漸く梅雨が明けた

Photo0 遅れに遅れて梅干とゆかりの日光浴開始
記録
日程:2020,08,02
メンバー:安田
08/02 天候 晴れ:
8月1日になって漸く梅雨が明けた。このところ新聞を見れば毎日どこかで記録更新。思い起こせば今頃オリンピックで華々しく記録更新が騒がれていたことでしょう。しかし残念ながら
新聞紙上を賑わせているのは新型コロナの感染者数の増加で記録更新。
天候の方も例年とは違い、南と北の気団同士の勢力争いで梅雨前線も南に下ったり北上したりとオタオタ。
オリンピックが行われていたとしても暑さ対策は空振り。競技関係者は雨対応でオロオロしていたことでしょう。
昭和のオリンピックは開会式では青空に日の丸が翻っていたが・・・・。令和のオリンピックは延期になり旗さえ掲げられずコロナに祟られどうし。
”快晴の空に五色の飛行機雲で五輪を描いた昭和のオリンピックから令和の幻(!or?)のオリンピックの間が日本が最も輝いていた時代だった”なんて後世の歴史家から評されねばいいのですが・・・・・。
アベノマスクや変な英語を使った”GO TO 云々”とか政府のオタオタ政策や迷走ぶりを見るにつけ、直近のアフターコロナよりもその先にある未来の国の姿が心配になるのは私だけかしら?
梅雨空続きの日照不足で、水分だけは豊富だった畑はいまや雑草天国。近所の農家では雨で流れてしまうので除草剤が使用できず、雨上がりを待ってトラクターが一斉に出動し畑の起耕作業で雑草退治を開始。例年なら日射で畑が乾燥して水不足を補うために散水しているのに・・・どうも例年と勝手が違うと夏の太陽の下で汗だく。
我が家でも延び延びになっていた梅干と赤紫蘇の日光浴に取り掛かりました。
蕾が膨らむ様子を毎日早朝散歩で観察していた近所の方々の期待に応えて本日樽の中で育った古代蓮が漸く開花。

Photo1 古代蓮
池や沼に咲く蓮の花を見たことがあっても殆どの人が花の中心にある花托を見たり

Photo2 蓮の花托と雄蕊
蓮花の香り聞いたりした経験が無いのではと思い、花に顔を近づけられるように
樽の横にビールの空きケースを置いておきました。
台に乗り花に鼻を近づけると、はっきりと爽やかな蓮の芳香を確認することが出来ます。
今では生活の中に雑多な香りや匂いがあふれていますが、先人たちは蓮花の芳香を聞き優美な花を愛でて季節の移ろいを感じたのでしょう。
コロナコロナで泥田の中のような世相だがやがて時が過ぎればその中にも蓮は花を咲かせる。平穏な世の中になるのはいったい何時になるのでしょうか。
梅雨明けは・・・・・?

Photo0 キバナコスモス 雨に打たれて項垂れて
記録
日程:2020,07,26
メンバー:安田
07/26 天候 雨たまに陽ざしが覗くとゴロゴロドバー:
前回の記事から凡そ一ヶ月弱の時間が経過したたが”新型コロナ”再び激増中。
経済活動再開とかで活動自粛を緩めたら途端に記録の更新が始まってしまった。こんな中でいくら税金を投入したところで経済は回復しないと思うのですがね。
きっちり”新型コロナ”を退治した上でなら黙っていても政府がお金をつかわずとも経済活動は再開するのに、コロナ退治を等閑にして税金をばらまくからコロナと経済の狭間で国民は右往左往。その隙に早々店じまいしてダンマリを決め込んだ奴がいる。(このところサッパリテレビや新聞から消えてしまった)
歴史を振り返るまでもなく、こんな時はどう対処するかと言えば。息を潜めて禍が過ぎ去るまでじっと待つのが古来よりの庶民の知恵。
騒ぐだけ騒いでマスクを配って人の口を塞いだが、コロナの方が役者は一枚上手らしいと気づいたらさっさと逃げ出してしまった。
庶民も為政者の行動を見習い、あちこち出歩いたり夜の街を徘徊したりせずにじっと大人しましょう。
先日から咲き始めたキバナコスモス。数年前に一鉢購入したら種を撒き散らかし、今では一大勢力となって庭に繁殖中。
晴れれば天に向かって花びらを広げているのですが雨にはトホホでそろってうなずいてしまいました。

Photo1 キバナコスモス 雨さえ降らなければ堂々と天に向かって
冬枯れの公園の池で古代蓮の実を拾い、コップの中で発芽させて庭先のプラスチック樽の中に移植して育てた古代蓮。毎年きっちりメンテナンスをしている間はピンクの花を咲かせていたが、ここ数年飽きてしまいメンテナンスをさぼっていたので花を咲かせることがなかった。
コロナ騒ぎがはじまった3月中旬、不要不急な外出自粛(所謂スティホーム)で家にいる時間が多くなったので久々に樽の中を掘り起こして、地下茎の節の部分を数本残してを整理処分。植え替えてたっぷりと固形油粕を与えたところ今年は蕾が出て只今成長中。おそらく数日中にはピンクの花が開花するでしょう。

Photo2 古代蓮の蕾
カラスの大宴会

Photo0 カラスの宴会跡 トウモロコシ無残
記録
日程:2020,06,29
メンバー:安田
06/29 天候 曇りのち雨:
一旦ピークを迎えて終息しつつあるかと思った新型コロナ、ウイルスの正式名称はSARS-Cov-2、それによる病気のことをCOVID-19というらしい。
何時まで経っても新型コロナといっているけど、今度新しいコロナウイルスが襲ってきてもまたまた新型コロナと呼ぶのですかね。
そろそろ次に供えて世界基準の感染症”COVID-19”に統一した方がいいんじゃないかな。
政府も東京都もパンデミックとかロックダウンとか横文字が大好きなくせに何故か”新型コロナ”、グローバル化を進めているにしては???
まぁ、相変わらずやることなす事チグハグなのは今に始まったことじゃないか
突然降って湧いたコロナ騒ぎと変わって、毎年やって来る梅雨は暑い夏に向かっての天からの恵み。昨年から今年にかけて積雪が少なかったので夏季には水不足になるんじゃないかと心配したが関東周辺のダムの貯水率はほぼ例年並みということで一安心。
しかし今年は手洗いの水量が増えるのでどうかな?
恵の雨のおかげですくすく成長していた我が家の菜園にコロナ騒ぎ並みの大事件が発生してしまった。
なんと菜園でカラスの大宴会が催され収穫間近のトウモロコシ、糠漬けやサラダで毎日食卓に上っていたキュウリ、漸く色付き始めたミニトマト、幼児の頭ほどに成長してきたスイカ。
悉くカラスの宴会に供されてしまい、残されていたのはカラスから見れば残飯、私から見れば残骸。

Photo1 悔しいけど残骸を集めると
残されていたのはカラスの風切羽が一本、どうせ抜け替わる羽だということで駄賃代わりに置いて行ったのでしょうか。

Photo2 感謝のつもりかカラスの置き土産
人間界では新型コロナの感染を避けるために”三蜜”を避けてソーシャルデスタンスをとりましょうなんて言っているがカラスの世界ではおかまいなし。
カラスが大騒ぎしていたがまさか菜園で宴会をしているとは思わず、静かになってから草取りに出向いてみたら・・・・・戦場もかくやと思われるほど惨憺たる風景がひろがっていました。
トウモロコシはなぎ倒されて殆ど食い尽くされ、あと数日で収穫を予定していた色づいたミニトマトは影も形もなし。青いトマトだけが残されていました。ガックリ。
一方カラスの方はオロオロする人間を高見の見物。

Photo3 今日も満腹 天下の様子は?
数年前所沢の方でカラスの大量死が発見され、その時は鳥ウイルスの感染だとか細菌が原因ではないだろうかと新聞を賑わせたが結局のところ原因不明のまま。
コロナウイルは人間の病気だったので世界中が注目して原因となるウイルスを特定したが、カラス相手ではそこまで追いきれなかったのではと思う。
カラスは小集団で行動していて他の集団と交わりが少ないのでウイルスに感染しても大きく広がることはないが人間は・・・・・夜の街に出没するので不特定多数の接触機会があり伝言ゲームならぬウイルスの伝染ゲームに積極参加している輩も出現。
まぁ、ストレス発散に夜の街を徘徊しても、透明ビニールシート越しではかえってストレスが増しそうな気がするのですがね。
これまでスペイン風邪とかコロリとかいろいろな疫病が流行して人間社会を脅かしましたが原因や薬が無くてもその都度それを乗り越えて来たので今回も乗り越えられるのはと思います。
今、世界中でワクチン探しに躍起になっていますが一発で効くワクチンはどうやら無理なのでは?インフルエンザと同じように毎年毎年流行を予測しながらワクチン注射をするようになりそうな気配が濃厚。
細菌でも耐性菌が出てくるし、ウイルスもものすごい速さで変異しているらしい。つまりは人間以上のスピードで進化しているということだ、
勝ち目のない戦よりも、兎に角”さわらぬ神にたたりなし”三十六計逃げるに如かず”クワバラ・クワバラ。
満開の桜の下で雪遊び

Photo0 公園で雪遊び 頭上には満開の桜
記録
日程:2020,03,29
メンバー:安田
03/29 天候 晴れ:
新型コロナウイルス禍で外出自粛が呼びかけられて2日目、桜が満開となっているときに季節外れの大雪。
夜半からの雨が朝になると雪に変わって庭も雪景色になった。

Photo1 今シーズン初めて庭が雪に覆われた
満開の桜花も雪布団の中に潜り込んでしまった。
目下外出自粛中ではあるが雪が小降りになったのを見計らって所用で近所に出かけると

Photo2 雪道を行く人
公園では元気な子供たちが数人で雪遊び中、頭上には身震いして雪布団を払いのけた桜が・・・・

Photo3 頭上の桜花は満開
桜満開の公園で雪遊びとは珍しい風景です。
つい先日までは気温が20℃を越え、あちこちの椿が満開だったのに・・・

Photo4 2、3日前には椿が満開だった
市民センター内の図書館や公民館も4月19日まで休館が延長されることになったらしい。
図書館から締め出され、庭の草取りもしてしまった年金生活者はさてさて今後しばらくどのように過ごせばよいやら?
お忘れでは?今日は3月11日

Photo0 駅前交番には半旗が
記録
日程:2020,03,11
メンバー:安田
03/11 天候 晴れ:
”春に三日の晴れ無し”のことわざ通り、雨がシトシト寒くなったり晴れれば暖かくなったりで冬と夏とのせめぎ合いまっただ中。
今日は気温が20度越を越えたので薄着になって家から飛び出して近所をぶらぶら歩きで高階市民センターに出かけてみるとコロナのため公民館図・書館共に閉鎖中で駐車場には殆ど車がない。
いつもなら公民館の中の講習室は妙齢の方々のグループやサークル活動で賑わっているのに無人。市民センターのドアには写真のような張り紙が。

Photo1 高階市民センタードアの張り紙
コロナの騒ぎが一段落すればこんな写真も時代を物語る証拠になるのかしら。
入口前には”高階散歩マップ”の看板が立っています。

Photo2 “舟運と民話の里 高階散歩マップ”の看板
タカシナシミンセンターの張り紙写真だと見にくいので藤間部分を拡大してみると旧川越街道に沿って団子のように〇印の民話が5つ並んでいます。

Photo3 藤間地区部分拡大
といっても東光寺についての民話は聞いたことはありませんが・・・。
八坂神社天王様は神輿を繰り出すお祀りで実体と言えるものはありません。雷神様は畑の中の小さな杜です。
民話の発祥の実体と言えるものは”首切地蔵”と”ふじま下組の石地蔵”ですが、既報の通り”首切地蔵”は崩されてしまいました。
”ふじま下組の石地蔵”は宅地開発で以前、土地所有者の方が他市に移されたそうです。
従ってここに描かれている民話のうちすでに2カ所が無くなってしまったのです。言い換えるなら民話の実体は藤間地区からは無くなってしまいました。
この看板には平成2年とありますが市民センターができたのが平成20年なので、平成2年とは高階公民館民話マップ編集委員会がマップを作製したときを指すようです。
看板のタイトルは”舟運と民話の里 高階散歩マップ” 今やしらじらしいですね!
地元を貶めることは言いたくないのですがこれが”小江戸 川越”の正体です。
蔵造りの街並みも明治26年の川越大火後に作られた蔵でそれ以前は殆ど蔵はありませんでした。いわば明治の遺産なのです。
気を取り直して、新河岸駅前まで歩くと駅前交番には日の丸の旗が掲げられていました。
うかつにも今日が東日本大震災の日だったことを忘れてたが、国旗が半旗になっていたので思い出した次第です。
あれから丸9年たって今はコロナコロナの大合唱。崩されてしまった地蔵もやがて記憶の片隅に埋もれてしまうのか。うーん、誰かさんと誰かさんの勝ちになってしまうのかね。
そうそう帰りに市民センターを通りかかった時に確認したのですが国旗は見当たらなかったな~。建物の中にでもあるのかしら???
紅梅5分咲き

Photo0 淡いピンクの紅梅
記録
日程:2020,02,24
メンバー:安田
02/24 天候 晴れ:
やはり今年は暖か過ぎ。例年なら白梅の花が散って暫くして遅咲きの紅梅が咲き始めるのに今年はまだ2月というのに咲きだした。この紅梅はかなり前にホームセンターで売れ残っていたのをタダ同然で購入したもので、それまで家には白梅しかなかったので色ものを欲しいと思っていたときに偶然手に入れました。私が購入しなければおそらく廃棄処分されていたのではないだろうか。
殆ど他所では見かけないほど淡いピンクなので初めて咲いた時は、苗木についていたタグが違っていたのかと思いましたが成長するにしたがい、良い色になってきました。
冬の間、いつになったら咲き始めるのかと蕾の数を数えていたサクラソウも、忙しさにかまけているうちに気が付けば最下段の花は咲き終わり、花葉だんだん上に移っています。

