新河岸と隣の福岡河岸

0新河岸河岸場跡_9342
     Photo0 新河岸河岸場跡に整備された船着き場と緑が増した対岸の堤防
記録
日程:2019,03,26

メンバー:安田
03/26 天候 晴れ:
行程10.6km  歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
近所のホームセンターの桜が5分咲きになってきたが公園の桜は漸く咲き始めたばかり。ホームセンタ-の桜の下は駐車場でアスファルト、一方公園は土なので照り返しの気温差で開花が少しずれるのか?
まだ朝は肌寒いがだいぶ緑が目につくようになってきたので新河岸川の土手歩きに出掛けた。

高階市民センターから市道5322を東に向かい東上線に突き当たったところを道なりに進んで新河岸駅踏切を渡り、東上線に沿って戻るように市道44を進んでちょうど市道5322の延長になる市道5334で左折。
市道5334が突き当たる市道5339に出るとすぐに市道43に出る。市道43を新河岸川を目指して進み旭橋への緩い坂の途中で右折するとすぐに右手に新河岸川舟運の舟問屋”伊勢安”の建物が現れた。
1伊勢安_9341
     Photo1 かつては江戸にまで出店を持っていた舟問屋“伊勢安”

”伊勢安“”の向かい側の坂を下ると力石のある厳島神社前の広場に出た。
文献や案内書では新河岸日枝神社に力石があると書かれているが実際には日枝神社から石段を下ったところにある厳島神社が正しい。
川越市の市報”広報川越”のシリーズ「川越時間旅行」に「力自慢たちのモニュメント」として力石(市内元町の力石)が紹介れ、”ちから姫“さんのブログにも素敵な文章で紹介されています。昨年来市役所に力石の保護をお願いしていますが、今回広く市民に啓蒙いていただこうと広報誌の紙面に載せていただいた。

奥まったところにある力石とは逆に広場を新河岸川に向かうと新河岸河岸場跡があり、土手を下った河川敷には平成19年に整備された船着き場があり毎年季節には、”灯篭流し”や”ひらた舟の体験試乗”が行われる。
緑が増し黄色いからし菜の花が咲き始めた対岸を見ながら河川敷の踏跡を下流に向かって進むとやがて道は堤防の上に上がり、右手に寺尾調整けが見えてきた。暖かくなってきて芽吹いた調整池の中の柳の緑を眺めながら堤防上を進み、新養老橋を過ぎるとやがて県道335並木川崎線の川崎橋が見えてくる。
県道335は南古谷駅前からふじみ野市川崎で県道56さいたまふじみ野所沢線に合流する短い県道で、ふじみ野市にあった陸軍造兵廠川越工場(通称”火工廠”)と川越線の南古谷駅をほぼ直線で結んでいた軍用道路だった。

川崎橋から県道335を上福岡方面に進み緩い坂道を登りながら左手の森の中にある白山神社の入口を探したが、見つからないので県道335から横道に入ったやがて県道56に出てしまった。以前川崎橋から県道の養老橋まで歩いた時に河川敷の散歩道の途中に”白山神社“と書かれた案内板があったことを思い出し、養老橋畔から散歩道に入り川崎橋へ戻る途中にあった案内板のところから崖上に登ると白山神社があった。
2白山神社_9347
     Photo2 参道入口が不明な白山神社

神社から続く細い参道はすぐに途絶えてしまい民家の庭先を抜けて漸く舗装道路に出たが、ちょうど先ほどこのあたりが神社入口であろうと目星をつけた場所であったが道路からだと案内板もないし、それらしき細道を辿っても民家の庭先に出てしまうのでよく知らないと白山神社にはたどり着けない。

白山神社から県道を進み左に折れて坂を下ってゆくと途中に福岡河岸記念館がある。
3福田屋_9351
     Photo3 今は福岡河岸記念館として公開されている舟問屋“福田屋”

