの良い栄養と言うことで私の母も鯉を食したとか。
河川敷の小路を進むと数箇所の湧水があり中にはクレソンが見受けられるところもあった。やがて新河岸川に架かる旭橋が見え出すと間もなく新河岸日枝神社下の湧水。

Photo11 日枝神社下の湧水
今も湧いているが昔日と比べ水量が少なくなったようだ。かつてはここで洗い物をしたり水を汲んだり、新河岸川に落ち込むまでの短い流れには沢蟹もいた。
旭橋に出たところで左折、坂を登って途中で更に左折。船問屋”伊勢安"の前を通り新河岸日枝神社を巡って市道5332に入り起点の高階市民センターへと戻った。
新河岸旭橋周辺は文献も多くブログでもしばしば取り上げられているので今回は写真のみで素通り。

Photo12 船問屋“伊勢安”
帰路途中で子供の頃から疑問だった市道5332と5339、5341に囲まれた三角地帯を一周してみた (地図上で軌跡が丸くなっているところ)。

Photo13 1009年前の地図にも現われている三角地帯
3本の道が一ヶ所で交差あるいは合流するのではなく三角形の三辺のような交わり方をしている。子供の頃はもちろん畑で今では数軒の家を取り囲むようになっているが1918年の地図を見てもはっきり三角形をしている。
市道5332と市道5341は車の通ることが出来る道幅があるが市道5339の一辺だけは昔ながら。100年前の地図に現れていると言うことは道ができたのはそれ以前、理由を質そうにも当時の人はもういない。
正解がないとは思えるがどうしてこのような道になったのか?・・・・・いろいろ想像検討してみるのも頭の体操には良いかも知れない。
藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り

Photo0 藤間諏訪神社 摂末社5社の社
記録
日程:2019,01,07
メンバー:安田
01/07 天候 晴れ:
行程6.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
新年を迎え氏神様への初詣は毎年の事ながら今までチョット気になっていたことが・・・それを解明すべく散歩に出かけた。
今日の散策のテーマは藤間諏訪神社に

Photo1 藤間諏訪神社
祭られている摂末社5社の旧地はどこだったのか?ネット検索すると摂社とは神社の主祭神(本殿に祭られた神)とに関連した神様のことを摂社、それ以外の神様のことを末社というらしい。従って由緒書に記されている摂末社とは・・・・・?

Photo2 摂末社(境内五神)御由来書
由緒書には神明社、熊野神社、天神社、稲荷社、八坂社の故地が大字(おおあざ)で書かれているものの今では何処だかさっぱり解らない、
その上現在は川越市藤間は正しくは大字藤間、旧地が大字伊勢原仲や大字開癸南・大字熊野腰だとか大字であることも疑問。字(あざ)が正しいのでは?
高階村成立(明治22年)以前は藤間村だからそのときは大字だったのだろうか?しかし旧地から合祀されたのが明治40年つまり高階村成立以後なのだが・・・・
ともかくも現在の住所がわからないと旧地探しは出来ないのでネット検索したが見当たらないので図書館で調べた。その結果幸いにも漠然とした地域を示す字ではなくもっと詳細な区画整理後の住所を見出したので諏訪神社の末社巡りに出かけた。
(巡った結果、神明社を除き民家あるいは畑だったので現住所は記載しません。民家だったところは写真も載せません)
今回も高階市民センターを基点に先日同様に旧川越街道市道46へ向かい旧川越街道・市道46で左折。南に少し歩いて左折し戻るように歩いてR254に出た。
国道を越えて石標に近寄ってみたが書かれている文字が読み取りにくいので早々に紙を取り出し赤鉛筆で文字を浮かびあがらせた。

Photo3 神明社の石標と赤鉛筆で浮き上がらせた“神明社”
神明社の旧地であることと石標が建立された日付が旨が記されていた。それによると昭和9年4月3日建立。現在のR254が川越街道の新道として開通したのが昭和15年、今とは違って人力作業であったであろうから、おそらく道路建設当初に建立されたと思われる。
1880年代の地図に記載されているのは末社5社のうちこの神明社のみで他の記載はない。

Photo4 1880年代古地図にも載っている神明社
神明社旧地を確認後R254を南下し市道5332から市道5404に入り天神社と八坂神社の故地に向かう。このあたりは既に区画整理地域になっているので探してみても痕跡すらない。
天神社・八坂神社の旧地にも今は民家が建っているので早々に稲荷社旧地に向かうことにする。坂道を下って市道45に出て左折、見つけた資料にある住所を探すがここも民家が立っている。
少し引き返し今度は市道5424に入り高階南小学校横を南下、熊野社旧地に向かうも資料にあった住所は住宅の立ち並ぶ中に残った畑。

Photo5 熊野神社旧地 このあたりを熊野腰というらしい
つまり区画整理地域には神社の痕跡すらなく、確認できたのはR254で最も早く旧地がうしなわれた神明社のみであった。
熊野神社旧地からは先日の散策で東上線線路下に確認した古道跡のトンネルを潜って間諏訪神社に向かう。

