新河岸と隣の福岡河岸

0新河岸河岸場跡_9342
     Photo0 新河岸河岸場跡に整備された船着き場と緑が増した対岸の堤防
記録
日程:2019,03,26

メンバー:安田
03/26 天候 晴れ:
行程10.6km  歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
近所のホームセンターの桜が5分咲きになってきたが公園の桜は漸く咲き始めたばかり。ホームセンタ-の桜の下は駐車場でアスファルト、一方公園は土なので照り返しの気温差で開花が少しずれるのか?
まだ朝は肌寒いがだいぶ緑が目につくようになってきたので新河岸川の土手歩きに出掛けた。

高階市民センターから市道5322を東に向かい東上線に突き当たったところを道なりに進んで新河岸駅踏切を渡り、東上線に沿って戻るように市道44を進んでちょうど市道5322の延長になる市道5334で左折。
市道5334が突き当たる市道5339に出るとすぐに市道43に出る。市道43を新河岸川を目指して進み旭橋への緩い坂の途中で右折するとすぐに右手に新河岸川舟運の舟問屋”伊勢安”の建物が現れた。
1伊勢安_9341
     Photo1 かつては江戸にまで出店を持っていた舟問屋“伊勢安”

”伊勢安“”の向かい側の坂を下ると力石のある厳島神社前の広場に出た。
文献や案内書では新河岸日枝神社に力石があると書かれているが実際には日枝神社から石段を下ったところにある厳島神社が正しい。
川越市の市報”広報川越”のシリーズ「川越時間旅行」に「力自慢たちのモニュメント」として力石(市内元町の力石)が紹介れ、”ちから姫“さんのブログにも素敵な文章で紹介されています。昨年来市役所に力石の保護をお願いしていますが、今回広く市民に啓蒙いていただこうと広報誌の紙面に載せていただいた。

奥まったところにある力石とは逆に広場を新河岸川に向かうと新河岸河岸場跡があり、土手を下った河川敷には平成19年に整備された船着き場があり毎年季節には、”灯篭流し”や”ひらた舟の体験試乗”が行われる。
緑が増し黄色いからし菜の花が咲き始めた対岸を見ながら河川敷の踏跡を下流に向かって進むとやがて道は堤防の上に上がり、右手に寺尾調整けが見えてきた。暖かくなってきて芽吹いた調整池の中の柳の緑を眺めながら堤防上を進み、新養老橋を過ぎるとやがて県道335並木川崎線の川崎橋が見えてくる。
県道335は南古谷駅前からふじみ野市川崎で県道56さいたまふじみ野所沢線に合流する短い県道で、ふじみ野市にあった陸軍造兵廠川越工場(通称”火工廠”)と川越線の南古谷駅をほぼ直線で結んでいた軍用道路だった。

川崎橋から県道335を上福岡方面に進み緩い坂道を登りながら左手の森の中にある白山神社の入口を探したが、見つからないので県道335から横道に入ったやがて県道56に出てしまった。以前川崎橋から県道の養老橋まで歩いた時に河川敷の散歩道の途中に”白山神社“と書かれた案内板があったことを思い出し、養老橋畔から散歩道に入り川崎橋へ戻る途中にあった案内板のところから崖上に登ると白山神社があった。
2白山神社_9347
     Photo2 参道入口が不明な白山神社

神社から続く細い参道はすぐに途絶えてしまい民家の庭先を抜けて漸く舗装道路に出たが、ちょうど先ほどこのあたりが神社入口であろうと目星をつけた場所であったが道路からだと案内板もないし、それらしき細道を辿っても民家の庭先に出てしまうのでよく知らないと白山神社にはたどり着けない。

白山神社から県道を進み左に折れて坂を下ってゆくと途中に福岡河岸記念館がある。
3福田屋_9351
     Photo3 今は福岡河岸記念館として公開されている舟問屋“福田屋”

新河岸川福岡河岸の舟問屋”福田屋”の明治時代の様子(東上線開通以前の舟運最盛期)を再現したもので、現在は東上線開通に尽力した”福田屋”十一代目星野仙蔵氏の功績等が展示されているらしい。
新河岸の”伊勢安”が通り面した間口の広い今にも番頭さんが現れそうな大店の風情を残しているのに対し、”福田屋”は三階建ての建物で新河岸川を見下ろすようになっておりどちらかというと趣味風な建物になっている。
4養老橋_9352
     Photo4 福岡河岸と船着き場 養老橋を渡ると対岸に舟問屋”橋本屋“があった

”福田屋”を通り過ぎて福岡河岸跡に出るとここにも新河岸と同じような船着き場があった。対岸の養老橋の畔には”はしもと”と看板の出ている店があるが古市場河岸で舟問屋を営んでいたという”橋本屋”の後裔であろうか?
船着き場から河川敷を行けばやがて武蔵野台地端の権現山古墳群の下に出るが、次の坂道を登り返し台地上に出た。住宅街の中で見通しが利かず適当に進むとやがてコンクリート塀が現れた。
5火工廠跡の塀_9355
     Photo5 大日本印刷工場の工場を取り囲む塀 内側はかつて火工廠だった