Photo0 サクラソウ
落ち葉は腐葉土用に掃き集められ、まだ葉がないので太陽の光が根元まで届いています。今年はいつごろ木の芽が膨らみ始めで武蔵野の雑木林の色が変わり始めるのだろう。江戸時代に武蔵野開発で野火止用水が作られる遥か以前の鎌倉時代にも多摩川から水を引くための掘割が作られ、その跡が雑木林の中に昭和の終わりころまでのこっていたという。しかし残念なことにどこにあったのか場所を記載した地図が見当たらないので現在は行方不明。文献の前後の記述からこのあたりではなかろうかと目星をつけたので時間を見つけて探しに出かけてみよう。
首切り地蔵 (開明地蔵大菩薩) 無残

Photo0 破壊された首切り地蔵 首はもげ、今年の正月の白いたすきも無残
記録
日程:2020,02,21
メンバー:安田
02/21 天候 晴れ:
例年になく早い春の訪れで庭の白梅も満開になりました。久しくブログを休んでいたのですが陽気につられて近所をうろついているととんでもない光景を目にしたので皆様にぜひ紹介したいと思います。
以前のブログ記事”川越街道 藤間あたり”で紹介した開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)は数年前に覆堂が新しくされたのですが今週になって覆堂が壊され、昨日まで地蔵様は露天に晒されてしまいました。

Photo1 分岐の中央に開明地蔵大菩薩の覆堂 壊される前

Photo2 今朝の様子 覆堂は無くなっている
そして本日ついにお地蔵さまはその場で破壊されてしまいました。Topの写真。

Photo3 今朝の首切り地蔵(開明地蔵大菩薩) 白い襷は今年の正月にかけられたもの
元々首切り地蔵は私有地にあったのですがその私有地の所有者が変わり現在は競売で某不動産会社の持ち物になっているそうです。従って法律的には部外者がお地蔵さまについてとやかく言うことはできないそうです。
しかし川越市で発刊された『川越の石仏』や埼玉県教育委員会の『歴史の道調査報告書第十二集 川越街道』にはその所在が記載されています。さらに川越博物館発行の『川越藩松平大和守家記録 三 』には明和9年(1772)10月に砂新田の御仕置場で無宿の平次が斬首され、首が晒されたことが記載されている。
このような江戸時代の川越藩の処刑場跡にあった地蔵は造立年代からみると処刑される様子を見ていたことになります。明治になって刑場が廃止されてからは川越街道を通行する人々を見守り、地元の人々は子供のころから接し、さらには今年の正月には近所の方の手での作られた新しい白いたすきがかけられていたのも関わらず、今は写真のような無残な姿なってしまいました。
首切り地蔵は川越藩松平家の記録にも登場し、川越街道を歩いた人のブログなどにも登場る文化遺産だったはずなのに私有地にあるということで川越市はどうなろうと全く無視している状態で地蔵は破壊されてしまいました。というか地元から市に連絡が届いて事情を確認して線香などを手向ける前に業者は素早く地蔵を破壊してしまいました。

Photo4 破壊している作業者

Photo5 地蔵の台座もハンマーで破壊中
川越市は観光客誘致に熱心で川越まつりはユネスコ無形文化遺産、国指定重要無形民俗文化財になっていますが目立たない歴史遺産は全く保護されていません。もう少し歴史遺産に光を当てたらどうかと思います。
今日破壊された首切り地蔵は江戸の小塚原刑場や鈴ヶ森刑場と言った処刑場と同じように川越街道横にあった川越藩の処刑場跡です。地蔵を破壊していた業者の車は山梨ナンバー、土地の所有者は隣の市の不動産業者だそうです。
首切り地蔵(開明地蔵大菩薩)は宝永6年(1709)3月の造立なので300年以上の歴史があります。ドリルとハンマーで破壊するのではなく、どこか他所に移転してほしかった。
地元の人々に相談に声をかけられることもなく、気が付いた時には無残な姿にされていました。
新河岸と隣の福岡河岸

Photo0 新河岸河岸場跡に整備された船着き場と緑が増した対岸の堤防
記録
日程:2019,03,26
メンバー:安田
03/26 天候 晴れ:
行程10.6km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
近所のホームセンターの桜が5分咲きになってきたが公園の桜は漸く咲き始めたばかり。ホームセンタ-の桜の下は駐車場でアスファルト、一方公園は土なので照り返しの気温差で開花が少しずれるのか?
まだ朝は肌寒いがだいぶ緑が目につくようになってきたので新河岸川の土手歩きに出掛けた。
高階市民センターから市道5322を東に向かい東上線に突き当たったところを道なりに進んで新河岸駅踏切を渡り、東上線に沿って戻るように市道44を進んでちょうど市道5322の延長になる市道5334で左折。
市道5334が突き当たる市道5339に出るとすぐに市道43に出る。市道43を新河岸川を目指して進み旭橋への緩い坂の途中で右折するとすぐに右手に新河岸川舟運の舟問屋”伊勢安”の建物が現れた。

Photo1 かつては江戸にまで出店を持っていた舟問屋“伊勢安”
”伊勢安“”の向かい側の坂を下ると力石のある厳島神社前の広場に出た。
文献や案内書では新河岸日枝神社に力石があると書かれているが実際には日枝神社から石段を下ったところにある厳島神社が正しい。
川越市の市報”広報川越”のシリーズ「川越時間旅行」に「力自慢たちのモニュメント」として力石(市内元町の力石)が紹介れ、”ちから姫“さんのブログにも素敵な文章で紹介されています。昨年来市役所に力石の保護をお願いしていますが、今回広く市民に啓蒙いていただこうと広報誌の紙面に載せていただいた。
奥まったところにある力石とは逆に広場を新河岸川に向かうと新河岸河岸場跡があり、土手を下った河川敷には平成19年に整備された船着き場があり毎年季節には、”灯篭流し”や”ひらた舟の体験試乗”が行われる。
緑が増し黄色いからし菜の花が咲き始めた対岸を見ながら河川敷の踏跡を下流に向かって進むとやがて道は堤防の上に上がり、右手に寺尾調整けが見えてきた。暖かくなってきて芽吹いた調整池の中の柳の緑を眺めながら堤防上を進み、新養老橋を過ぎるとやがて県道335並木川崎線の川崎橋が見えてくる。
県道335は南古谷駅前からふじみ野市川崎で県道56さいたまふじみ野所沢線に合流する短い県道で、ふじみ野市にあった陸軍造兵廠川越工場(通称”火工廠”)と川越線の南古谷駅をほぼ直線で結んでいた軍用道路だった。
川崎橋から県道335を上福岡方面に進み緩い坂道を登りながら左手の森の中にある白山神社の入口を探したが、見つからないので県道335から横道に入ったやがて県道56に出てしまった。以前川崎橋から県道の養老橋まで歩いた時に河川敷の散歩道の途中に”白山神社“と書かれた案内板があったことを思い出し、養老橋畔から散歩道に入り川崎橋へ戻る途中にあった案内板のところから崖上に登ると白山神社があった。

Photo2 参道入口が不明な白山神社
神社から続く細い参道はすぐに途絶えてしまい民家の庭先を抜けて漸く舗装道路に出たが、ちょうど先ほどこのあたりが神社入口であろうと目星をつけた場所であったが道路からだと案内板もないし、それらしき細道を辿っても民家の庭先に出てしまうのでよく知らないと白山神社にはたどり着けない。
白山神社から県道を進み左に折れて坂を下ってゆくと途中に福岡河岸記念館がある。

Photo3 今は福岡河岸記念館として公開されている舟問屋“福田屋”
新河岸川福岡河岸の舟問屋”福田屋”の明治時代の様子(東上線開通以前の舟運最盛期)を再現したもので、現在は東上線開通に尽力した”福田屋”十一代目星野仙蔵氏の功績等が展示されているらしい。
新河岸の”伊勢安”が通り面した間口の広い今にも番頭さんが現れそうな大店の風情を残しているのに対し、”福田屋”は三階建ての建物で新河岸川を見下ろすようになっておりどちらかというと趣味風な建物になっている。

Photo4 福岡河岸と船着き場 養老橋を渡ると対岸に舟問屋”橋本屋“があった
”福田屋”を通り過ぎて福岡河岸跡に出るとここにも新河岸と同じような船着き場があった。対岸の養老橋の畔には”はしもと”と看板の出ている店があるが古市場河岸で舟問屋を営んでいたという”橋本屋”の後裔であろうか?
船着き場から河川敷を行けばやがて武蔵野台地端の権現山古墳群の下に出るが、次の坂道を登り返し台地上に出た。住宅街の中で見通しが利かず適当に進むとやがてコンクリート塀が現れた。

Photo5 大日本印刷工場の工場を取り囲む塀 内側はかつて火工廠だった
左に進んで県道56まで出てコンクリート塀の内側がかつての 陸軍造兵廠川越製造所(通称“火工廠”)の跡地(現在は大日本印刷)であることを確認して立ち戻り、コンクリート塀に沿って進んだ。
左手の住宅が途切れると樹木が生い茂った新河岸川への崖となり、樹木の隙間から対岸の低地が見下ろせる。やがてコンクリート塀が途切れると3世紀の古墳時代の遺跡、雑木林に覆われた権現山古墳群があらわれた。

Photo6 権現山古墳群
一見途切れたように見えたコンクリート塀は左に続くので塀沿いの道を進みやがて2車線の道路に出たところで右折、再び県道56を目指した。
火工廠跡を2分しているこの道は火工廠時代には無かった道で戦後火工廠跡が民間に払い下げられた時にできたらしい。
今まで歩いてきた道に囲まれた部分は火工廠の東側半分で他の軍用地と同じように今では大日本印刷や日本無線、新日本無線といった会社の敷地になっている。西側半分は昭和30年代前半に日本住宅公団によって上野台団地ができさらに最近再開発されマンション群が立ち並んでいる。
県道56を越えると戦前の国策会社 ”日本無線電信株式会社” の跡地があり、

Photo7 アンテナがある建物がKIID 右側がイトウヨーカドーとその駐車場
現在大部分はイトウヨーカドーに一部が日本無線電信の流れをくむKDDIの総合研究所になっている。
子供の頃には火工廠は現在のとは違う高いコンクリートで囲まれ、中には高く目立つ給水塔が建っていたがいつの間にか撤去されてしまったので、今では地図上で住宅に囲まれた広い工場敷地や公共機関が火工廠跡だと確認できるだけで当時を物語るものは無くなってしまった。
県道56のKDDI総合研究所横から踏み入った大原あたりは一面の麦畑で、丸太を継ぎ足した背の高い鉄塔(木塔)があちこちに立ち並びその間を電線で繋げたアンテナが林立していたが今ではすっかり姿を消し住宅街に変貌している。
このあたりは道路整備が遅れたので各所で行き止まりや屈曲した連続したコーナーがあり地図なしでは通り抜けられない。唯一通り抜けられるのが昔からの道だがこれも今となっては狭く大部分が一方通になっている。
地図を持たずに歩いたのでひたすら目指す方向に進み、コーナーごとに曲がっていたが目的地を定めない散歩だからよいようなもの目的地があるときは近道だと思ってもこのあたりには踏み入らないほうが賢明だ。
どこをどう歩いたか記憶が定かでないがようやく上福岡東口駅前に出ると埼玉県で一番たばこの売り上げが多いという”上福岡タバコセンター星野”がある。

Photo8 駅前の角にあるタバコ屋が“上福岡タバコセンター 星野”
上福岡タバコセンターは福岡河岸の”福田屋”星野仙蔵の後裔で女優星野真理さんの実家。といっても住まいは違いますが。
高校生の時に同姓の友達に聞いたときの記憶による上福岡駅東口一帯は星野一族の所有だとか。今となっては友達の消息は解らないが・・・星野タバコセンターのオーナーになっているかもしれない。
上福岡駅前の歩道横には”上福岡開設記念碑”があり

Phot9 駅前の歩道横にある“上福岡駅開設記念碑“
東上線開通に尽力した星野仙蔵氏の事跡が刻まれています。物資の輸送手段を舟運から鉄道輸送に切り替えた舟問屋の経営者ですから新河岸の”伊勢安”主人とともに時代の流れを見据えた先見の明がある人だった。
上福岡駅から一旦県道56の踏切に出て川越方面に向かって線路沿いに戻り、ふじみ野市と川越市の市境になっている市道5458を横切り、坂を下って市道5428を進み稲荷町の坂を上ると縄文遺跡が出土した藤原町遺跡の横に出た。

Photo10 藤原町遺跡という縄文遺跡があったところに建つマンション
現在、遺跡だったところには遠くからも見える大きなマンションが建っているが、建設時に遺跡が発見された際の350ページほどの発掘調査報告書が川越市立図書館に所蔵されているが貸し出し禁止。

Photo11 縄文遺跡から発掘された住居跡と土器
知人を尋ねてみると関係者だったので報告書を持っているとのことだったので早々に拝借するが・・・中身が専門的過ぎてよく解らないが、遺跡からは縄文早期後半や中期の住居跡や土器、石器、落とし穴跡、石鏃などが出てきたらしい。遺跡は台地上の畑だったところで覆土が薄く当時の地表下まで農作物の牛蒡が侵入していたらしい。出土品は川越博物館に保存され特別展の時だけ出展されたとのことだった
縄文遺跡といってもよく解らないのだが・・・・住居跡はどこかへ移り住めば住居跡は残る。破損した土器はその場に当然捨てられる。土器は粘土が入手できれば制作可能なので重いものは残す。
しかし石鏃のような鋭利な石の材料は和田峠や他の遠隔地からもたらされた貴重品でしかも容易に持ち運ぶことができたので狩猟採集生活は必需品だった石鏃が残されていたということは・・・・・食量を求めて移動以外に敵に襲われ逃げ去ということもあったのか?
藤原町遺跡からは市道5414市道5427市道5332市道5325を辿って高階市民センターへと戻った。
江戸から明治にかけての舟運、縄文遺跡や古墳、戦争時の火工廠跡と頭の中が大混乱した散歩だった。
川越街道 藤間あたり

