砂久保陣場跡と藤間流発祥地

0砂久保稲荷神社_9283
     Photo0 河越夜戦のときの砂久保陣場跡がある砂久保稲荷神社
記録
日程:2019,03,10

メンバー:安田
03/10 天候 曇り:
行程9.7km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

庭の福寿草の花が散り数本ある梅も遅咲きの紅梅が満開になっていよいよ近所の桜を待つだけになってきたので、道から見える花木を楽しもうと後北条氏が関東覇権を完成させた河越夜戦の陣場跡と、江戸時代になって生まれた日本舞踊藤間流の発祥地を巡る散策に出かけた。

いつものように高階市民センターから市道5325を北上し江戸時代の開墾の跡を残す一列に並んだ農家の庭先を抜けて西に進みR254を横断。市道6325市道6316を経て市道46で五ツ又の五差路を直進して戦国時代に関東の覇権をかけて上杉と北条が戦った河越夜戦の陣を張ったと伝えられる砂久保陣場跡の解説板が建つ砂久保稲荷神社に着いた。
1砂久保稲荷神社解説_9284
     Photo1 砂久保稲荷神社境内に建つ陣場跡の解説板

砂久保陣場跡について少し詳しく触れます。
情勢
天文6年(1537)、扇谷上杉朝定の河越城を後北条氏2代の北条氏綱が奪取して武蔵国支配を確定し、「河越衆」と呼ばれる精鋭部隊が置かれた。
天文14年(1545)、上杉朝定は古河公方足利晴氏、山内上杉氏の上杉憲政と連合を組み10月から8万の大軍で河越城を包囲。
河越城主北条綱成は半年に及ぶ篭城で抵抗し、天文15年(1546)4月に包囲している上杉勢を小田原から出陣した北条氏康と共に撃退し(河越夜戦)北条氏による武蔵国の支配を完成した。(当時は河越ではなく川越)

解説版について
砂久保というところは河越夜戦から100年後の正保の頃(1644~1648)に開墾されたので更に100年遡る当時はススキの原野か雑木林だったと思われ、陣馬跡といっても土塁などの遺構は無く、古文書にある「砂窪」という地名に導かれて陣場跡という史跡としたので、川越市教育委員会が便宜上藤久保稲荷神社に解説板を建てたようです。

このとき河越城を包囲した上杉か、それとも援軍に駆けつけた北条か、どちらかが砂久保(砂窪)に陣を構えたのか?
以前にあった解説板では文化・文政期(1804~1829)に編纂された『新編武蔵野風土記稿』にあるように「上杉憲政が砂久保に陣を敷き4月20日に援軍に駆けつけた北条氏康が攻めた」と書かれていたが
現在の解説板では『北条氏康書状』(「北条記」「歴代古案」に所収)や『北条五代記』にあるように
「天文15年4月20日に上杉憲政が攻めかかり北条氏康が迎撃、河越城内から北条綱成が撃って出て両方面から北条は勝利します」となっており
砂久保陣馬は上杉から北条へと変更され攻守が逆になっている。

新編武蔵野風土記稿は戦いからおよそ240年後の地誌、一方の氏康書状は戦直後のものであるから研究が進んだ結果、陣場の主も変わったのであろう。
何れにしても勝者は北条、敗者は上杉であるがこの後豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすまで武田信玄、上杉謙信、前田利家など幾多の武将が武蔵国に兵を進めてきました。

砂久保稲荷神社のところで市道46は右に曲がるがそのまま直進して市道6342に入り、市道6341市道6359市道6360市道6358を経て市道64に出た。
このあたりは所々に住宅があるものの江戸時代の武蔵野開発の跡をとどめる短冊状の大区画の畑がかなり残っている。地図上に描かれている道幅をもった道は昔から人が往来した道かあるいは近年の宅地化によって作られた道であるが、一本線で描かれている道は昔からの農道で土地の区画を留めている。
2砂久保の畑_9288
     Photo2 砂久保地区の畑 関東ロームで赤土だが腐葉土を入れると黒くなる

江戸時代の初期までの開発では土地の区画は一塊になった数件の農家を取り巻くように畑があるが、
川越城主が松平伊豆守信綱や柳沢吉保のときに開墾されたところは農家が道路に沿って一列に並び、土地の区画は短冊状になっているので地図を見れば開墾されたおよその年代がわかる。