Photo6 東上線を潜る古道跡の歩行者用トンネル
このc地点の歩行者用トンネル(先日の地図でc地点)は高さ2m弱、幅は自転車を押して通れば1人ぐらいしか通ることが出来ない狭いものであった。トンネルは車の通ることが出来るガードがあるa地点とe地点の丁度中間、車はそちらを通れということであろう。
諏訪神社下には子供の頃コンコンと湧く泉があり川が流れていたが今は埋め尽くされて住宅が立ち並んでいる。泉から更に上流にも小川が流れていたが今では市道45の暗渠になってしまった。

Photo7 市道45 東上線ガード付近の暗渠
諏訪神社から市道45に戻りコンクリート板で覆われた暗渠をたどると一部市道から外れるものの先ほど歩いた高階南小学校に突き当たり、再び道路横の舗道下を暗渠が延びやがてR254に出た。
国道を横断すると畑の中に細い開渠が姿を現し、

Photo8 畑の中に残る僅かな開渠
川越街道旧道市道46を過ぎるとまたもや暗渠になった。

Photo9 田園地帯へ延びる暗渠
暗渠の上を歩いて民家の間を抜けると広がる田園地帯の中にコンクリート板で閉じられた暗渠がマンホールの四角い鉄製の蓋を最後に消えうせた。
良く見ると直角に曲がった農道先に同じような蓋が見えたのでたどると市道6410に出て

Photo10 確認できる北江川最上流点
その先の高階西小学校下からは見慣れた丸い蓋のマンホールとなってしまった。この蓋には"汚水”の文字があったのでどうやら繋がってはいないと思われるので先ほどの四角い鉄製マンホール蓋のところが確認できる最上流であった。
区画整理以前は背丈の低いボケの花や雑草に彩られたこの川辺で遊んだことがあったが、梅雨時や台風シーズンでないと殆ど水の流れが無かったので上流までたどったことは無く、当時の大人や周囲の同年代からも川の名前を聞いたことも無かったが、ブログアップでいろいろ調べているうちに国土交通省の資料から"北江川"という名前であることがわかった。
今まで子供の頃からの知人と川の話をすることがあってもその川の名前わからなくても話が通じたので不自由せず今まで知らなかったわけだが幾つになっても新しい知識を仕入れることは楽しい。
川越市高階地区散歩 藤間周回

Photo0 高階藤間のかつてのランドマーク 火の見櫓(昭和29年)
記録
日程:2019,01,04
メンバー:安田
01/04 天候 快晴:
行程7.21km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップ の道路台帳を参考にしました。
新年を迎えて4日目。上空は高気圧で穏やかな日になった。昨年からちょっとした足の故障でリハビリに励んでいたが、そろそろ山に出掛けようとしても思っても今度は体が寒さに慣れずについウダウダ。この間にひょんなことから自宅付近の古地図と100年前の古い地図を発見し、天気の良さに誘われて古い地図と現在の地図を見比べながら自宅周辺を歩いてみた。
自宅のある川越市の藤間地区は昔の藤間村、明治になって周辺の村々と合併し高階村(明治22年)になりその後昭和30年に川越市と合併。古地図には鉄道や国道も無く,寛永16年頃に出来た川越街道(旧道、現在の市道46号線)が北西から南東に縦断するのみだった。
今回は東上線開通直後の100年前の古い地図の道を歩き、更に区画整理や鉄道輸送力アップ・安全強化に伴い失われた踏切跡も探してみた。
現在地域のランドマークとなる高階市民センターを基点に

Photo1 高階市民センター
西に進みR254を越えて川越街道(旧道、現在市道46)との交差点で左折, そのまま進むとかつては藤間地区全体を見渡したであろう火の見櫓(昭和29年)。
横を通り右に”首切り地蔵”を見て、やがて坂を降る途中にある東光寺を過ぎ暫く進むと古地図にある現在の市道6414の入口を見つけた。
ここで右折するとやがて人家が途切れ田園地帯の中の道となった。子供の頃には良く通った道であるが車を運転するようになると子供の頃には無かった南側にできた市道6418を通るようになってしまい、周辺の新しく家が建ったり、生垣からブロック塀になったりといった景観変化で古道の入口さえ解らなくなってしまった。
古道を進みやがてこれも古道の市道64208に合流して直進、市道52に入ってふじみ野市との市境寸前で左折今度は市道6525を川越街道目指して進んだ。
新興住宅地を抜け川越街道(旧道、市道46)に出て右折、緩い坂を登って行くと直ぐに川越市とふじみ野市との境界、かつ川越街道旧道と新道(現在のR254)の合流点にでた。