Photo0 処刑場跡に立つ開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)
記録
日程:2019,03,22
メンバー:安田
03/22 天候 晴れ:
行程6.95km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
春彼岸の中日、春分の日が過ぎたら都内の桜の開花宣言が出ていよいよ春本番。風が少しあるものの自宅近辺を歩き回るには丁度良いので江戸時代初期に整備された川越街道旧道(現在は市道64)の散策に出かけた。
いつもの事ながら高階市民センターから歩き出し、市道5233を東に向かい、東上線に突き当たったところで道なりに新河岸駅方面に進んで新河岸駅踏切手前で市道5321に左折した。市道5321は高階村成立以前は藤馬村(明治の初めに藤間村と改称。江戸時代は藤馬村。更にそれ以前は藤間村)と砂新田の境だった。

Photo1 藤馬村(藤間村)と砂新田の境界 現在は市道5321
市道5231を進みR254(川越街道)に出るとその先は現在高階中学校になっているが、戦後の教育改革で高階中学校が出来る以前はR254を越えて川越街道旧道(現在の市道46まで延びていた。
戦後直ぐの航空写真を見つけたので高階中学校付近の写真を切り出してみるとかつての村境(中学校建設当時は大字の境)の道をつぶし、畑と雑木林だった土地に中学校が建設される様子が良く解る。

Photo2 高階中学校建設の様子
R254を越えて市道5325を西に進み市道46 (川越街道旧道)との交差点で左折し高階中学校に沿って進むとやがて市道51との分岐に出る。

Photo3 市道46と51の分岐 分岐の中央が開明地蔵大菩薩
かつての川越街道のこの間は両側が杉並木で子供の頃にはまだ何本か杉の巨木が残っていたが、今では伐採され住宅や商店が建ち並び痕跡すらのこっていない。姿を消してしまった川越街道の杉並木は有名な日光街道の杉並木と同様に川越城主松平伊豆守信綱によるものだった。
市道46と市道51の分岐のところにある開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)は”お仕置き場”と呼ばれ刑場跡だと言われているが、高階村の外れでもないし、ましてや藤間地区の中央部だし?????なぜこの場所にあるのか子供の頃から疑問だった。
新編武蔵野風土記稿寛政重修諸家譜といった古書の活字本が国会図書館のデジタルコレクションの中にあり、自宅のパソコンでも見ることが出来るので調べてみると徳川家康の関東入府以来川越城主は酒井家、堀田家、松平家(大河内)、柳沢家、秋元家、松平(越前)家、松平(松井)家と変わっている。
更に所領について調べてみると酒井家から松平(大河内)家の時代まで藤馬村を取り囲む砂新田や寺尾村砂村は川越領となっていたが藤馬村だけは旗本米津(よねきつ)氏の所領となっていたことが解った。
つまり藤馬村は川越街道が整備された松平伊豆守信綱時代は米津氏領、元禄時代になって柳沢吉保が城主になったときに加増で藤馬村は川越領となったので藤馬村が川越城付領に組み込まれるまでは砂新田が川越城付領のもっとも外れになっていた。
江戸の府内の外れにあった日光街道の小塚原刑場や東海道の鈴ヶ森刑場と同じように人の行き来が多かった川越街道の砂新田の外れに刑場が置かれたのであろう。
米津領藤馬村が川越城付領になってもそのまま残され現在に至っていると思われる。
専門家ではないので断言することは出来ないが漸く長年の疑問に対し答えを見出すことが出来た。
市道46を更に進み東光寺前の坂を降って行くと(武蔵野台地から降ると)かつて川越街道には川越城下に近いほうから一の橋、二の橋、三の橋があったという。
先日歩いた(藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り)流路の痕跡が残る北江川に架かっていた橋が一の橋、

Photo4 川越街道の一の橋から下流側
そして現在は江川都市下水路となって地下トンネルになっている江川の橋が三の橋だったというが川五街道を歩いた記録のブログや記録を見ても二の橋の場所は不明になっている。
一ノ橋と二の橋の中間あるはずの二の橋の痕跡を探しながら歩くと市道46から左側の民家に入る私道の横にそれらしき掘割を見つけた。

Photo5 川越街道二の橋から下流側 道路右側が流路 道の突き当りは民家
市道46の右側の家々は塀が密着し川の痕跡と思われるものが見当たらないので下流に向かって進むと、民家の間を縫うように曲がりながら掘割が続き

Photo6 明瞭になった掘割 奥がR254
やがて市道6402に出た。
直ぐに交わるR254を越え市道5422に出ると道に沿って暗渠が続いているので、

Photo7 市道5422右側が暗渠
区画整理される前には間違いなく二の橋の下を流れる川があったことが解った。市道5422を暗渠の行き先を求めて進むと東上線の線路手前の市道5428との交差点で暗渠が消え失せてしまった。
道路を良く見るとマンホールの蓋に”うすい”とかかれたものと”おすい”とかかれた2種類あることを発見したので

Photo8 雨水マンホールの蓋
今度は”うすい”のマンホールを探しながら市道5428を進むと地下を江川都市下水路が通っている市道5455に出てしまった。おそらくここで下水路に合流していると思われる。
市道5455を越えてコンクリート階段を上り、武蔵野台地上にあるふじみ野市との境の市道5458に出て左折、藤間北野歩道橋で東上線を越えて市道44に出たところで左折し、区画整理で変わってしまった東上線西側とは違い未整理のまま住宅が建ち並んでしまった東側から川の痕跡を探してみたが何も発見できなかった。
一の橋があった北江川、三の橋があった江川(今は江川都市下水路)は共に東上線の鉄橋(今では道路)があったが、この間は東上線が土手の上を走っているので区画整理されて暗渠になる以前の東上線開通時から二の橋があった川は江川に合流していたのかもしれない。
古い地図にも現われていないので普段は水が無く、降雨後に流れが現われるような小河川だったのであろう。(地図上のa、b、c、dは以前のブログと同じで区画整理後失われた古道が東上線と交わる地点を示しています。)
藤馬村と寺尾村の境界の道、市道44(寺尾街道)を更に新河岸駅方面に進み市道43に出て踏み切りを渡り直進、高階小学校前から市道5538市道5537市道5325を経て高階市民センターへ戻った。
砂久保陣場跡と藤間流発祥地

Photo0 河越夜戦のときの砂久保陣場跡がある砂久保稲荷神社
記録
日程:2019,03,10
メンバー:安田
03/10 天候 曇り:
行程9.7km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
庭の福寿草の花が散り数本ある梅も遅咲きの紅梅が満開になっていよいよ近所の桜を待つだけになってきたので、道から見える花木を楽しもうと後北条氏が関東覇権を完成させた河越夜戦の陣場跡と、江戸時代になって生まれた日本舞踊藤間流の発祥地を巡る散策に出かけた。
いつものように高階市民センターから市道5325を北上し江戸時代の開墾の跡を残す一列に並んだ農家の庭先を抜けて西に進みR254を横断。市道6325市道6316を経て市道46で五ツ又の五差路を直進して戦国時代に関東の覇権をかけて上杉と北条が戦った河越夜戦の陣を張ったと伝えられる砂久保陣場跡の解説板が建つ砂久保稲荷神社に着いた。

Photo1 砂久保稲荷神社境内に建つ陣場跡の解説板
砂久保陣場跡について少し詳しく触れます。
情勢
天文6年(1537)、扇谷上杉朝定の河越城を後北条氏2代の北条氏綱が奪取して武蔵国支配を確定し、「河越衆」と呼ばれる精鋭部隊が置かれた。
天文14年(1545)、上杉朝定は古河公方足利晴氏、山内上杉氏の上杉憲政と連合を組み10月から8万の大軍で河越城を包囲。
河越城主北条綱成は半年に及ぶ篭城で抵抗し、天文15年(1546)4月に包囲している上杉勢を小田原から出陣した北条氏康と共に撃退し(河越夜戦)北条氏による武蔵国の支配を完成した。(当時は河越ではなく川越)
解説版について
砂久保というところは河越夜戦から100年後の正保の頃(1644~1648)に開墾されたので更に100年遡る当時はススキの原野か雑木林だったと思われ、陣馬跡といっても土塁などの遺構は無く、古文書にある「砂窪」という地名に導かれて陣場跡という史跡としたので、川越市教育委員会が便宜上藤久保稲荷神社に解説板を建てたようです。
このとき河越城を包囲した上杉か、それとも援軍に駆けつけた北条か、どちらかが砂久保(砂窪)に陣を構えたのか?
以前にあった解説板では文化・文政期(1804~1829)に編纂された『新編武蔵野風土記稿』にあるように「上杉憲政が砂久保に陣を敷き4月20日に援軍に駆けつけた北条氏康が攻めた」と書かれていたが
現在の解説板では『北条氏康書状』(「北条記」「歴代古案」に所収)や『北条五代記』にあるように
「天文15年4月20日に上杉憲政が攻めかかり北条氏康が迎撃、河越城内から北条綱成が撃って出て両方面から北条は勝利します」となっており
砂久保陣馬は上杉から北条へと変更され攻守が逆になっている。
新編武蔵野風土記稿は戦いからおよそ240年後の地誌、一方の氏康書状は戦直後のものであるから研究が進んだ結果、陣場の主も変わったのであろう。
何れにしても勝者は北条、敗者は上杉であるがこの後豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすまで武田信玄、上杉謙信、前田利家など幾多の武将が武蔵国に兵を進めてきました。
砂久保稲荷神社のところで市道46は右に曲がるがそのまま直進して市道6342に入り、市道6341市道6359市道6360市道6358を経て市道64に出た。
このあたりは所々に住宅があるものの江戸時代の武蔵野開発の跡をとどめる短冊状の大区画の畑がかなり残っている。地図上に描かれている道幅をもった道は昔から人が往来した道かあるいは近年の宅地化によって作られた道であるが、一本線で描かれている道は昔からの農道で土地の区画を留めている。

Photo2 砂久保地区の畑 関東ロームで赤土だが腐葉土を入れると黒くなる
江戸時代の初期までの開発では土地の区画は一塊になった数件の農家を取り巻くように畑があるが、
川越城主が松平伊豆守信綱や柳沢吉保のときに開墾されたところは農家が道路に沿って一列に並び、土地の区画は短冊状になっているので地図を見れば開墾されたおよその年代がわかる。
市道50を西に進み関越道手前の交差点の右角に明治40年4月に建てられた「肥料共同購十週年紀念碑(ママ)」があった。

Photo3 肥料共同購十週年紀念碑
丁度明治30~40年頃は新河岸川舟運の最盛期にあたり、新河岸五河岸に加え仙波河岸も開かれていた。
市道50を更に進み関越道をくぐるトンネル手前で左折し関越道沿いの市道6433を進むと道の左側は雑木林になり緩やかな上り坂になっている。雑木林に差し掛かったところで散歩道らしき踏跡を発見し市道6433から外れて進んでみるが直ぐに民家に出たので再び関越道沿いの市道6433に出て南下。

Photo4 関越道沿いに進む
関越道下を通る市道51を越えて道なりに進み市道49に出たところで左折して北上、再び雑木林の中を進んだ。
市道51に沿って下松原集落の農家が東西に建ち並び雑木林や畑の区画が短冊状に残っているので江戸時代の開墾跡だということが良く解る。
市道49を進むと市道51沿いに並ぶ農家の裏側の雑木林の中に数箇所の屋敷墓があった。

Photo5 雑木や竹林の中にある屋敷墓
遠くから見ると新しそうな墓も見受けられたが、寺ではなく自宅近くに死者が葬られ開墾当時から代々受け継がれてきたのだろう。
地図上に一本線で描かれた雑木林の中の径の殆どは市道49との交点に車の進入を防ぐように横棒が架かっているがその中の交点の一つの道角に古い木彫を発見したので立ち入ってみた。

Photo6 “木彫の径”入口
落ち葉がきれいに掃かれた雑木林の中の径を進むと

Photo7 “木彫の径”注意の林の落ち葉はきれいに掃かれている
やがていろいろな木彫が置かれた小広場に出た。

Photo8 “木彫の広場”
木彫は雑木林の中の太い木を使いチェーンソーで刻まれた1mほどのもので味わいがあり、木々が芽吹く季節には良い休憩所になる。(名称が無いので勝手に“木彫の径””木彫の広場“と呼びました)
木彫のある広場から雑木林に囲まれた隠田のような畑の片隅を通り

Photo9 周囲を雑木林に囲まれた隠田のような畑 里芋植え付け中
市道6394に出て「森のさんぽ道」(仮称)に入り雑木林を抜けて送電鉄塔(東京電力京北線16)の下を進むと市道51に出た。
市道51を少し進んで鋭角に曲がって市道6420に入り、左側の畑の遥か先に見える家並みの間から市道64(川越街道旧道)に抜けられそうな畑の中の作業道を進み、市道64に出て左折し川越方面に少し進んで市道6402に再び右折しR254に出る手前の分岐を右に進んでR254に出て横断。
川越方面に国道を進むと右側にブロック塀に囲まれた「藤間流発祥地」がある。

Photo10 藤間流発祥地の碑
日本舞踊藤間流の創流者藤間勘兵衛の出身地で碑が建っているが、藤間流は勘右衛門派・勘十郎派・勘兵衛派にわかれその後勘兵衛派は断絶してしまった。
藤間勘兵衛は新井氏といわれ、現在も血脈が残り藤間地区には新井氏が多い。
R245から市道5442に右折し、諏訪町・稲荷町・藤原町を経て