市道50を西に進み関越道手前の交差点の右角に明治40年4月に建てられた「肥料共同購十週年紀念碑(ママ)」があった。
3肥料共同購入の碑_9291
     Photo3 肥料共同購十週年紀念碑

丁度明治30~40年頃は新河岸川舟運の最盛期にあたり、新河岸五河岸に加え仙波河岸も開かれていた。
市道50を更に進み関越道をくぐるトンネル手前で左折し関越道沿いの市道6433を進むと道の左側は雑木林になり緩やかな上り坂になっている。雑木林に差し掛かったところで散歩道らしき踏跡を発見し市道6433から外れて進んでみるが直ぐに民家に出たので再び関越道沿いの市道6433に出て南下。
4関越道_9292
     Photo4 関越道沿いに進む

関越道下を通る市道51を越えて道なりに進み市道49に出たところで左折して北上、再び雑木林の中を進んだ。
市道51に沿って下松原集落の農家が東西に建ち並び雑木林や畑の区画が短冊状に残っているので江戸時代の開墾跡だということが良く解る。
市道49を進むと市道51沿いに並ぶ農家の裏側の雑木林の中に数箇所の屋敷墓があった。
5屋敷墓_9294
     Photo5 雑木や竹林の中にある屋敷墓

遠くから見ると新しそうな墓も見受けられたが、寺ではなく自宅近くに死者が葬られ開墾当時から代々受け継がれてきたのだろう。

地図上に一本線で描かれた雑木林の中の径の殆どは市道49との交点に車の進入を防ぐように横棒が架かっているがその中の交点の一つの道角に古い木彫を発見したので立ち入ってみた。
6木彫_9295
     Photo6 “木彫の径”入口

落ち葉がきれいに掃かれた雑木林の中の径を進むと
7木彫_9296
     Photo7 “木彫の径”注意の林の落ち葉はきれいに掃かれている

やがていろいろな木彫が置かれた小広場に出た。
8木彫_9298
     Photo8 “木彫の広場”

木彫は雑木林の中の太い木を使いチェーンソーで刻まれた1mほどのもので味わいがあり、木々が芽吹く季節には良い休憩所になる。(名称が無いので勝手に“木彫の径””木彫の広場“と呼びました)
木彫のある広場から雑木林に囲まれた隠田のような畑の片隅を通り
9雑木林の中の隠田_9301
     Photo9 周囲を雑木林に囲まれた隠田のような畑 里芋植え付け中

市道6394に出て「森のさんぽ道」(仮称)に入り雑木林を抜けて送電鉄塔(東京電力京北線16)の下を進むと市道51に出た。
市道51を少し進んで鋭角に曲がって市道6420に入り、左側の畑の遥か先に見える家並みの間から市道64(川越街道旧道)に抜けられそうな畑の中の作業道を進み、市道64に出て左折し川越方面に少し進んで市道6402に再び右折しR254に出る手前の分岐を右に進んでR254に出て横断。
川越方面に国道を進むと右側にブロック塀に囲まれた「藤間流発祥地」がある。
10藤間流発祥の地_9305
     Photo10 藤間流発祥地の碑

日本舞踊藤間流の創流者藤間勘兵衛の出身地で碑が建っているが、藤間流は勘右衛門派・勘十郎派・勘兵衛派にわかれその後勘兵衛派は断絶してしまった。
藤間勘兵衛は新井氏といわれ、現在も血脈が残り藤間地区には新井氏が多い。

R245から市道5442に右折し、諏訪町・稲荷町・藤原町を経て
11ホトケノザ_9308
     Photo11 農家にとっては雑草のホトケノザもレンタル菜園では? 

高階市民センターへ戻った。途中のレンタル菜園にはホトケノザが満開だった。






  
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Re: 木彫りの森が何気に良い

個人の敷地ですが雑木林自体が市の公園になっているので踏み跡を歩き回るのはOKです。
歩くのは若葉の頃が良いです。落ち葉をたい肥にするために昔から管理されてきた武蔵野の雑木林です。
駐車場もありますので是非訪れてください。

木彫りの森が何気に良い

個人の敷地ですかね。何気に面白いと思いました。入っても怒られませんかね。
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