左に進んで県道56まで出てコンクリート塀の内側がかつての 陸軍造兵廠川越製造所(通称“火工廠”)の跡地(現在は大日本印刷)であることを確認して立ち戻り、コンクリート塀に沿って進んだ。
左手の住宅が途切れると樹木が生い茂った新河岸川への崖となり、樹木の隙間から対岸の低地が見下ろせる。やがてコンクリート塀が途切れると3世紀の古墳時代の遺跡、雑木林に覆われた権現山古墳群があらわれた。
6権現山古墳群_9358
      Photo6 権現山古墳群

一見途切れたように見えたコンクリート塀は左に続くので塀沿いの道を進みやがて2車線の道路に出たところで右折、再び県道56を目指した。
火工廠跡を2分しているこの道は火工廠時代には無かった道で戦後火工廠跡が民間に払い下げられた時にできたらしい。
今まで歩いてきた道に囲まれた部分は火工廠の東側半分で他の軍用地と同じように今では大日本印刷や日本無線、新日本無線といった会社の敷地になっている。西側半分は昭和30年代前半に日本住宅公団によって上野台団地ができさらに最近再開発されマンション群が立ち並んでいる。

県道56を越えると戦前の国策会社 ”日本無線電信株式会社” の跡地があり、
7日本無線通信跡_9359
     Photo7 アンテナがある建物がKIID  右側がイトウヨーカドーとその駐車場

現在大部分はイトウヨーカドーに一部が日本無線電信の流れをくむKDDIの総合研究所になっている。
子供の頃には火工廠は現在のとは違う高いコンクリートで囲まれ、中には高く目立つ給水塔が建っていたがいつの間にか撤去されてしまったので、今では地図上で住宅に囲まれた広い工場敷地や公共機関が火工廠跡だと確認できるだけで当時を物語るものは無くなってしまった。
県道56のKDDI総合研究所横から踏み入った大原あたりは一面の麦畑で、丸太を継ぎ足した背の高い鉄塔(木塔)があちこちに立ち並びその間を電線で繋げたアンテナが林立していたが今ではすっかり姿を消し住宅街に変貌している。
このあたりは道路整備が遅れたので各所で行き止まりや屈曲した連続したコーナーがあり地図なしでは通り抜けられない。唯一通り抜けられるのが昔からの道だがこれも今となっては狭く大部分が一方通になっている。
地図を持たずに歩いたのでひたすら目指す方向に進み、コーナーごとに曲がっていたが目的地を定めない散歩だからよいようなもの目的地があるときは近道だと思ってもこのあたりには踏み入らないほうが賢明だ。
どこをどう歩いたか記憶が定かでないがようやく上福岡東口駅前に出ると埼玉県で一番たばこの売り上げが多いという”上福岡タバコセンター星野”がある。
8星野タバコセンター_9364
     Photo8 駅前の角にあるタバコ屋が“上福岡タバコセンター 星野”

上福岡タバコセンターは福岡河岸の”福田屋”星野仙蔵の後裔で女優星野真理さんの実家。といっても住まいは違いますが。
高校生の時に同姓の友達に聞いたときの記憶による上福岡駅東口一帯は星野一族の所有だとか。今となっては友達の消息は解らないが・・・星野タバコセンターのオーナーになっているかもしれない。

上福岡駅前の歩道横には”上福岡開設記念碑”があり
9上福岡駅開設記念碑_9362
     Phot9 駅前の歩道横にある“上福岡駅開設記念碑“

東上線開通に尽力した星野仙蔵氏の事跡が刻まれています。物資の輸送手段を舟運から鉄道輸送に切り替えた舟問屋の経営者ですから新河岸の”伊勢安”主人とともに時代の流れを見据えた先見の明がある人だった。
上福岡駅から一旦県道56の踏切に出て川越方面に向かって線路沿いに戻り、ふじみ野市と川越市の市境になっている市道5458を横切り、坂を下って市道5428を進み稲荷町の坂を上ると縄文遺跡が出土した藤原町遺跡の横に出た。
10藤原町遺跡跡マンション_9367
     Photo10 藤原町遺跡という縄文遺跡があったところに建つマンション

現在、遺跡だったところには遠くからも見える大きなマンションが建っているが、建設時に遺跡が発見された際の350ページほどの発掘調査報告書が川越市立図書館に所蔵されているが貸し出し禁止。
11藤原町遺跡発掘品
     Photo11 縄文遺跡から発掘された住居跡と土器

知人を尋ねてみると関係者だったので報告書を持っているとのことだったので早々に拝借するが・・・中身が専門的過ぎてよく解らないが、遺跡からは縄文早期後半や中期の住居跡や土器、石器、落とし穴跡、石鏃などが出てきたらしい。遺跡は台地上の畑だったところで覆土が薄く当時の地表下まで農作物の牛蒡が侵入していたらしい。出土品は川越博物館に保存され特別展の時だけ出展されたとのことだった
縄文遺跡といってもよく解らないのだが・・・・住居跡はどこかへ移り住めば住居跡は残る。破損した土器はその場に当然捨てられる。土器は粘土が入手できれば制作可能なので重いものは残す。
しかし石鏃のような鋭利な石の材料は和田峠や他の遠隔地からもたらされた貴重品でしかも容易に持ち運ぶことができたので狩猟採集生活は必需品だった石鏃が残されていたということは・・・・・食量を求めて移動以外に敵に襲われ逃げ去ということもあったのか?

藤原町遺跡からは市道5414市道5427市道5332市道5325を辿って高階市民センターへと戻った。
江戸から明治にかけての舟運、縄文遺跡や古墳、戦争時の火工廠跡と頭の中が大混乱した散歩だった。




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