Photo11 農家にとっては雑草のホトケノザもレンタル菜園では?
高階市民センターへ戻った。途中のレンタル菜園にはホトケノザが満開だった。
ふじみ野市 六道の辻

Photo0 “六道の辻”にある六道地蔵
記録
日程:2019,02,20
メンバー:安田
02/20天候 晴れ:
行程12.4km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
久々に気温が上がり春めいてきたので高階市民センターがある台地から隣の台地・上福岡を歩いてみることにした。
上福岡の台地上には”六道の辻”と呼ばれるところがあり、今では解りにくくなっているがかつては麦畑の中を通る古道が交わっていた。
東上線西側部分に昭和30年代初めに住宅公団により霞ヶ丘団地を造成され始め、34年に完成して入居が始まるとあたりの景色も一変し、高階市民センターのある台地の南端、今の藤原町や稲荷町の坂上からは建設中の白く聳える公団住宅が遠望できた。
高階市民センターと上福岡の台地はともに武蔵野台地末端部なのでその間にある低地は縄文時代には海の入り江だった。崖線部には住居跡や土器などが見つかっている。
上福岡の台地北西端は霞ヶ丘団地の影響もあって民間業者による開発が進み、昭和30年代後半になり台地の間の低地が区画整理されて熊野町・清水町・稲荷町の4町が生まれたが既に宅地化された部分は区画整理から取り残されてしまった。
現在、市道5455と市道5458にはさまれた北斜面の地域は台地の上から低地に向かって櫛の歯のように道が並び、坂道の途中が石段になっていたり行き止まりになっているところがある。台地の崖線下には着色した水や汚水が流れる江川が流れていたが今は地下を流れる江川都市下水路となっている。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5425に入り藤原町を通過して坂を下りしばらく進んで市道5455とのT字路で右折。少し進んで曲がりくねった市道5457に入った。

Photo1 川越市道54575 左右の地面の高さ違いから崖線下と解る(振り返って撮影)
市道5457は直ぐにR254に出てしまうが、道の左側はコンクリートや石積みの擁壁になっておりかつての崖線の様子を色濃く残している。
R254に出て左折してすぐの藤間歩道橋のところから

Photo2 藤間歩道橋
六道の1つ”まちや道”に入った。住宅街の中の一方通行の道を進み正面に地蔵が見え出すと“六道の辻”に出た。

Photo3 “六道の辻“ 右上に進むと上福岡駅方面
仏教で言う六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という輪廻転生する6種の世界だが、
ここでいう六道とは①福岡・引又道(引又とは志木市にあった新河岸川の引又河岸のこと)、②亀久保・江戸道(江戸道とは旧川越街道のこと。川越街道と呼ばれるのは明治以降で江戸時代は江戸道)、③鶴岡道、④藤間・町屋道(町屋とは川越城下のことか?)、⑤寺尾・新河岸道、⑥古市場道という交差している6古道をいう。
“六道の辻“でV字ターンをして”つるおか道”に入り暫く進むとR254に出た。
交通量の多いR254を避けて手前のR254と並行する路地を進み県道56に出たところで左折、暫く県道56を進んだ後上福岡駅を目指して左折、住宅街の中を歩いてわずかに”ひきまた道”の痕跡を残す駅前に出た。ここから再び“六道の辻”を目指して進み、“六道の辻”で再びV字ターンして”えど道”をしばらく歩いて上福岡青果市場のところから再び県道56に出た。

Photo4 上福岡青果市場 県道を進むと東上線踏切方面
上福岡青果市場は一般客相手の小売市場ではなく、川越南部やふじみ野市など周辺の農家から出荷される野菜類の集積市場で丁度箱詰めにされたホウレン草が運び込まれていた。
上福岡青果市場から県道56を少し進んで右折し、県道56に合流する狭い裏道を北東に進み、東上線踏切の少し手前で県道56に合流して東上線を越え直ぐに左折。

Photo5 東上線で分断された”ひきまた道” ホームを越えた先が”六道の辻“
東上線に分断された”ひきまた道”に出たところで右折し県道56を横断して直進した。
県道56を越えたところから”ひきまた道”は商店が連る中央通りと名を変え、七夕のときには垂れ下がった七夕飾りと人出で進むのが困難なほどの賑わいをみせたが、今ではシャッター通りの様相を呈しマンションや駐車場、空き地が目につく。
図書館前の交差点で再びV字ターンで折り返し、上野台団地が再開発でコンフォール上野台と名前を変え、その一角にある中央公園横の道路を上福岡駅方面に戻った。
上野台団地以前にあった火工廠ができる昭和初期までは地図上に赤線で示した古道(新河岸と引又河岸を結ぶ陸路)があった。
上福岡駅入口交差点で右折し、

Photo6 寺尾街道(川越市に入ると市道44)
直ぐに左折して古道の跡を少し歩いて再び左折して上福岡駅東口前に出た。ここから東上線に沿ってマーケットの間を通り抜けた先の突当りが”ふるいちば道”で左手は線路で行き止まり(A地点)、

Photo7分断された”ふるいちば道” 線路の先は”六道の辻“へ繋がっていた
右に暫く進んで左から鋭角で合流する道へV字ターンし、西に向かって暫く進むと再び東上線の線路で行き止まり(B地点)。

Photo8 川越市とふじみ野市境の藤間歩道橋まで伸びていた古道跡
少し戻って線路と並行する道を北上し、川越市とふじみ野市境の道を東に進んで市道44に出て左折、坂を降る途中で左折し市道5403に入った。
市道5403は”六道の辻”から延びる”しんがし道”の一端で台地から降って寺尾街道(市道44)に合流する。

Photo9 東上線と寺尾街道(市道44)の間に残る“しんがし道”
さらに寺尾街道を北西に進み、藤間諏訪神社の東側の分岐を右に進む(市道5341)と新河岸に出る。
市道5403も東上線に突き当たり(C地点)、左に折れて線路に沿って狭い坂道を上がってゆくと市境の市道5458に出た。

Photo10東上線を跨ぐ藤間北野歩道橋(線路の先が上福岡駅)
藤間北野歩道橋で東上線を越え、さらに市道5458を進んで旧霞ヶ丘団地の末端まで来たところで左折、B地点からの古道で右折しR254の藤間歩道橋の下に戻った。
藤間歩道橋からR254を少し歩いてR254と川越街道旧道(市道64)の間にある市道6406市道6404市道6400を経てR254を渡り出発点の高階市民センターへ戻った。
幸いにも”六道の辻”は霞ヶ丘団地に取り込まれずに残ったが”六道の辻”を通過していた古道は東上線建設で分断され、霞ヶ丘団地部分は消滅した。
”しんがし道”部分が残っているようにも見えるが霞ヶ丘団地時代に拡幅直線化され古道であったことが窺い知れる物は無い。
川越市 南古谷 並木の大クス

Photo0 埼玉県の天然記念物 “並木の大クス”
記録
日程:2019,02,19
メンバー:安田
02/19天候 晴れ:
行程9.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
以前出掛けた茂来山の”コブ太郎”(トチノキの大木)を思い出し、それよりは小ぶりだが埼玉県指定天然記念物になっている”並木の大クス”を見に出掛けた。
”並木の大クス”は目通り幹囲が5.8mと言われるが前回は遠くから眺めただけだったが今回は住宅街の中をうろついて漸く全体像を見ることが出来た。
いつもと同じように高階市民センターから市道5322を歩き市道43に出て東上線踏切を越えて新河岸川手前で県道336に入り、新河岸川の旭橋と九十川の共栄橋を渡ってR254(ふじみ川越道路)に出た。更に県道336を直進し県道335との交差点に出た。ここまで県道とはいうものの道幅は狭く曲がりくねっているので歩いただけでは市道と県道の区別がつかない。まぁ国道とは名ばかりのところもあるので同じようなものか。
県道335の起点である南古谷方面に北上し大クスが見えてきたところで市道4370に右折したが住宅街に入り込んでしまったので、そのまま道なりに進むと右に曲がったり左に曲がったりしたあと漸く県道113に出ることが出来た。市道4370は県道335から県道113への車の抜け道となら無いように考えられた道なのかそれとも都市計画以前の住宅開発の跡なのかわからないが車では入り込むには覚悟が必要な道だ。
県道113を南古谷駅方面に少し進んで市道4184に右折。大クスの全体像を見ようと程よい距離で周囲を巡るが住宅に囲まれていて全体像どころか姿が全く隠れてしまうようなところもあった。
市道4184の先には田圃が広がり、さらにその向こうにはJRの川越車両センターが見えてきた。

Photo1 川越車両センター遠景
川越車両センターは昭和60年に川越電車区として使用が開始され、平成4年に改称された埼京線・川越線・八高線の運行車両の基地。
市道4182市道7180と巡ったが大クス全体の姿を見ることが出来ないので住宅街の中に入り込んでみると狭い公園((大クス公園))の中央に大枝を広げていた。植生保護のため根元まで近づくことが出来ず幹に触れることが出来なかったが公園脇の道路から漸く全体像を捉えることが出来た。
”並木の大クス”を後に県道113を川越市内方面に向かい川越線踏切手前で市道5461に左折、川越線沿いに暫く歩くと九十川手前で道は左に折れ、九十側沿いの道となった。川越線の九十川橋梁は新しくなったコンクリート製の新河岸川橋梁と異なり、

Photo2 JR川越線 九十川橋梁
古いままの鉄製ブレードガーダー橋なので近づいてみようと思ったが鉄柵で近づけなかった。次回訪れるときには対岸から迫ってみよう。
九十川左岸を進むと学校橋に出たがそのまま九十川の堤防上を進むと、かつて蛇行していた時代の河道跡と思われる空間(田圃)が現われた。

Photo3 九十川直線化以前の河道跡
地図では田圃の向こうの道路が弧を描いているのが良く解るが全体を捉えられない写真では良く解らない。
九十川の堤防上を歩き県道336の共栄橋に出たところで右岸に渡り、

Photo4 共栄橋から九十川上流側
更に新河岸川との合流点を目指して進み、途中に唯一残された無名の人道橋で左折し堤防から降った。

Photo5 幅が狭い無名の人道橋
昭和初期に開鑿された九十川の両岸の田圃を結ぶ農道の橋でリヤーカーが通れるほどの幅しかなく、かつては欄干も無かった。記憶によると橋から田圃の中に伸びる農道があったはずなので市道5242を辿ると昭和52年に開校した牛子小学校に突き当たってしまった。どうやらそのときに一帯の区画整理が行われ記憶の片隅にあった農道は消滅したようだ。
牛子小学校から市道5231、市道5230を経て県道335に戻り、新河岸川を渡って市道5340に左折した。新河岸地区から寺尾地区に入るとかつては畑が広がっていたので周囲の景色から判断して迷うことは無かったが、住宅が建ち並んだ今は自分の位置さえ解りにくい。
市道5340から市道5345に入り漸く見通しの利く住宅街の片隅に出たところで、遠くに見える散歩している人の姿を追いながら農道を歩いてどうにか市道5322に出た。
市道5322から市道5331市道5322と歩きいつものように高階市民センターへと戻った。
新河岸駅・南古谷駅・上福岡駅 3駅周回

Photo0 新河岸の対岸から見た蓮光寺 左の木立のあたりに惣門があります
記録
日程:2019,02,13
メンバー:安田
02/13天候 晴れ:
行程11.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
JR川越線の南古谷駅からふじみ野市に向かってほぼ直線で伸びる埼玉県道335(並木ふじみ野線)はふじみ野市に入ると直ぐに埼玉県道56(さいたまふじみ野所沢線)に合流している。
地図を見ると県道56は曲がりくねっていて古くからの道だったことは解るのだが・・・・県道335とは?
調べてみると県道335はかつてふじみ野市にあった火工廠(東京第一陸軍造兵廠川越製造所)と南古谷駅を結ぶ軍事道路だった。川越線が開通したのが昭和15年なので時を同じくして開かれたのであろう。
先日の散策で新河岸川の堤防の上から川越線(埼京線)を走る電車を見たので今日は東上線の2駅(新河岸駅とふじみ野市の上福岡駅)と川越線の南古谷駅の3駅を結んで歩いた。
いつものように高階市民センターから市道5322を東進し、東上線踏切を渡って更に線路沿いに進むと新河岸駅。
新河岸駅は大正3年の東上線開通から1ヶ月遅れて高階駅として開業、

Photo1 開業時とほとんど変わらない新河岸駅踏切時代
その後大正5年10月に新河岸駅に変更された。駅が存在する村名から高階駅と名付けられたのであろうが当時はまだ新河岸川の舟運が運行されており、新河岸のほうが広く知れていたので駅名を変更したものと思われる。
その後東上線は電化、複線化されたが駅は殆ど変わらず、子供のころ駅舎からホームへは池袋側の踏切を渡って電車に乗った。
昭和40年頃川越側にホームが延長されたとき直近の踏切が廃止され電車は8両編成化、昭和54年に駅舎からホームへはそれまでの踏切から跨線橋になってホームが池袋側に延長され電車は10両編成となった。

Photo2 跨線橋になった新河岸駅
新河岸駅ホームの古い基礎部分は大谷石が積まれているが川越側と池袋側にそれぞれ延長されると延長部分は鉄骨製になり、また基礎の高さも当初より増していることが横から見た拡幅・延長跡から解る。

Photo3 駅ホーム 延長部分は鉄骨製
新河岸駅は開業以来改札口が1ヶ所(西側、以前は東側には畑が広がっていた)だったので利用者の増加とともに東口開設の要望が増し、平成29年になって長年の懸案だった東西を結ぶ線路を跨ぐ通路をもった橋上駅になった。