新河岸川福岡河岸の舟問屋”福田屋”の明治時代の様子(東上線開通以前の舟運最盛期)を再現したもので、現在は東上線開通に尽力した”福田屋”十一代目星野仙蔵氏の功績等が展示されているらしい。
新河岸の”伊勢安”が通り面した間口の広い今にも番頭さんが現れそうな大店の風情を残しているのに対し、”福田屋”は三階建ての建物で新河岸川を見下ろすようになっておりどちらかというと趣味風な建物になっている。
4養老橋_9352
     Photo4 福岡河岸と船着き場 養老橋を渡ると対岸に舟問屋”橋本屋“があった

”福田屋”を通り過ぎて福岡河岸跡に出るとここにも新河岸と同じような船着き場があった。対岸の養老橋の畔には”はしもと”と看板の出ている店があるが古市場河岸で舟問屋を営んでいたという”橋本屋”の後裔であろうか?
船着き場から河川敷を行けばやがて武蔵野台地端の権現山古墳群の下に出るが、次の坂道を登り返し台地上に出た。住宅街の中で見通しが利かず適当に進むとやがてコンクリート塀が現れた。
5火工廠跡の塀_9355
     Photo5 大日本印刷工場の工場を取り囲む塀 内側はかつて火工廠だった

左に進んで県道56まで出てコンクリート塀の内側がかつての 陸軍造兵廠川越製造所(通称“火工廠”)の跡地(現在は大日本印刷)であることを確認して立ち戻り、コンクリート塀に沿って進んだ。
左手の住宅が途切れると樹木が生い茂った新河岸川への崖となり、樹木の隙間から対岸の低地が見下ろせる。やがてコンクリート塀が途切れると3世紀の古墳時代の遺跡、雑木林に覆われた権現山古墳群があらわれた。
6権現山古墳群_9358
      Photo6 権現山古墳群

一見途切れたように見えたコンクリート塀は左に続くので塀沿いの道を進みやがて2車線の道路に出たところで右折、再び県道56を目指した。
火工廠跡を2分しているこの道は火工廠時代には無かった道で戦後火工廠跡が民間に払い下げられた時にできたらしい。
今まで歩いてきた道に囲まれた部分は火工廠の東側半分で他の軍用地と同じように今では大日本印刷や日本無線、新日本無線といった会社の敷地になっている。西側半分は昭和30年代前半に日本住宅公団によって上野台団地ができさらに最近再開発されマンション群が立ち並んでいる。

県道56を越えると戦前の国策会社 ”日本無線電信株式会社” の跡地があり、
7日本無線通信跡_9359
     Photo7 アンテナがある建物がKIID  右側がイトウヨーカドーとその駐車場

現在大部分はイトウヨーカドーに一部が日本無線電信の流れをくむKDDIの総合研究所になっている。
子供の頃には火工廠は現在のとは違う高いコンクリートで囲まれ、中には高く目立つ給水塔が建っていたがいつの間にか撤去されてしまったので、今では地図上で住宅に囲まれた広い工場敷地や公共機関が火工廠跡だと確認できるだけで当時を物語るものは無くなってしまった。
県道56のKDDI総合研究所横から踏み入った大原あたりは一面の麦畑で、丸太を継ぎ足した背の高い鉄塔(木塔)があちこちに立ち並びその間を電線で繋げたアンテナが林立していたが今ではすっかり姿を消し住宅街に変貌している。
このあたりは道路整備が遅れたので各所で行き止まりや屈曲した連続したコーナーがあり地図なしでは通り抜けられない。唯一通り抜けられるのが昔からの道だがこれも今となっては狭く大部分が一方通になっている。
地図を持たずに歩いたのでひたすら目指す方向に進み、コーナーごとに曲がっていたが目的地を定めない散歩だからよいようなもの目的地があるときは近道だと思ってもこのあたりには踏み入らないほうが賢明だ。
どこをどう歩いたか記憶が定かでないがようやく上福岡東口駅前に出ると埼玉県で一番たばこの売り上げが多いという”上福岡タバコセンター星野”がある。
8星野タバコセンター_9364
     Photo8 駅前の角にあるタバコ屋が“上福岡タバコセンター 星野”

