川越市 高階地区の時代の変わり目の出来事

0武蔵野の雑木林_9199
     Photo0 武蔵野の雑木林は昔と変わらず。落ち葉や枯れ枝は集められています。
記録
日程:2019,02,01

メンバー:安田
02/01天候 晴れ:
行程9.1km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

江戸から明治、昭和になると大東亜戦争で政治が一変し人々の暮らしも大きく変化した。高階地区でも江戸から明治への移り変わりのときと昭和20年に大きな事件があったので今日はその痕跡を求めて歩いた。

いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325を南下、市道5332に突き当たったところで左折して道なりに進み東上線と市道44を越えると右側に花山稲荷宮がある。昭和20年4月24日午前にB29がこのあたりに墜落した。
1花山稲荷宮_9195
     Photo1 花山稲荷宮 この辺りにB29が墜落

当時空襲を避けるため東上線の電車が停車している近くにB29が墜落したので乗客は電車から降りて見学に押し寄せたと言う。B29の搭乗者はパラシュートで脱出し付近に着陸後に捉えられて高階村役場に連行された。戦争中だったので犠牲者の家族、鎌や鍬の農具や竹槍を持った人たちが押し寄せて忙殺寸前の状態だったが押しとどめて当時貴重だった”サツマイモ”を与え身振り手振りで食べ方を教えて命を救ったといわれる。
当時の若者は兵役か軍需工場の動員に駆出され地元に残っている大人はわずかだったので目撃者は殆ど亡くなっているがいまだに地元では語り継がれている。

この花山稲荷宮は明治41年に寺尾日枝神社に合祀されたがその後他所で独立していた。しかし旧地である現在の場所に戻ったのが昭和251年と言うことなのでお稲荷さんは丁度B29の墜落を避けていたことになる。

花山稲荷宮から少し進んで右折し古くからの道市道5341を進んで市道5304市道5310を経て新河岸駅に抜けた。新河岸駅は平成29年に川越寄りに移動して東西を結ぶ通路を持った橋上駅舎となった。新河岸駅については次の機会に譲る。
新河岸駅から市道5302でR254に出て市道47を進み市道46に左折、高階幼稚園裏で右折して市道48を進み五ツ又で左折して市道6324を南下、市道6334を道なりに進んだ。
市道50と合流、この辺りから市道50は”河岸街道”と呼ばれるらしい。初雁高校、川越南文化会館(ジョイフル)を過ぎ市道52との交差点で左折した。この交差点の左側に”肥料共同購入”の記念碑が建っている。
市道52の周囲が畑から広葉樹の雑木林に変わり緩い坂を登ると砂久保地区の共同墓地横に出た。道路の交点にある墓地は周囲を武蔵野の雑木林に取り囲まれていて子供の頃と殆ど変わらない雰囲気だ。ここに農兵反対一揆のリーダーの一人砂久保の源五右衛門の墓があると思い、始めて共同墓地に入り込んでみることにした。

ここで川越の農兵反対一揆について触れておく。
江戸から明治への転換期、川越城主は幕府の重職だったので江戸湾(東京湾)のお台場警備による財政負担や武士の人員不足、慶応2年の天候不順にる農作物(麦作、養蚕)の不作による武州一揆の発生と鎮圧など騒然とする中、費用は村負担で農民を取り立てて農兵として家臣団の補強を行い領内の治安維持を図ろうとした。
年貢以外に農兵の費用が村に押し付けられることに反発して、代表が江戸の藩邸へ直訴に向かう途中で引き戻され指導者は牢に入れられたがそのうちのリーダーだった砂久保の源五右衛門と藤間の浅右衛門2名は永牢となり、川越藩主が前橋に転封となったのちも身柄を前橋に移され、幕府滅亡後の明治元年12月21日に釈放された。
(参考:川越市史第三巻近世編 昭和58年発行)

その後源五右衛門は石川姓を名乗り福原小学校の教員となり教育にあたったのち77歳で永眠し砂久保共同墓地に埋葬された。墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は”将翁博石居士”、裏面には一揆の概要が記されている。一方藤間の浅右衛門は細川姓を名乗り、自宅で商売を営み生前東光寺に辞世の句を刻んだ墓碑を建て86歳で永眠した。
墓碑に刻まれた戒名は”細川院文翁居士”辞世の句は「生まれきて 世の憂き山の道過し 今は帰らんみ仏の浄土へ」と写真とともに紹介されている。
(参考:小泉功著 ”川越歴史散歩”1995年初版一刷)
(本中の農兵反対の一揆の項で名前と記述と写真のタイトルに乱れがあります。熟読の上理解ください)

先日の散策のときに石標で砂久保共同墓地であることを確認しておいたので中を探しまわってみたが源五右衛門の墓に該当するものは見つからなかった。
帰宅後いろいろ調べたら砂久保地区には共同墓地が2ヶ所あることが判ったので次の機会に訪れてみることにする。

共同墓地から戻り、市道52の反対側の雑木林の中にある胞衣(えな:胎盤や卵膜など後産の際に体外に出されるもの)を収めたと伝えられる祠を訪れた。
2胞衣祠_9197
     Photo2 胞衣(えな)を納めたか埋めた祠 みかんが供えられていた

今では病院での出産が普通だがかつては自宅出産だったので胞衣をここに納めたあるいは埋めた名残であろう。雑木林は落葉し、落ち葉も掃き集められたこの時期だと道路からも祠を見出すことが出来る。

再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。
3開明地蔵大菩薩_9201
     Photo3 開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)

再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道46と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。”首切り地蔵”ともいわれかつては川越藩の処刑場”御仕置場”が在ったところで川越市内にはもう一ヶ所、上野田町にも刑場があった。

子供の頃先生が斬首のときの音は”濡れ手ぬぐいを両手で横に広げて持ち、勢い良く水を払うときの”バサッと言う音だ”と実演してくれたが、先生もまさか実際に聞いたわけでもないだろう。

開明地蔵大菩薩から市道46を進み下り坂の途中にある東光寺に農兵反対一揆のリーダーの一人藤間の浅右衛門の墓がある。
4東光寺_8976
     Photo4 東光寺

藤間東光寺で尋ねると解らないとのことなので小泉功著の”川越歴史散歩”(高階図書館蔵)の本に写真が載っていることを告げると本の存在もご存知無かったのでしょう。
早々に辞して若くして亡くなった友人の墓参を済ませ水屋に戻ると横にある武甲山遭難慰霊碑の後ろに
5武甲山遭難慰霊碑_9203
     Photo5 武甲山遭難慰霊碑 この後ろに浅右衛門 細川院文翁居士の墓があります

”川越歴史散歩”に写真が載っている浅右衛門の墓を発見。もう少し注意深く見渡せば所在を聞かなくても直ぐに見出せたのでしょう。諸般の事情により写真は載せられませんが細く背の高い墓碑なので直ぐに見出せるでしょう。

東光寺から坂を降り市道6399に左折、もう一度左折して狭い市道6400から市道6398へと進みR254を横断、藤間白ゆり幼稚園の角を曲がって高階市民センターへ戻った。

川越市史の直訴総代階層票には砂久保源右衛門持高3.5石・生業農外車引渡世、藤間右衛門持高0.9石・農間飲酒餅菓子商・易者取締小前とありますから富農ではなかった。しかし片や小学校教員を務め、片や墓石に辞世の句を残すなど知識教養人だったのでしょう。直訴ご法度の時代から一変した明治の新しい時代を生きた人たちが墓からも自分たちの生き様を後世に語り伝えようとしています。



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Re: No title

ありがとうございます。 安田

No title

しっかり読ませていただきました。
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