Photo4 橋上新河岸駅 東口
新河岸駅から市道5309を進み県道336に出て新河岸川の旭橋を目指した。
途中の砂氷川神社と新河岸駅周辺は昭和29年に”人違いバラバラ事件”が起きたところで一躍有名になり今でも古くから住む人たちの間では語り継がれている。
事件は青年団の運動会帰りの19歳の女性が犯人の誤認で殺され、身体をバラバラに切断されて氷川神社や新河岸駅ホームの川越側への延長で廃止された踏切の西側にあった肥溜めに遺棄されていたというものだった。
乳房と性器は切り取られ膣や肛門には布切れを詰め込み、両足を切断したといった田舎の農村に起こった猟奇殺人事件だった
まだその頃のことを覚えている人たちによると、
”学校の社会見学で先生に引率されて現場を見に行った”とか”小学校の入学式が終わったら親と一緒に現場検証を見に行った”とか。
今でも”川越 バラバラ事件”や”高階村 バラバラ事件”などでネット検索すれば事件のことがいろいろ出てきます。
新河岸川旭橋から九十川の共栄橋を渡り市道5113進んで富士見川越道路(R254バイパス)の下をくぐり、さらに市道5090を進むと県道335並木川崎線に出た。
左折すると直ぐにJR川越線南古谷駅に出た。

Photo5 JR川越線(埼京線) 南古谷駅
駅前でUターンしてふじみ野市に向かって歩くと左側に”並木の大クス”(埼玉県指定天然記念物)が見えてきたが、

Photo6 並木の大クス
今回は立ち寄らずに暫く県道335を進んで新河岸川に架かる川崎橋(平成22年架け替え)を渡るとふじみ野市川崎地区に入った。
川崎橋を渡るとまもなく県道56との合流点(県道335の終点)だが今回は橋を渡ってすぐに新河岸川右岸堤防上に踏跡を見つけたので踏み入ってみた。
踏跡を辿り養老橋を越え更に進むと踏跡は崖線下の良く整備された散策道になり

Photo7 新河岸川沿いの散策道
やがて対岸に蓮光寺が見えてきた。(ページトップの写真)
先日の散策のおり不思議に思っていた蓮光寺の建物の配置(本堂山門は西向きに対し惣門は北向き)が疑問だったが、かつては本堂山門惣門と直線状に並び西向きで新河岸川に面していたが昭和8年の新河岸川の拡幅・改修工事で惣門は移動されたとのこと。納得!
散策道の終点から右折し緑地公園から道路を横切ると権現山古墳群に出た。全く時代が異なるが江戸時代の初め家康が鷹狩りのときに小山のような古墳群の上から東に広がる低湿地帯を眺めたとき、新河岸川対岸の蓮光寺が目に入り茶を所望。そのときに寺領七石を寺に与えたとか。
権現山古墳群を横切りかつては火工廠(今は大日本印刷や新日本無線、団地や学校等の公共施設となっている)の外周に沿って進み県道56に出た。

Photo8 コンフォール上野台
県道56を横切って進むと直ぐに上福岡駅でここの西側には霞ヶ丘団地が昭和34年、東側の火工廠跡には上野台団地が昭和35年に竣工し上福岡駅は昭和34年に東武鉄道(東上線ではなく東武鉄道)で初めての橋上駅になった。

Photo9 上福岡駅 東口
日本住宅公団が造成した両団地は老朽化し今はUR都市機構により再開発されて、上野台団地はコンフォール上野台に霞ヶ丘団地はコンフォール霞ヶ丘になっている。
上福岡駅で東上線を越えて線路伝いに進み、ふじみ野市と川越市の市境の跨線橋を右に見て坂道を降って市道5428を北上し清水町・稲荷町を経て坂を上り藤原町に入った。
市道5428と東上線の線路の間に建つ大型マンション”ソフィア川越四季彩の街”は

Photo10 藤原町遺跡があったところに建つマンション
縄文時代の住居跡が発掘された藤原町遺跡があったところだがそれをうかがい知るものは全く無い。
平成9年に出版された350ページに及ぶ川越市教育委員会の遺跡調査会報告書第19集も川越市中央図書館にあるのみでそれも貸し出し禁止となっているので殆ど一般人の目に触れることは無い。
川越市立博物館 を訪ねても資料は無く教育委員会を紹介されたにとどまった。
藤原町遺跡から更に市道5428を北上し市道5331市道5322を経て起点の高階市民センターに戻った。
川越五河岸と仙波河岸

Photo0 川越五河岸のうち下新河岸跡(手前)と寺尾河岸跡(奥)
記録
日程:2019,02,07
メンバー:安田
02/07天候 晴れ:
行程9.3km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
武蔵野台地の末端に位置する川越の東側には新河岸川が流れている。江戸時代から明治にかけてその新河岸川を利用した舟運が埼玉県西部から青梅方面までの物資輸送を担ってきが、やがて鉄道輸送の時代を迎えると舟運は衰えていった。
今日は舟運で栄えた川越五河岸と最上流に最後に開かれた仙波河岸を歩いた。新河岸川の舟運については各種の研究や出版物があるがもっとも簡潔にまとめられている みなと文化研究事業 の "川越(新河岸川)の「みなとの文化」" が参考になる。
いつものように高階市民センターから市道5322を歩き東上線の踏切を渡って市道43を東に進み緩い坂を降ると新河岸川に架かる旭橋に着く。旭橋から新河岸川の右岸上流側が①上新河岸、下流側が②下新河岸、さらに少し下ると③寺尾河岸、旭橋を渡った左岸が④牛子河岸で、さほど広くは無いところに河岸が存在していた。
旭橋を渡って左折し、新河岸川左岸堤防上を上流に向かうと直ぐに旭住宅という住宅地。

Photo1 旭住宅 右は旧九十川河道
昔の地図で見ると旧九十川と新河岸川の合流点で中州のようになっているところで大正から昭和の初めにかけての新河岸川改修で九十川の流路変更で出来たところで、昭和30年代に宅地化された。
丁度対岸にはそのときの新河岸川直線化で取り残された新河岸川の旧河道の一部がニジマスの釣堀(川越淡水魚センター)になっていたが、平成10年の洪水とその対策として実施された”激甚災害特別緊急事業”による堤防のかさ上げで今は無くなった。
川越線を走る電車を眺めながら良く整備された左岸堤防上を進むと新扇橋(平成15年)が見えてきた。かつて少し下流に扇橋があったが都市計画で上流に移動し名称も”新扇橋”となった。対岸(右岸)の辺りが⑤扇河岸が合ったところで江戸時代には最上流の河岸で、①~⑤までが川越五河岸と呼ばれていたが、明治になって更に上流に仙波河岸(明治2年)が設けられた。
新河岸旭橋の畔に河岸場跡の碑と説明板、それにコンクリートで造られた船着場があるが

Photo2 新河岸 河岸場跡
九十川の流路変更、新河岸川の直線化、堤防の強化など数回に及ぶ洪水対策でかつての面影を残すものは殆ど残っていない。
新扇橋の直ぐ上流は新河岸川と不老川の合流点で

Photo3 不老川(左)と新河岸川(右)の合流点
ここを過ぎると新河岸川は右に曲が始めJR川越線の新河岸川橋梁に差し掛かる。
昭和15年に大宮から高麗川に至る川越線が開通し、そのときに造られた鉄製橋桁のブレートガーダー橋(昭和11年)が架かっていたが、新河岸川改修工事に伴って平成22年にコンクリート製の新しい橋梁となった。
新河岸川橋梁から少し遡るとかつての川越市の下水処理場”滝ノ下終末処理場”(昭和41年から運転開始)が

Photo4 新河岸川上流水循環センター
あるが今は埼玉県に移管(平成18年)され、”新河岸川上流水循環センターとなっている。
不老川が昭和58年から3年連続で”日本一汚い川”になり、その対策の一環として水循環センターで処理した水を不老側上流の狭山市の入曽まで送り放流している。
滝ノ下橋を渡り市道を進むとR16をくぐる手前左側に仙波河岸史跡公園がある。

Photo5 仙波河岸史跡公園入口 左のトンネルの上はR16
R16は直ぐ先の崖の上、仙波河岸史跡公園は崖下になっており仙波の滝の湧水があるがこの時期は水涸れ。

Photo6 仙波河岸跡
仙波河岸の跡が整備され保存されているが子供の頃は整備されていなくて、朽ち果てた川舟が沈んでいた。
五河岸は江戸時代に繁栄していたが台地上の川越城下までは距離もあり、烏頭坂という難所もあったので明治2年に仙波河岸が開かれた。
先ほど通った市道は台地上に上がる道路だが、坂の両側は切り通しのように削られ勾配が緩くなっている。これも仙波河岸と同時期に出来たものであろう。武家社会が崩れ民衆が取って代わった時代の変わり目に出来た仙波河岸は城下の川越商人が従来の勢力に取って代わろうと開かれたのかも知れないが、川越商人の勢力もやがて外からの力、鉄道と新河岸川の洪水対策により大正になると衰え始める。
明治28年の川越鉄道(国分寺と川越間、現在の西武新宿線の一部、川越資本は殆ど参加せず))の開通でそれまでの所沢飯能入間など埼玉西部への物資輸送は舟運から鉄道に変わり川越商人の商圏は狭くなった。
仙波河岸が開かれる以前から新河岸川は川越北辺を流れる赤間川が注ぐ伊佐沼を源流としていた。伊佐沼周辺は低湿地でその後の陸上輸送には不向きだったのに対し新河岸は水量も多く緩やかな坂で台地に上がることができたので埼玉西部への陸送が容易だった。
仙波の滝から流れが注ぐ不老川は渇水する冬になると干上がってしまう”としとらず川”なので水量が少ないうえに季節変動も大きかった。以上のような要因で五河岸が繁栄したと思われる。
新河岸川の曲がりくねった河道が舟運を可能にする水量を保つ上に大きな役割を担っていたが一方洪水も多かった。
大名や旗本などが分割統治していて治水対策もままならなかった江戸時代から明治になると広い範囲で洪水対策が行えるようになり、関東平野を襲った明治43年の大洪水の対策の一環で新河岸川下流の改修が行われると水量が減った。
さらにそれまで川越城下の北辺を流れていた赤間川の流路が、

Photo7 新河岸川上流方面 この辺りから上流が昭和9年までに開鑿された
川越城の外堀の一部を利用し台地縁辺を南下して新河岸川に直結する流路に変更され、昭和9年までに田谷橋から仙波河岸付近まで開鑿され、現在のR16とR254に沿った両岸に桜並木がある新河岸川となった。
地図上では旧赤間川部分も新河岸川となっているが今でも古くからの川越市内に住む人は赤間川と呼んでいる。
仙波河岸史跡公園から坂道を上り愛宕神社に立ち寄ってR16を西進、R!&とR254の交差点の歩道橋から眺めるとここが下からJR川越線(昭和15年開通)、東上線(大正3年開通)、R254(川越街道 昭和16~20年)、R16(昭和44年)と重なっている川越の交通の要所。

Photo8 左から中央が東上線 一段低く右から中央が川越線 トンネルで東上線と交差
旧川越街道市道46とR254(現川越街道)は直ぐ先の東京寄りの烏頭坂途中で合流している。旧川越街道が出来たのが江戸初期、現在のR254は旧高階村内で出来たのが資料(高階村史)によると昭和15年。

Photo9 現在の川越街道(R254)が出来る前後の様子
そのときに市内まで一気に繋がったのかどうか調べたら思わぬところで発見した。
昭和16年の航空写真では旧高階村の県道336までしか道路が出来ていません。昭和21年の写真を見ると市内まで延びているのでおそらく昭和20年の終戦時には出来ていたのではないかと思われる。
河川改修、道路建設等の大きな工事は時間を要するのでどの部分がいつ出来たかということがなかなか解らない。公文書や文献を調べても年と年度の表記があるので判りにくい。今も昔も年度末駆け込みが多いのは相変わらず。
交差点から烏頭坂を降り旧川越街道市道46を暫く進むと不老川の御代橋。

Photo10 不老川 御代橋から上流に向かって
先日下流のR25の不老橋を車で通ったときには水が涸れていたが今日はすき無いながら水流があった。
ここから右折して不老川右岸の堤防上を歩き県道336の砂久保橋を目指した。
水は透明度があるもののやはり多少臭う。先ほど通った新河岸川上流水循環センターからの水が放流されていつのだろうが・・・・・。
不老川の両岸には住宅が建ち並んでいるが少し離れると立川面の関東ローム層の赤茶けた土の畑が広がっている。不老川の川床には拳大の角が丸い石があるので水に入っても泥に足をとられることなく、太古の時代に関東山地から流れ出た多摩川によって運ばれたものか堆積しているので
武蔵野台地(基本的には多摩川の扇状地)を東に流れる川は涸れやすい。武蔵野台地から降ると表土の黒土を集めて川床は泥深くなり台地端の崖線(仙波の滝や新河岸日枝神社下など)では水が湧いている。
砂久保橋に出たところで左折し県道336を東に進み直ぐに市道6348に右折すると砂久保共同墓地に着いた。

Photo11 将棋盤の上に乗る石川源五右衛門の墓 (中央右)
先日のブログで書いた農兵反対一揆の一方のリーダー石川源五右衛門の墓地は文献にあった”墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は将翁博石居士”を探すと墓地の中央に見出したが、裏面に記されている一揆の概要を読み取ることは出来なかった。散歩知識としては先日のブログ程度のことがわかっていればまぁ良しとするか。
共同墓地から再び市道に戻り五ツ又で市道に右折、近道を歩こうと思い途中で左折してみたがぐるりリ巡ってもとの道に出てしまった。結局市道6324から市道6325を経て高階市民センターに戻った。
川越市 高階地区の時代の変わり目の出来事