上福岡タバコセンターは福岡河岸の”福田屋”星野仙蔵の後裔で女優星野真理さんの実家。といっても住まいは違いますが。
高校生の時に同姓の友達に聞いたときの記憶による上福岡駅東口一帯は星野一族の所有だとか。今となっては友達の消息は解らないが・・・星野タバコセンターのオーナーになっているかもしれない。

上福岡駅前の歩道横には”上福岡開設記念碑”があり
9上福岡駅開設記念碑_9362
     Phot9 駅前の歩道横にある“上福岡駅開設記念碑“

東上線開通に尽力した星野仙蔵氏の事跡が刻まれています。物資の輸送手段を舟運から鉄道輸送に切り替えた舟問屋の経営者ですから新河岸の”伊勢安”主人とともに時代の流れを見据えた先見の明がある人だった。
上福岡駅から一旦県道56の踏切に出て川越方面に向かって線路沿いに戻り、ふじみ野市と川越市の市境になっている市道5458を横切り、坂を下って市道5428を進み稲荷町の坂を上ると縄文遺跡が出土した藤原町遺跡の横に出た。
10藤原町遺跡跡マンション_9367
     Photo10 藤原町遺跡という縄文遺跡があったところに建つマンション

現在、遺跡だったところには遠くからも見える大きなマンションが建っているが、建設時に遺跡が発見された際の350ページほどの発掘調査報告書が川越市立図書館に所蔵されているが貸し出し禁止。
11藤原町遺跡発掘品
     Photo11 縄文遺跡から発掘された住居跡と土器

知人を尋ねてみると関係者だったので報告書を持っているとのことだったので早々に拝借するが・・・中身が専門的過ぎてよく解らないが、遺跡からは縄文早期後半や中期の住居跡や土器、石器、落とし穴跡、石鏃などが出てきたらしい。遺跡は台地上の畑だったところで覆土が薄く当時の地表下まで農作物の牛蒡が侵入していたらしい。出土品は川越博物館に保存され特別展の時だけ出展されたとのことだった
縄文遺跡といってもよく解らないのだが・・・・住居跡はどこかへ移り住めば住居跡は残る。破損した土器はその場に当然捨てられる。土器は粘土が入手できれば制作可能なので重いものは残す。
しかし石鏃のような鋭利な石の材料は和田峠や他の遠隔地からもたらされた貴重品でしかも容易に持ち運ぶことができたので狩猟採集生活は必需品だった石鏃が残されていたということは・・・・・食量を求めて移動以外に敵に襲われ逃げ去ということもあったのか?

藤原町遺跡からは市道5414市道5427市道5332市道5325を辿って高階市民センターへと戻った。
江戸から明治にかけての舟運、縄文遺跡や古墳、戦争時の火工廠跡と頭の中が大混乱した散歩だった。




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川越街道 藤間あたり

0開明地蔵大菩薩_9201
     Photo0 処刑場跡に立つ開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)
記録
日程:2019,03,22

メンバー:安田
03/22 天候 晴れ:
行程6.95km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

春彼岸の中日、春分の日が過ぎたら都内の桜の開花宣言が出ていよいよ春本番。風が少しあるものの自宅近辺を歩き回るには丁度良いので江戸時代初期に整備された川越街道旧道(現在は市道64)の散策に出かけた。

いつもの事ながら高階市民センターから歩き出し、市道5233を東に向かい、東上線に突き当たったところで道なりに新河岸駅方面に進んで新河岸駅踏切手前で市道5321に左折した。市道5321は高階村成立以前は藤馬村(明治の初めに藤間村と改称。江戸時代は藤馬村。更にそれ以前は藤間村)と砂新田の境だった。
1市道5321_9330
     Photo1 藤馬村(藤間村)と砂新田の境界 現在は市道5321

