新河岸駅・南古谷駅・上福岡駅 3駅周回

Photo0 新河岸の対岸から見た蓮光寺 左の木立のあたりに惣門があります
記録
日程:2019,02,13
メンバー:安田
02/13天候 晴れ:
行程11.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
JR川越線の南古谷駅からふじみ野市に向かってほぼ直線で伸びる埼玉県道335(並木ふじみ野線)はふじみ野市に入ると直ぐに埼玉県道56(さいたまふじみ野所沢線)に合流している。
地図を見ると県道56は曲がりくねっていて古くからの道だったことは解るのだが・・・・県道335とは?
調べてみると県道335はかつてふじみ野市にあった火工廠(東京第一陸軍造兵廠川越製造所)と南古谷駅を結ぶ軍事道路だった。川越線が開通したのが昭和15年なので時を同じくして開かれたのであろう。
先日の散策で新河岸川の堤防の上から川越線(埼京線)を走る電車を見たので今日は東上線の2駅(新河岸駅とふじみ野市の上福岡駅)と川越線の南古谷駅の3駅を結んで歩いた。
いつものように高階市民センターから市道5322を東進し、東上線踏切を渡って更に線路沿いに進むと新河岸駅。
新河岸駅は大正3年の東上線開通から1ヶ月遅れて高階駅として開業、

Photo1 開業時とほとんど変わらない新河岸駅踏切時代
その後大正5年10月に新河岸駅に変更された。駅が存在する村名から高階駅と名付けられたのであろうが当時はまだ新河岸川の舟運が運行されており、新河岸のほうが広く知れていたので駅名を変更したものと思われる。
その後東上線は電化、複線化されたが駅は殆ど変わらず、子供のころ駅舎からホームへは池袋側の踏切を渡って電車に乗った。
昭和40年頃川越側にホームが延長されたとき直近の踏切が廃止され電車は8両編成化、昭和54年に駅舎からホームへはそれまでの踏切から跨線橋になってホームが池袋側に延長され電車は10両編成となった。

Photo2 跨線橋になった新河岸駅
新河岸駅ホームの古い基礎部分は大谷石が積まれているが川越側と池袋側にそれぞれ延長されると延長部分は鉄骨製になり、また基礎の高さも当初より増していることが横から見た拡幅・延長跡から解る。

Photo3 駅ホーム 延長部分は鉄骨製
新河岸駅は開業以来改札口が1ヶ所(西側、以前は東側には畑が広がっていた)だったので利用者の増加とともに東口開設の要望が増し、平成29年になって長年の懸案だった東西を結ぶ線路を跨ぐ通路をもった橋上駅になった。

Photo4 橋上新河岸駅 東口
新河岸駅から市道5309を進み県道336に出て新河岸川の旭橋を目指した。
途中の砂氷川神社と新河岸駅周辺は昭和29年に”人違いバラバラ事件”が起きたところで一躍有名になり今でも古くから住む人たちの間では語り継がれている。
事件は青年団の運動会帰りの19歳の女性が犯人の誤認で殺され、身体をバラバラに切断されて氷川神社や新河岸駅ホームの川越側への延長で廃止された踏切の西側にあった肥溜めに遺棄されていたというものだった。
乳房と性器は切り取られ膣や肛門には布切れを詰め込み、両足を切断したといった田舎の農村に起こった猟奇殺人事件だった
まだその頃のことを覚えている人たちによると、
”学校の社会見学で先生に引率されて現場を見に行った”とか”小学校の入学式が終わったら親と一緒に現場検証を見に行った”とか。
今でも”川越 バラバラ事件”や”高階村 バラバラ事件”などでネット検索すれば事件のことがいろいろ出てきます。
新河岸川旭橋から九十川の共栄橋を渡り市道5113進んで富士見川越道路(R254バイパス)の下をくぐり、さらに市道5090を進むと県道335並木川崎線に出た。
左折すると直ぐにJR川越線南古谷駅に出た。

Photo5 JR川越線(埼京線) 南古谷駅
駅前でUターンしてふじみ野市に向かって歩くと左側に”並木の大クス”(埼玉県指定天然記念物)が見えてきたが、

Photo6 並木の大クス
今回は立ち寄らずに暫く県道335を進んで新河岸川に架かる川崎橋(平成22年架け替え)を渡るとふじみ野市川崎地区に入った。
川崎橋を渡るとまもなく県道56との合流点(県道335の終点)だが今回は橋を渡ってすぐに新河岸川右岸堤防上に踏跡を見つけたので踏み入ってみた。
踏跡を辿り養老橋を越え更に進むと踏跡は崖線下の良く整備された散策道になり

Photo7 新河岸川沿いの散策道
やがて対岸に蓮光寺が見えてきた。(ページトップの写真)
先日の散策のおり不思議に思っていた蓮光寺の建物の配置(本堂山門は西向きに対し惣門は北向き)が疑問だったが、かつては本堂山門惣門と直線状に並び西向きで新河岸川に面していたが昭和8年の新河岸川の拡幅・改修工事で惣門は移動されたとのこと。納得!
散策道の終点から右折し緑地公園から道路を横切ると権現山古墳群に出た。全く時代が異なるが江戸時代の初め家康が鷹狩りのときに小山のような古墳群の上から東に広がる低湿地帯を眺めたとき、新河岸川対岸の蓮光寺が目に入り茶を所望。そのときに寺領七石を寺に与えたとか。
権現山古墳群を横切りかつては火工廠(今は大日本印刷や新日本無線、団地や学校等の公共施設となっている)の外周に沿って進み県道56に出た。

Photo8 コンフォール上野台
県道56を横切って進むと直ぐに上福岡駅でここの西側には霞ヶ丘団地が昭和34年、東側の火工廠跡には上野台団地が昭和35年に竣工し上福岡駅は昭和34年に東武鉄道(東上線ではなく東武鉄道)で初めての橋上駅になった。

Photo9 上福岡駅 東口
日本住宅公団が造成した両団地は老朽化し今はUR都市機構により再開発されて、上野台団地はコンフォール上野台に霞ヶ丘団地はコンフォール霞ヶ丘になっている。
上福岡駅で東上線を越えて線路伝いに進み、ふじみ野市と川越市の市境の跨線橋を右に見て坂道を降って市道5428を北上し清水町・稲荷町を経て坂を上り藤原町に入った。
市道5428と東上線の線路の間に建つ大型マンション”ソフィア川越四季彩の街”は

Photo10 藤原町遺跡があったところに建つマンション
縄文時代の住居跡が発掘された藤原町遺跡があったところだがそれをうかがい知るものは全く無い。
平成9年に出版された350ページに及ぶ川越市教育委員会の遺跡調査会報告書第19集も川越市中央図書館にあるのみでそれも貸し出し禁止となっているので殆ど一般人の目に触れることは無い。
川越市立博物館 を訪ねても資料は無く教育委員会を紹介されたにとどまった。
藤原町遺跡から更に市道5428を北上し市道5331市道5322を経て起点の高階市民センターに戻った。
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