Photo0 武蔵野の雑木林は昔と変わらず。落ち葉や枯れ枝は集められています。
記録
日程:2019,02,01
メンバー:安田
02/01天候 晴れ:
行程9.1km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
江戸から明治、昭和になると大東亜戦争で政治が一変し人々の暮らしも大きく変化した。高階地区でも江戸から明治への移り変わりのときと昭和20年に大きな事件があったので今日はその痕跡を求めて歩いた。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325を南下、市道5332に突き当たったところで左折して道なりに進み東上線と市道44を越えると右側に花山稲荷宮がある。昭和20年4月24日午前にB29がこのあたりに墜落した。

Photo1 花山稲荷宮 この辺りにB29が墜落
当時空襲を避けるため東上線の電車が停車している近くにB29が墜落したので乗客は電車から降りて見学に押し寄せたと言う。B29の搭乗者はパラシュートで脱出し付近に着陸後に捉えられて高階村役場に連行された。戦争中だったので犠牲者の家族、鎌や鍬の農具や竹槍を持った人たちが押し寄せて忙殺寸前の状態だったが押しとどめて当時貴重だった”サツマイモ”を与え身振り手振りで食べ方を教えて命を救ったといわれる。
当時の若者は兵役か軍需工場の動員に駆出され地元に残っている大人はわずかだったので目撃者は殆ど亡くなっているがいまだに地元では語り継がれている。
この花山稲荷宮は明治41年に寺尾日枝神社に合祀されたがその後他所で独立していた。しかし旧地である現在の場所に戻ったのが昭和251年と言うことなのでお稲荷さんは丁度B29の墜落を避けていたことになる。
花山稲荷宮から少し進んで右折し古くからの道市道5341を進んで市道5304市道5310を経て新河岸駅に抜けた。新河岸駅は平成29年に川越寄りに移動して東西を結ぶ通路を持った橋上駅舎となった。新河岸駅については次の機会に譲る。
新河岸駅から市道5302でR254に出て市道47を進み市道46に左折、高階幼稚園裏で右折して市道48を進み五ツ又で左折して市道6324を南下、市道6334を道なりに進んだ。
市道50と合流、この辺りから市道50は”河岸街道”と呼ばれるらしい。初雁高校、川越南文化会館(ジョイフル)を過ぎ市道52との交差点で左折した。この交差点の左側に”肥料共同購入”の記念碑が建っている。
市道52の周囲が畑から広葉樹の雑木林に変わり緩い坂を登ると砂久保地区の共同墓地横に出た。道路の交点にある墓地は周囲を武蔵野の雑木林に取り囲まれていて子供の頃と殆ど変わらない雰囲気だ。ここに農兵反対一揆のリーダーの一人砂久保の源五右衛門の墓があると思い、始めて共同墓地に入り込んでみることにした。
ここで川越の農兵反対一揆について触れておく。
江戸から明治への転換期、川越城主は幕府の重職だったので江戸湾(東京湾)のお台場警備による財政負担や武士の人員不足、慶応2年の天候不順にる農作物(麦作、養蚕)の不作による武州一揆の発生と鎮圧など騒然とする中、費用は村負担で農民を取り立てて農兵として家臣団の補強を行い領内の治安維持を図ろうとした。
年貢以外に農兵の費用が村に押し付けられることに反発して、代表が江戸の藩邸へ直訴に向かう途中で引き戻され指導者は牢に入れられたがそのうちのリーダーだった砂久保の源五右衛門と藤間の浅右衛門2名は永牢となり、川越藩主が前橋に転封となったのちも身柄を前橋に移され、幕府滅亡後の明治元年12月21日に釈放された。
(参考:川越市史第三巻近世編 昭和58年発行)
その後源五右衛門は石川姓を名乗り福原小学校の教員となり教育にあたったのち77歳で永眠し砂久保共同墓地に埋葬された。墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は”将翁博石居士”、裏面には一揆の概要が記されている。一方藤間の浅右衛門は細川姓を名乗り、自宅で商売を営み生前東光寺に辞世の句を刻んだ墓碑を建て86歳で永眠した。
墓碑に刻まれた戒名は”細川院文翁居士”辞世の句は「生まれきて 世の憂き山の道過し 今は帰らんみ仏の浄土へ」と写真とともに紹介されている。
(参考:小泉功著 ”川越歴史散歩”1995年初版一刷)
(本中の農兵反対の一揆の項で名前と記述と写真のタイトルに乱れがあります。熟読の上理解ください)
先日の散策のときに石標で砂久保共同墓地であることを確認しておいたので中を探しまわってみたが源五右衛門の墓に該当するものは見つからなかった。
帰宅後いろいろ調べたら砂久保地区には共同墓地が2ヶ所あることが判ったので次の機会に訪れてみることにする。
共同墓地から戻り、市道52の反対側の雑木林の中にある胞衣(えな:胎盤や卵膜など後産の際に体外に出されるもの)を収めたと伝えられる祠を訪れた。

Photo2 胞衣(えな)を納めたか埋めた祠 みかんが供えられていた
今では病院での出産が普通だがかつては自宅出産だったので胞衣をここに納めたあるいは埋めた名残であろう。雑木林は落葉し、落ち葉も掃き集められたこの時期だと道路からも祠を見出すことが出来る。
再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。

Photo3 開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)
再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道46と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。”首切り地蔵”ともいわれかつては川越藩の処刑場”御仕置場”が在ったところで川越市内にはもう一ヶ所、上野田町にも刑場があった。
子供の頃先生が斬首のときの音は”濡れ手ぬぐいを両手で横に広げて持ち、勢い良く水を払うときの”バサッと言う音だ”と実演してくれたが、先生もまさか実際に聞いたわけでもないだろう。
開明地蔵大菩薩から市道46を進み下り坂の途中にある東光寺に農兵反対一揆のリーダーの一人藤間の浅右衛門の墓がある。

Photo4 東光寺
藤間東光寺で尋ねると解らないとのことなので小泉功著の”川越歴史散歩”(高階図書館蔵)の本に写真が載っていることを告げると本の存在もご存知無かったのでしょう。
早々に辞して若くして亡くなった友人の墓参を済ませ水屋に戻ると横にある武甲山遭難慰霊碑の後ろに

Photo5 武甲山遭難慰霊碑 この後ろに浅右衛門 細川院文翁居士の墓があります
”川越歴史散歩”に写真が載っている浅右衛門の墓を発見。もう少し注意深く見渡せば所在を聞かなくても直ぐに見出せたのでしょう。諸般の事情により写真は載せられませんが細く背の高い墓碑なので直ぐに見出せるでしょう。
東光寺から坂を降り市道6399に左折、もう一度左折して狭い市道6400から市道6398へと進みR254を横断、藤間白ゆり幼稚園の角を曲がって高階市民センターへ戻った。
川越市史の直訴総代階層票には砂久保源右衛門持高3.5石・生業農外車引渡世、藤間右衛門持高0.9石・農間飲酒餅菓子商・易者取締小前とありますから富農ではなかった。しかし片や小学校教員を務め、片や墓石に辞世の句を残すなど知識教養人だったのでしょう。直訴ご法度の時代から一変した明治の新しい時代を生きた人たちが墓からも自分たちの生き様を後世に語り伝えようとしています。
川越市 藤間地区 かつての行政区界探し

Photo0 送電鉄塔下を通る高階村の行政区界
記録
日程:2019,01,27
メンバー:安田
01/27天候 晴れ:
行程9.1km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
今は川越市高階地区、合併する以前は高階村だった。高階村と周囲の村の行政区界を偶然見つけたので現在の地図に反映してみると市道になっていないところが何箇所かあった。
明治6年の地租改正とそれに伴う明治7年の地籍編成事業で地主の住所で何処の村に所属するかきめられたので道でないところも土地の所有者で区界がきめられた名残であろう。専門家ではないので良く解らないが・・・・・飛び地もおそらくそのような理由で出来てしまったのだろう。
かつての区界をまたいで今は住宅となっているところもあるが今回は高階南西部の区界探しに歩いてみた。
いつものように高階市民センターを出発し東に向かって市道5322を歩き東上線の新河岸踏切へ、踏切を渡って直ぐに左折し昭和60年に出来た地下道を歩いて線路の反対側へ出た。
新河岸駅に電車が停車している間も踏切が閉まっている時間が長く、特に朝夕は踏切を通る車も多いので歩行者用の地下道が出来た。
この地下道内部の東面には舟運が盛んなときの新河岸川の風景を、

Photo1 地下道のモザイク画 新河岸川
西面には杉並木の川越街道を人馬が行き交う風景を描いた素晴らしいタイルモザイク画がある。一見の価値あり。

Photo2 地下道のモザイク画 川越街道
地下道から出て新河岸踏切まで戻り、緩やかな坂を登って砂新田地区と藤間地区の境界となっている市道5321を西に進むとR254と交差する直前で緩やかな降りになる。
右側にある高階地区自主地域防犯センター”高階254ステーション”には平成20年に高階市民センターが出来るまで川越市役所の高階支所と高階公民館があった。
市道5321を挟んで左側にはかつて高階駐在所があったが記憶によると平成20年代後半に廃止され今では住宅となっている。
高階254ステーションと市道5321の間には小さな花壇がありその中にかつて新河岸踏切のところにあった道祖神が移されている。

Photo3 新河岸踏切のところにあった道祖神
東上線開通(大正3年)以前は市道5321と市道44が踏切のところで交差していたので道祖神はそこにあったと思われるが東上線建設で踏切横に移動。地図を見ると痕跡でわかるが解るが鉄道で分断されるまで市道44と市道6301は一直線の道だった。
道祖神が踏切横にあったのを覚えているので高階支所(昭和47年)が出来てから移動したものと思われる。
坂を降った右側には川越中央消防所高階分署(高階254ステーションの一階部分)、目の前には高階地区に2箇所ある歩道橋の1つ高階歩道橋がある。

Photo4 高階歩道橋
かなり古い歩道橋で出来たのは昭和42年、近くにある高階中学校のために設けられたと思うがなぜか階段は中学校とは逆向き。
歩道橋の近くにある市道43とR254の交差点にある信号機が出来たのが昭和39年、設置予算のことが市報に載るような時代だったので川越市内でも早かったのだろう。
信号設置の時期は調べても解らず記憶に頼ったが、歩道橋の設置時期は国土交通省の資料で判明した。
道祖神は諸般の事情で簡単に移動出来ても、信号や歩道橋は道路がなくならない限り他所へ移動したり消滅しないので交通の安全を願う現代の道祖神といえる。
歩道橋を渡り市道6325に出て川越街道市道46に入り南下、直ぐに右折して市道6333を進んだ。今は市道6325が市道46道から更に先へ延びているがかつては市道46までだった。
市道6333から市道50に出て初雁高校を過ぎ、左折して川越南文化会館”ジョイフル”の横を抜けると、

Photo5 川越南文化会館 ジョイフル
武蔵野の面影を残す雑木林の中を巡る”森のさんぽ道”の入口。

Photo6 森のさんぽ道入口
子供の頃に中を探検した雑木林だが遊歩道が整備され歩く人が多いのか小路に落ち葉は無く、土の路面が現われていた。

Photo7 武蔵野の面影が残る雑木林の中の小路
かつて正月が過ぎると農家では家族総出で落ち葉を熊手で掻き集めて堆肥を作っていたので、雑木林が管理され下草が茂ったり落ち葉が堆積して残ることも無かったが今は遊歩道から外れると落ち葉がいっぱい。
ナラやクヌギは薪にするので成長して直径が10~20cmになると切り倒され、残った切り株から新たに芽吹いて木が育という循環をしていたのでそれほど高木は無かったが今では手入れをしないので高木が多い。カブトムシやクワガタの宝庫でもあったが・・・・。
森のさんぽ道の要所には番号が書かれた道標が立っているが、勝手知ったところとばかりに昔と違って踏跡の濃い小路をそのまま進んだらいつの間にか今福の松原地区だった。
農家の庭先を抜けて市道51に出て左折し高階村との区界になっている市道52に復帰すべく東へ進んだ。
途中、今まで訪れたことが無い下松原の稲荷神社に立ち寄ると

Photo8 中央の稲荷神社本殿と左側の愛宕神社
本殿左側の小山の上にある境内社のひとつ愛宕神社に力石を発見。

Photo9 愛宕神社の前に置かれた力石
今までの経験によると鳥居付近に力石が置かれていることが多いので再び鳥居まで戻ってみると

Photo10 稲荷神社の鳥居
やはり左右の柱のそばに石が置かれていたが、

Photo11 鳥居左側の力石
左の石は力石と思われるが右の石についてはは少し自信が無い。
帰宅手持ち資料を調べると記載されていないので直ぐに専門家に連絡、後ほど実際に確認していただくことに成った。
下松原の稲荷神社から更に北東方向に進み高階西小学校のところで右折、市道6420を南下し現在は市道と認定されていない地図に示した区界Aを探したが民家が建ち並んでいて良く解らない。次に区界Bを探すと送電鉄塔下を通る農道があった。
このあたりには畑が広がっているので野菜が栽培される時期になれば畑と畑の境界が解りやすくなるだろう。そのときには農作業中の人を見つけだし聞けば良さそうだ。
乾燥して土がパフパフの区界の農道を歩き市道6525に抜け高階南公共広場のところで左折して市道6415から市道6418を通り、市道46の旧川越街道に出て
川越市とふじみ野市の市境へ向かった。旧川越街道とR254の合流点あるのが高階地区にあるもう一つの歩道橋で昭和45年に出来た藤間歩道橋。

Photo12 藤間歩道橋
これで高階地区の歩道橋を2つ確認できたので帰路は車で立ち入ることの無い古くからの道、市道6406から市道6405を通り抜け再び市道46に出て高階支民センターへと戻った。
先日寺尾調整池を歩いた折に改修中の江川都市下水路の写真を撮った歩道橋、川越市とふじみ野市と市境にある歩道橋は西沼歩道橋といい平成6年に出来たふじみ野市管理の歩道橋です。
今日の散策の目的、区界探しは一勝一負ながら途中で立ち寄った下松原の稲荷神社で手持ち資料には無い力石を見つけた。
ただ歩くだけでなく目をキョロキョロして歩けば思わぬものを発見できるものだ。歩道橋を確認し出来た時期を特定しようなどと思う者は私ぐらいだと思うがただ歩くだけの身体の健康管理だけでなく頭の健康管理にも役立つ。
川越市 高階地区の小学校