市道5231を進みR254(川越街道)に出るとその先は現在高階中学校になっているが、戦後の教育改革で高階中学校が出来る以前はR254を越えて川越街道旧道(現在の市道46まで延びていた。
戦後直ぐの航空写真を見つけたので高階中学校付近の写真を切り出してみるとかつての村境(中学校建設当時は大字の境)の道をつぶし、畑と雑木林だった土地に中学校が建設される様子が良く解る。
2高階中学校
     Photo2 高階中学校建設の様子

R254を越えて市道5325を西に進み市道46 (川越街道旧道)との交差点で左折し高階中学校に沿って進むとやがて市道51との分岐に出る。
3開明地蔵大菩薩_9315
     Photo3 市道46と51の分岐 分岐の中央が開明地蔵大菩薩

かつての川越街道のこの間は両側が杉並木で子供の頃にはまだ何本か杉の巨木が残っていたが、今では伐採され住宅や商店が建ち並び痕跡すらのこっていない。姿を消してしまった川越街道の杉並木は有名な日光街道の杉並木と同様に川越城主松平伊豆守信綱によるものだった。

市道46と市道51の分岐のところにある開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)は”お仕置き場”と呼ばれ刑場跡だと言われているが、高階村の外れでもないし、ましてや藤間地区の中央部だし?????なぜこの場所にあるのか子供の頃から疑問だった。

新編武蔵野風土記稿”や”寛政重修諸家譜”といった古書の活字本が国会図書館のデジタルコレクションの中にあり、自宅のパソコンでも見ることが出来るので調べてみると徳川家康の関東入府以来川越城主は酒井家、堀田家、松平家(大河内)、柳沢家、秋元家、松平(越前)家、松平(松井)家と変わっている。
更に所領について調べてみると酒井家から松平(大河内)家の時代まで藤馬村を取り囲む砂新田や寺尾村砂村は川越領となっていたが藤馬村だけは旗本米津(よねきつ)氏の所領となっていたことが解った。
つまり藤馬村は川越街道が整備された松平伊豆守信綱時代は米津氏領、元禄時代になって柳沢吉保が城主になったときに加増で藤馬村は川越領となったので藤馬村が川越城付領に組み込まれるまでは砂新田が川越城付領のもっとも外れになっていた。
江戸の府内の外れにあった日光街道の小塚原刑場や東海道の鈴ヶ森刑場と同じように人の行き来が多かった川越街道の砂新田の外れに刑場が置かれたのであろう。
米津領藤馬村が川越城付領になってもそのまま残され現在に至っていると思われる。
専門家ではないので断言することは出来ないが漸く長年の疑問に対し答えを見出すことが出来た。

市道46を更に進み東光寺前の坂を降って行くと(武蔵野台地から降ると)かつて川越街道には川越城下に近いほうから一の橋、二の橋、三の橋があったという。
先日歩いた(藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り)流路の痕跡が残る北江川に架かっていた橋が一の橋、
4一の橋下流_9320
     Photo4 川越街道の一の橋から下流側

そして現在は江川都市下水路となって地下トンネルになっている江川の橋が三の橋だったというが川五街道を歩いた記録のブログや記録を見ても二の橋の場所は不明になっている。
一ノ橋と二の橋の中間あるはずの二の橋の痕跡を探しながら歩くと市道46から左側の民家に入る私道の横にそれらしき掘割を見つけた。
5二の橋下流_9322
     Photo5 川越街道二の橋から下流側 道路右側が流路 道の突き当りは民家

市道46の右側の家々は塀が密着し川の痕跡と思われるものが見当たらないので下流に向かって進むと、民家の間を縫うように曲がりながら掘割が続き
6二の橋R245付近_9323
     Photo6 明瞭になった掘割 奥がR254

やがて市道6402に出た。

直ぐに交わるR254を越え市道5422に出ると道に沿って暗渠が続いているので、
7市道5244暗渠_9324
     Photo7 市道5422右側が暗渠

区画整理される前には間違いなく二の橋の下を流れる川があったことが解った。市道5422を暗渠の行き先を求めて進むと東上線の線路手前の市道5428との交差点で暗渠が消え失せてしまった。