Photo2 R254上の歩道橋より東京方面を望む
ここでR254を歩道橋で越えて更に市境の狭い市道5458を進むとやがて東上線の線路に突き当たった。

Photo3 東上線の歩行者用跨線橋 かつてはここにも踏切があったようだ
歩行者のみ通行できる跨線橋を渡って右に上福岡市(ふじみ野市成立以前)の住所、左に川越市の住所が書かれた表札を見ながら進み突き当りを左折、坂を降って交差点で左折し市道5455を西進して東上線のガードをくぐり直ぐに右折して市道5429に入った。この右折は歩行者のみ可能。

Photo4 東上線のガード 下はかつて江川、今は暗渠
このガード(a地点)は子供の頃は川越江川を渡る東上線の鉄橋だったがいつの頃か川は暗渠になり上は道路に変わった。ガードを支える両側の擁壁には昔の名残が残る。
東上線に沿った市道5429を線路土手を観察しながら進むと微妙な形状変化が認められた(b 地点)ので地図をチェック、区画整理外だった東上線反対側にはやはり分断された古道の名残の市道5396があった。
更に進むと線路をくぐるトンネルが反対側に通じている(c 地点)が、通ることが出来るのは歩行者のみ。

Photo5 古道の名残で反対側に抜ける歩行者用トンネルがある
ここも古道の名残だ。線路の向こう側は市道5394。
更に進んで古道があったと思われるところ(反対側は市道5394)を探したが痕跡すらなかった(d地点)。やがて市道45と交差、ここで右折して再び東上線のガードをくぐったが、このガード(e地点)も先ほどと同様にかつては川を越える東上線の鉄橋だった。

Photo6 ガードもかつては川を越える鉄橋 川は今は暗渠になっている
線路を支えるガードの壁は東上線下り側がレンガ積、上り側はコンクリート製、土手の法面は玉石を積み上げコンクリート補強したものだ。
下り線側レンガ壁は東上線開業(大正3年)当時のもの、コンクリート壁は複線化(昭和32年)のときのものと思われる。市道45を進んで左側に藤間諏訪神社の石段が見えたら左折、

Photo7 正月で幟が立っている諏訪神社
神社下で更に左折して市道5351を西進すると線路で行き止まり(f 地点)。鉄道と其の前後の道路の高さが同じだった踏切があったが区画整理とともに先ほどの線路を潜り抜けられる市道45が出来て踏切は消滅。

Photo8 道路と線路の高さがほぼ同じ高さだった廃踏切
少し戻って坂を登り市道5358に出て西進、またもや線路で行き止まり(g 地点)。この道は古地図にはあったが100年前の地図には踏切が無い。
丁度線路が切り通しのようになっているので線路の前後の道は坂道になるので踏切で線路を楽に越えられた先ほどの市道3251が近いこともあり鉄道開通時には踏切が設けられなかったようだ。
ここから少し戻って更に線路に沿って北上、子供の頃諏訪神社参りのときに歩いた道を探すと畑の中に道跡を発見。
両脇の畑とは違和感のある長さ数メートルで線路に行き止まる道(h 地点)。地図をチェックすると昔の里道は幅はそのままで今ではちゃんと市道5350になっていた。

Photo9 畑の中に残る里道、川越市のマップを見るとこんな所も市道として載っています
ここからは新しく出来た市道5579を寺尾地区と藤間地区の境界をなす市道44(昔は寺尾街道と呼んでいたけど今は?)に出て新河岸駅目指して北上。
市道5334とのT字路のところで線路側に踏み込んでみるが、

Photo10 かつてはここにも踏切があった
ここにもかつてあった踏み切りの痕跡が残るものの現在市道5344は線路まで延びておらず、行き止まり部分は廃道になった(I 地点)。
記憶にある限り市道5344と市道5322は繋がっており踏切で東上線を越える一本の道だった。両側が坂道だった踏切が廃止され東上線西側に新たに駅に向かう道が出来て分断された。
東上線開通直後の100年前の地図にも踏切は無いが、線路は周囲の地面より低く其のうえ線路上に橋を掛けるほどの高低差も無いので踏切の前後は坂道だった。従って開通当時は踏切が無く、その後に設置されたと思われる。参考にした後の時代の地図では踏切になっている。
つまり開通当時は古道が分断されその後設置、更に時間が経過してまたもや廃止されたということか。
鉄道開通以前の新河岸川舟運が盛んなときは重要な道であったが東上線開通、昭和6年の通船停止令による新河岸川の舟運停止とともに重要性は次第に薄れ、遂には分断されてしまったのだ。
更に新河岸駅方面に進み東上線を渡って反対側を線路沿いに南下、先ほどの分断箇所の反対側地点に出て市道5322を西進、出発点の高階市民センターへ戻った。
住んでいて何気なく地域の変化を見ているもののいつ変ったかを思い起こすと記憶はあやふや。覚えているのは活動時間の大半を地元で過ごした幼少期、変化後の様子がつぶさに解るようになったのはリタイヤ後。
この間の地元以外ところで活動時間の大半を過ごしている間のことは住まいが変わらずともスッポリ抜け落ちている。探してみても案外周囲の出来事の記録は残っていないものだ。ましてや記憶はあやふや。