Photo0 高階地区で最も歴史が長い高階小学校
記録
日程:2019,01,22
メンバー:安田
01/22 天候 晴れ:
行程12.5km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
かつては高階地区に1校しかなかった小学校が人口増加に伴い今では5校になった。先日のブログで高階地区の小学校のルーツが川越市渋井の蓮光寺だということに触れたので今回は高階地区の小学校を巡ってみた。
まだ高階村成立以前の砂新田、藤間村、寺尾村、上新河岸村、下新河岸村、扇河岸村、砂村と分かれていた時代の明治5年に学制が発せられ、それまでの寺子屋をもとに渋井の蓮光寺にできた渋井学校の分教場として明治7年に砂学校、藤間学校、江川学校が設けられ、明治8年にそれぞれ独立した。
明治22年に上記7ヶ村が合併して高階村が成立すると明治24年には砂学校は高階尋常小学校、藤間学校は藤間尋常小学校とそれぞれ改称し、明治33年には尋常小学校の授業料が無償化された。
この間に江川学校の名前が消えている。古い地図を見ると藤間学校は民家が並ぶ川越街道沿いに、砂学校も舟運で栄えた新河岸に近く更に川越城下への道筋にあったので相応の就学児がいたと思われるが、寺尾にあった江川学校は台地端で坂を降ると湿地帯が広がっており民家が少なく就学児数も限られていたのでやがて藤間学校や砂学校に通うようになったと思われる。
明治36に氷川神社の西側に高階尋常小学校の新校舎が出来て勝光寺から移転し、高階村の教育は北部を高階尋常小学校、南部を藤間尋常小学校が担うことになった。
大正12年になると藤間尋常小学校と砂の高階尋常小学校が統合されて高階尋常小学校が発足し、東上線の開通新河岸駅の開業を経て経済的、地理的に高階村のほぼ中心である現在位置に昭和2年に高階尋常高等小学校が開校した。
昭和16年に高階国民学校、昭和22年には高階村立高階小学校と改称、昭和30年に川越市と高階村が合併し高川越市立高階小学校となったが、それの以降急激な人口増加によって昭和40年代には高階地区に新たに小学校が4校開校した。
小学校の歴史を時代順に歩くと複雑なコースとなるので今回は一筆書きになるような時計回りで巡るコースを選んだ。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5332,市道5425を通り稲荷町の坂を降って高階南小学校(昭和44年高階小学校分校、昭和45年開校)を半周した。

Photo1 高階南小学校
もちろんかなり昔のことなので藤間学校の痕跡すらなく、今では境内の一隅が幼稚園になっている。

Photo2 藤間学校があった東光寺
東光寺から市道6409を西に進み、高階西小学校(昭和49年開校)を訪れた。

Photo3 高階西小学校
ここでは正門が開放されていたので校庭内に入り込んで写真撮影。何処の学校でも周囲は金網のフェンスで囲まれているが、ところによっては更に内側にネットが張り巡らされている。諸事情によるとは思うが・・・・・もっと開放的であって欲しいものだ。
子供の頃は放課後一度帰宅してから再び校庭に戻って遊んだり、あちこちへ出掛ける待ち合わせ場所でもあったので小学校は今よりもっと身近だったように思う。
高階西小学校から始めて西中学校(昭和60年開校)に向かったが案内板に従うと道は正門で行き止まり。仕方がないので畑を横切って市道6391に出て更に西へ進む。
このあたり武蔵野の面影を残す雑木林が続き、”武蔵野ふれあいの森”として林の中に散歩道があるが先を急ぐので今日はパス。

Photo4すっかり落葉したナラやクヌ 緑の松が混じる雑木林
市道6387に出て二又で折り返し市道49に入る。

Photo5 二又 左から来て右へ折り返す 左の道は砂利道
この道は川越市文化会館ジョイフル(平成6年)とゴルフ練習場のトミーゴルフプラザ、初雁高校(昭和58年)で分断されてしまっているが現在の市道6319とは一直線の道だった。二又からトミーゴルフプラザまでの間は昔と変わらぬ砂利道、中学生の頃体育の授業で走らされた頃と殆ど変わっていない。
五ツ又の交差点を過ぎると市道49は市道6319となって区画整理地域に入る。かつて一面の畑だったところには同じような住宅が建ち並び 何処が何処やら戸惑いながら住宅の隙間から垣間見る高階北小学校(昭和48年開校)を目指して漸く辿りついた。

Photo6 高階北小学校
高階北小学校から砂学校があった勝光寺へは県道336今福木野目線を歩いたほうが距離が短いが、先日歩いているので今回は別の古くからの道を歩こうと思いいったん県道336に出てから右折し市道6280市道6275市道6274市道5299を歩いて再び県道336に出た。

Photo7 砂学校があった勝光寺
勝光寺にも砂学校の痕跡は皆無。ここから少し歩いて高階尋常小学校があった砂氷川神社西側は今では住宅が建ち並んでいるので立ち寄らずに氷川神社前を直進、古くからの道、市道5318市、道5339、市道5335、市道5381を伝って江川学校があった寺尾の勝福寺に向かった。

Photo8 江川学校があった勝福寺 本堂前の天水桶や香炉には三つ葉葵の寺紋
遊びまわっていた子供の頃は気にも止めなかったが勝福寺の天水桶に描かれた寺紋は三つ葉葵、天台宗なので川越喜多院と結びつきが深かったようだ。喜多院といえば徳川家康の側近の天海が住持だったのでその縁によるのか?寺尾調整池周辺のブログでも触れたが家康、家光の鷹狩りもこのあたりで行われたようなのでその折には寺にも立ち寄ったであろう。
余談だが天海が開いた東京上野の東叡山寛永寺は慶応4年に彰義隊が上野のお山で戦った折に殆ど消失してしまったので、今の根本中堂は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築したものです。
勝福寺から坂を降って寺尾中学校横を通り抜け寺尾小学校(昭和53年開校)へと進んだ。

Photo9 寺尾小学校
前回とは川越市とふじみ野市の市境を歩こうと試みたが入り組んでいて良く解らず。
市道5455に出て直ぐに右折、ここでも記憶を頼りに古くからの道を歩き寺尾地区を通り抜けて市道44に出た。市道43に出て東上線踏切を渡り市道43を西に進むと高階小学校。

Photo10 木造の高階小学校 バスケットボールのポールがあるので昭和30年代か
かつては市道44に面して立派な門があり校舎へ向かうのには校庭の真ん中を横切らなければならなかった。今では正門は閉ざされたままで門柱のみが残っている。
私が学んでいた頃の校舎は大正13~14年の竣工、昭和2年の開校時と殆ど変化なく木造平屋の校舎で中央にあったモルタル造りの2階建て本館を挟んで東西の後ろには開校時からの裏西側校舎と戦後の昭和28年に出来た裏東校舎があり、3教室ほどのあたらしい校舎は6年生が使っていた。
高階小学校からは市道5324に出て高階市民センターへと戻った。
現在の小学校の校舎はどれを見ても似たり寄ったりで基本パターンと言ったものがあるのだろうかこれと言った特徴がない。かつての木造時代の高階小学校には新河岸の舟問屋”伊勢安”から寄付された講堂があり、今全景の写真を見ても個性的でと堂々としている。
村に唯一の学校(当時はまだ中学校はない)を建てたときの高階村の教育に対する熱意が伝わってくる。
松本の開智学校を始め各地に残る古い小学校のなんと個性的なことか。今の画一的な建物の校舎で学んだ人たちからは熱意や個性が生まれないのでは。
新河岸川の旧河道と力石 古市場 渋井

Photo0 新河岸川旧河道 富士見川越バイパスからの風景 富士山も見えた
記録
日程:2019,01,19
メンバー:安田
01/19天候 晴れ:
行程9.7km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
旧新河岸川の下流側の河道を辿るついでに先日の寺尾調整池周回のときに見つからなかった江川都市排水路と北江川の合流点を探しに出かけた。
いつものように高階市民センターから歩き出し市道5332に出て直進、東上線踏切を渡って三角地帯で右折し市道5341から市道5353へ進み、

Photo1 寺尾の後原(せどはら) 台地の上は北風による畑土飛散防止の麦畑
市道5367で寺尾の台地を抜けて寺尾調整池に出た。
新河岸川上空を優雅に飛ぶ白鷺を見ながら新河岸川の堤防上を進み江川都市下水路の樋門で右折、

Photo2 新河岸川で餌の小魚を狙うサギ
江川都市下水路右岸の葦原中学校横を進むと対岸にある元福小学校と寺尾調整池の間の道路の下辺りに流出口らしきものがあった。

Photo3 北江川の江川都市下水路への流入点
出口には蓋があり北江川から水圧がかかると蓋が開き、江川都市下水路側からは逆流しない構造になっている。地図で見ると寺尾調整池が出来る前とおなじ位置。
宿題を終えたところで再び新河岸川堤防に戻り、下流へと向かうと直ぐに県道335並木川崎線の川崎橋。

Photo4 新河岸川を越える県道335の川崎橋
少し前まで架け替え工事をしていたが完成したのはいつだったか?平成10年の激特事業の新河岸川改修と同時期だったと思うが記憶が曖昧。
よく欄干の親柱のところに橋の名称と竣工年月日の銘板があるが、ここには名称しか書かれていない。架橋時ならたいしてお金が掛からないはずなので竣工年月日ぐらい書いたらどうでしょうかね。
川崎橋を渡り直ぐに右折。

Photo5 新河岸川の旧河道
新河岸川旧河道左側に沿って重機のキャタピラー跡を進むと直ぐに消失したので畦道を通って市道4385に出た。
旧河道に沿って進みR254富士見川越バイパスのサイクリング道兼歩道に出て南下。現在の新河岸川と昭和初期の河川改修で出来た新河岸川の旧河道に囲まれた部分はふじみ野市。一面に田圃が広がり建物が無いため見晴が良く写真では解りにくいが冨士山が見える。
歩道を暫く進んで信号のある交差点で市道38に右折すると直ぐに古市場氷川神社の前に出た。
道路横にある左右の幟掲揚石柱の手前に力石と見受けられるものがそれぞれ1個ずつ置かれていた 。右側の石には刻字があるが左側の石には無く、手持ち資料によるとこの神社にはある力石は1個ということなので右側のものだけが力石?刻字が無い左側の石も素人目には形、大きさともに力石のように見えるのだが。

Photo6 古市場氷川神社の力石
両者ともに土に埋もれかかっているがわざわざ左右の石柱のところに置かれているので地元の人たちは両方とも力石と見なしているのかも知れない。掘り起こせば刻字が出てくるかもと思いつつもひ弱な現代人では転がして確認できそうも無い。
この古市場氷川神社では見慣れた狛犬の前に始めてみる大理石製の狛犬があった。

Photo7 手前は大理石の獅子 奥は良く見かける狛犬
獅子宮氷川神社とも書かれたものがあったので獅子かとも思ったが良く解らないので調べてみたら獅子像も狛犬と言い、大陸から伝わった当所は獅子だったらしい。
不思議に思ったこと、解らないことをネット検索しながらブログを書くので時間がかかる。今回の得た知識は狛犬と親柱。橋の欄干は知っていが欄干の一番隅の柱を親柱と言うこことは知らなかった。
古市場氷神社の直ぐ後ろが河道なので忠実に辿ろうとしたがとても無理なのでなるべく旧河道に沿うように道路を歩き、

Photo8 古市場氷川神社裏の新河岸川旧河道
民家のブロック塀の間から旧河道に出て踏跡の無い草の土手を進み排水機場の横を抜けて新河岸川の堤防に出ると直ぐに県道56さいたまふじみ野所沢線の養老橋に出た。
更に堤防上を対岸の福岡河岸と福岡河岸記念館を見ながら進み蓮光寺を訪れた。

Photo9 川辺が河岸場 左奥の黒い建物が河岸場記念館
蓮光寺は立派な門構えの寺だが山門と総門が違う方向を向いている。山門・本堂ともには西向きで道路を隔てた新河岸川の土手、更にはその先の台地の方に向いて建っているのに対し、江戸時代の総門は新河岸川と直角で川越城下に向かって建っているのは、

Photo10 川越城下の方を向く蓮光寺総門
長禄二年(1458)に開かれたという蓮光寺の長い年月の歴史の間に氾濫を繰り返し、流路を変えた新河岸川の影響があるのかも知れない。
蓮光寺は高階の近代教育のルーツでもある。明治5年に初めて学制(太政官第214号)が発せられ蓮光寺に学校が出来、その後高階の砂の勝光寺と寺尾の勝福寺、藤間の東光寺に蓮光寺学校の分教場が出来て、明治8年にはそれぞれが砂学校、寺尾は江川学校、藤間学校として独立した。以降の推移については後日散策予定。
蓮光寺から往路の堤防上の道ではなく参道を経て県道56へ出て養老橋へと戻った。

Photo11 県道56の養老橋
養老橋の親柱には平成十三年三月竣工と書かれていたので平成10年以降の激特法以前から進められていた埼玉県による新河岸川流域河川改修の一環として架け替えられたものであろう。養老橋で対岸に渡り直ぐに左折、新河岸と同じように整備された河岸場の横を通り直ぐに右折して坂道を上がってゆくと右側に福岡河岸で回漕問屋を営んでいた福田屋の建物が福岡河岸記念館として保存公開海されている。今回は立ち寄らずに県道335に出て、立ち並ぶ住宅の中に張り巡らされた網目のような道から古道を探しつつふじみ野市から川越市域に入り高階市民センターへと戻った。

Photo12 1918年の地図に描かれている二又分岐
住宅が立ち並び自分の位置さえ良く解らなくなるようなところでは所では行き止まりが多い。行き止まりかどうか見分けるコツは道幅で4m程度なら通り抜けることが出来るが6mなら行き止まり。更に新しく出来た道か古くからの道かを見分けるには道の曲がり具合。古くからの道はくねくね曲がっていることが多い。山なら踏跡と周囲の地形で判断できるが込み入っていて高い建物など目印となりそうな物の見通しが利かない市街地では数百メートル進むのも難しい。
追記
雨宮清子(ちから姫)さんからコメントいただきました。
古市場氷川神社の石は両方とも力石として記録されているとのことです。神社は舟運で賑わった福岡河岸にも近く、昭和の大改修以前は新河岸川が直ぐ裏を流れていたので
力仕事の人たちも多く、その上境内の前は直ぐ道なので行き交う若い娘たちの視線を浴びて若衆たちが力自慢を争ったのでしょう。
川越市 新河岸周辺 河川改修の跡を追って

Photo0 新河岸川対岸の寺尾調整池付近 水辺にはサギの姿も
記録
日程:2019,01,16
メンバー:安田
01/16天候 晴れ:
行程9.6km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
寺尾調整池から新河岸周辺を歩いたときに遊びまわっていた当時との地形の変化に驚いた。
平成10年8月の台風4号による大雨で新河岸川があふれたため河川激甚災害特別緊急事業(激特法)に指定され、5年間にわたる新河岸川の河川改修工事で寺尾調整池の設置や樋門、排水機場の新増設や整備が行われた。
今回は高階市民センター横の市道5325を北上し市道5321を通って市道43に出て東上線踏切を越え東に向かって直進。2005年に17年に架け替えられた旭橋を渡って牛子地区に入った。

Photo1 県道今福木野目線 新河岸川旭橋
このあたりは新河岸川の舟運が栄えていた時代には地形の変遷でも解るように九十川(くじゅうがわ)と新河岸川の合流点だった(図中Ⅰ)が、

Photo2 新河岸川旭橋周辺の地形変化
大正11年から昭和6年にわたる新河岸川改修工事で九十川の流路が変更になり合流点は新河岸川のずっと下流に変更された(図中Ⅱ)。
やがて中州だったところは整備され住宅が立ち並ぶようになった(図中Ⅲ)。ちょうど私がこのあたりを遊びまわっていた子供時代です。
そして平成10年の水害で激特法が適用され新河岸川の河川改修の結果、旧河川の旭住宅周辺の河道が少し変更になった(図中Ⅳ)。
旭住宅は新河岸川の向こう側にあるにもかかわらず新河岸(高階地区)の飛び地だがかつては中洲、新河岸川や九十川の昔からの河道変化を見れば納得できる。
旭橋を渡って左折し旭住宅入口で旧河川の土手に出た。

Photo3 旧河道 左側が旭住宅
ここから旧九十川沿いに歩いて昭和初期に開鑿された現在の九十川との分岐点、共栄橋を目指すが旭住宅を回りこんだ先からは土手上に踏跡が無く田の畦を歩いたり冬枯れした草を掻き分けて進んだ。
途中の用水路に架かった石橋は流路変更前には田んぼから九十川への流水を堰き止めた田島堰の残骸であろうか?”田島堰”と刻まれていた。

Photo4 旧田島堰の残骸 石標が今では石橋
共栄橋近くになると”旧牛子堰”の跡があり、

Photo5 旧牛子堰 大正2年竣工
かつての水門に刻まれた文字を読むと”大正貮年”
この旧牛子堰は昭和初期に新しい流路が開鑿され九十川の共栄橋のところに出来た新しい”牛戸堰”に役目を引き継いたのでわずか10数年の稼動だったようだ。

Photo6 共栄橋から上流側 牛子堰は共栄橋の直ぐ隣
田に水を張る時期に牛子堰を閉じるとその直ぐ下流の共益橋あたりは水量が減り川床や堤防の法面が蛇篭だったのでザリガニの宝庫だった。
共栄橋から九十川は少し弧を描いて後は一直線に新河岸川に向かい合流する。

Photo7 昭和初期に開鑿された九十川 1つだけ残る橋
九十川左岸堤防上を新河岸川との合流点目指して進むと以前は九十川の左右を繋ぐ農業用の渡るのが怖い欄干が無い橋が2本ほどあったが今残っているのは1本のみ。残存する橋は橋脚に昔の面影を残しているが両岸ともに宅地化が進み欄干が設けられていた。他の橋は撤去され場所さえわからなくなり跡形も無い。
激特法で出来た九十川樋門周辺はまだ堤防と川床改良工事が進行中で

Photo8 九十川樋門
九十川樋門のとなりに出来た九十川排水機場は九十川と新河岸川に囲まれたた地域の出水時には九十川を経て新河岸川に排水するようだ。

Photo9 九十川排水機場
新河岸川左岸堤防上の道を対岸の江川樋門・新鷹匠橋・寺尾町制池排水機場を見ながら上流に向かいて進み、途中から堤防から降って市道5255に出た。
道路横の牛子稲荷神社に立ち寄り、赤い鳥居の根元に力石2個見つけたが文字は刻まれていない。

Photo10 牛子稲荷神社の力石
更に市道5255を進み県道336今福木野目線と交差、市道5212から市道5202に入り砂中学校横の新河岸川堤防上に出た。このあたりにかつて扇橋があったが今は無く、砂中学校西側を通る市道99が新扇橋で新河岸川を越えている。

Photo11 新扇橋
新扇橋の直ぐ上流は不老川と新河岸川の合流点だが今日は市道99を新河岸方面に向かい、新扇橋を渡って扇河岸に入った。
かつては新河岸五河岸(寺尾河岸、牛子河岸、下新河岸、上新河岸、扇河岸)の一番上流のにあった扇河岸も私が遊びまわっていた当時にも既に面影は無く、点在する民家と田んぼだった。市道99から左折して市道5266に入ると堤防に突き当り、多分この延長に扇橋があったと思うがあたりの風景は一変していた。
新河岸川右岸堤防上を少し南下すると右側に今は干上がってしまった”弁天沼”跡。当時弁天沼かられ出す川は深く両岸は葦が茂っていたが今はわずかな水流と葦原が残っている。

Photo12 弁天沼跡
深い水を湛えていた弁天沼も今では広場となり、沼の畔にあった弁天様を祭る厳島神社も古びているものの昔の社殿ではなかった。
弁天沼から道路を隔てた旧養魚池の横を抜け、かつてあった釣堀”川越淡水魚センター”を目指した。
”川越淡水魚センター”は昭和初期の新河岸川改修工事のときに出来た旧新河岸川の河道跡にあった池で虹鱒などの管理釣り場。

Photo13 川越淡水魚センター跡
川魚魚料理の”かしわや”もあったが残念なことに平成10年の水害い、その後の激特法による新河岸川工事で池の大半が増強された堤防の下になってしまった。
残る一部も干上がって残念な姿になり新河岸川との間に排水機場が出来ていた。
川越淡水魚センター跡から先日訪れた砂氷川神社の横を抜けて新河岸駅前を通り起点に戻った。
高階五社と力石

Photo0 藤間諏訪神社境内の一隅に置かれた力石
記録
日程:2019,01,13
メンバー:安田
01/13天候 快晴:
行程5.7km 歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
小学校や中学校それに市民センターなど川越市の地区として名を残す”高階”。この地区は昭和30年に川越市と合併する以前は高階村と呼ばれ、その高階村成立(明治22年)以前は藤間村・寺尾村・扇河岸村・上新河岸村・下新河岸村・砂村・砂新田村と分かれていた。
いま、高階地区にはかつての村を代表する神社が五社(藤間諏訪神社・寺尾日枝神社・新河岸日枝神社・砂氷川神社・砂新田春日神社)あります。
五社を巡って参拝することを”高階五社巡り”といって正月には最近まで各神社にスタンプと台紙が置かれていたそうですが・・・・私は実物を1回見たことがあるだけです。子供の頃は当然無かったし社会人現役地元空白時間中は初詣に出かけても神社を徘徊することが無かったので気がつかなかった。
それぞれの神社には子供の頃には良く遊びに行ったものだがその後半世紀以上ご無沙汰。今日は神社に置かれている力石探しで一気に五社を巡ってみた。
高階市民センターを起点に一番近い藤間諏訪神社に向かうが正月中だった先日とは異なり鳥居横に幟は立っていなかった。目当ての力石は鳥居をくぐって石段を登りきった境内の片隅、石段の左右に一つずつ置かれていた。

Photo1 藤間諏訪神社の力石 石段上両側
次は寺尾日枝神社。先日寺尾調整池へ歩いた道とは異なり今度は台地の中腹を行く細道を進むことにした。今は市道5359になっておりすぐに左に曲がって台地の上に向うように伸びって居る。左へ曲がる突き当たりを見れば民家の裏に延びる細い踏跡があったのでこれを進むと直ぐに市道5360に出た。

Photo2 市道5360突き当りから振り返った細道
地図を見ても道が無いが子供の頃は家も殆ど無かったので勝手に通っていたのか。
市道5360に出ると寺尾日枝神社は目の前だが道を下って鳥居をくぐり正規の参道から境内を目指した。

Photo3 寺尾日枝神社の力石 石段を登って左側
力石はここでも参道の石段を登りきった左側に1個置かれていた。
次に新河岸日枝神社目指すが寺尾日枝神社周辺から新河岸日枝神社の間は畑が広がり、北側に防風林を持った農家が点在していた往時とは様変わりして道の両側は立ち並ぶ住宅で見通しが利かない上に新しく出来た道もそこかしこ。子供の頃に通った道を記憶を頼りに曲がり具合を確認しながら進むが道幅が狭くその上新しく出来た道で複雑になってしまったのでとても車で乗り入れる気になれない。
観音堂と境内を一にする新河岸日枝神社の社殿は左手奥の一段と高くなった小山の上にある。

Photo4 左奥小高いのが新河岸日枝神社 右は観音堂
境内と社殿の周りを探してみたが力石は発見できず、境内左から石段を降った広場奥の厳島神社の

Photo5 厳島神社
社の裏に台座に乗った力石3個を見出した。

Photo6 日枝神社それとも厳島神社?の力石 台座の上に3個
厳島神社の広場から隣の新河岸川河岸場跡を通り抜け県道336今福木野目線の新河岸川に架かる旭橋の畔に出た。
ここから川越街道市道46までは県道336今福木野目線を歩くことになる。とても県道とは思えない生活道路のような道だが川越地方の物資輸送の拠点として栄えた新河岸から川越街道を経て川越城下に通じる道なのでいち早く主要道として県道になったらしい。
今は県道を示す道路標識も見受けられず、沿道の住民さえ殆ど知らないのでは?
旭橋から新河岸川に沿って進むと道は直ぐに左に曲がりさらに進むと正面に砂氷川神社がある。道はここで今度は右折し更に屈曲を繰り返して東上線を踏切で越え、

Photo7 とても県道とは思えない今福木野目線の東上線踏切
R254と交差(信号は無い)、その後更に右、左と曲がってやがて川越街道市道46に出る。
砂氷川神社では社殿左側の御大典記念碑の前、左右に並べられた2個の力石を見つけた。

Photo8 砂氷川神社の力石 御大典記念碑前に2個
いつから現在地に置かれているのか解らないが大典記念碑は多分昭和天皇即位時のものと思われるのでそれ以降ということになる。
この砂氷川神社で思わぬものを発見。
Photo9 “〆の子”を垂れ下がった注連縄
丁度正月直後なので各神社とも鳥居には真新しい“紙垂(しで)”の垂れ下がった注連縄が張られていたが、ここ砂氷川神社では“紙垂”の代わりに”〆の子"と言われる藁を束ねたものが下がっていました。
見たとき不思議に思い帰宅後調べてみて"〆の子”ということが解りました。漫然と歩いていたのでは頭上にあるものにまでなかなか気が回らないが今回は力石探しでキョロキョロしたおかげでまた一つ知識が広まったのは五社巡りの御利益!
神社入口のご神木と鳥居の“〆の子”飾りの注連縄は他の4社とは異なるという個性表現ですかね。
砂氷川神社から再び県道に出て砂新田春日神社を目指す。
かつて並んでいた背後に防風林を持った家々はすっかり様変わりして今は防風林も無くなりかつてのかつての農家は大きな新築の家になっていた。
川越街道市道46に出て左折し少し進むと左側に砂新田春日神社。

Photo10 石段の上が砂新田春日神社
鳥居をくぐって石段を登り社殿に進んでみたが周囲を石垣に囲われた小山の上なので社殿周囲を巡るのが精一杯。
力石を探して違う石段を降ると境内社の稲荷神社の社の前に力石が1個置かれていました。

Photo11 境内社 稲荷神社前の力石
春日神社で高階五社巡りを終え、ここからは川越街道を南下してすっかり変わってしまった道路両側の家並みを見ながら起点の高階市民ンセンターまでもどった。
今回確認できた力石は高階五社で9個。全て重さが刻まれているものばかりで大きさも様々だった。かつては力石を持ち上げられれば一人前と認められ、15歳以上で酒一升で若者組に仲間入りが出来たとか。
若者組は祭りやその他村の行事を取り仕切ったと言うことなので村で中心的な役割を果たしたのでしょう。村で認められ生活してゆくためには課題の力石挙げを受けなければならないのですから現在の資格試験と同じ様なもの。
神社に残された力石の重さがまちまちなので若者組に入った人たちは自分が持ち上げた石の重さを自慢しあい、娘たちにもモテて熱い視線を注がれたたのでしょう。それとも別に試験用の石があったでしょうか?今となっては解りませんが・・・・・
現存する重さが刻まれた力石は力自慢の村のエリートたちの記念碑?