道路を良く見るとマンホールの蓋に”うすい”とかかれたものと”おすい”とかかれた2種類あることを発見したので
8雨水マンホール_9325
Photo8 雨水マンホールの蓋

今度は”うすい”のマンホールを探しながら市道5428を進むと地下を江川都市下水路が通っている市道5455に出てしまった。おそらくここで下水路に合流していると思われる。

市道5455を越えてコンクリート階段を上り、武蔵野台地上にあるふじみ野市との境の市道5458に出て左折、藤間北野歩道橋で東上線を越えて市道44に出たところで左折し、区画整理で変わってしまった東上線西側とは違い未整理のまま住宅が建ち並んでしまった東側から川の痕跡を探してみたが何も発見できなかった。
一の橋があった北江川、三の橋があった江川(今は江川都市下水路)は共に東上線の鉄橋(今では道路)があったが、この間は東上線が土手の上を走っているので区画整理されて暗渠になる以前の東上線開通時から二の橋があった川は江川に合流していたのかもしれない。

古い地図にも現われていないので普段は水が無く、降雨後に流れが現われるような小河川だったのであろう。(地図上のa、b、c、dは以前のブログと同じで区画整理後失われた古道が東上線と交わる地点を示しています。)

藤馬村と寺尾村の境界の道、市道44(寺尾街道)を更に新河岸駅方面に進み市道43に出て踏み切りを渡り直進、高階小学校前から市道5538市道5537市道5325を経て高階市民センターへ戻った。





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砂久保陣場跡と藤間流発祥地

0砂久保稲荷神社_9283
     Photo0 河越夜戦のときの砂久保陣場跡がある砂久保稲荷神社
記録
日程:2019,03,10

メンバー:安田
03/10 天候 曇り:
行程9.7km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

庭の福寿草の花が散り数本ある梅も遅咲きの紅梅が満開になっていよいよ近所の桜を待つだけになってきたので、道から見える花木を楽しもうと後北条氏が関東覇権を完成させた河越夜戦の陣場跡と、江戸時代になって生まれた日本舞踊藤間流の発祥地を巡る散策に出かけた。

いつものように高階市民センターから市道5325を北上し江戸時代の開墾の跡を残す一列に並んだ農家の庭先を抜けて西に進みR254を横断。市道6325市道6316を経て市道46で五ツ又の五差路を直進して戦国時代に関東の覇権をかけて上杉と北条が戦った河越夜戦の陣を張ったと伝えられる砂久保陣場跡の解説板が建つ砂久保稲荷神社に着いた。
1砂久保稲荷神社解説_9284
     Photo1 砂久保稲荷神社境内に建つ陣場跡の解説板

砂久保陣場跡について少し詳しく触れます。
情勢
天文6年(1537)、扇谷上杉朝定の河越城を後北条氏2代の北条氏綱が奪取して武蔵国支配を確定し、「河越衆」と呼ばれる精鋭部隊が置かれた。
天文14年(1545)、上杉朝定は古河公方足利晴氏、山内上杉氏の上杉憲政と連合を組み10月から8万の大軍で河越城を包囲。
河越城主北条綱成は半年に及ぶ篭城で抵抗し、天文15年(1546)4月に包囲している上杉勢を小田原から出陣した北条氏康と共に撃退し(河越夜戦)北条氏による武蔵国の支配を完成した。(当時は河越ではなく川越)

解説版について
砂久保というところは河越夜戦から100年後の正保の頃(1644~1648)に開墾されたので更に100年遡る当時はススキの原野か雑木林だったと思われ、陣馬跡といっても土塁などの遺構は無く、古文書にある「砂窪」という地名に導かれて陣場跡という史跡としたので、川越市教育委員会が便宜上藤久保稲荷神社に解説板を建てたようです。

このとき河越城を包囲した上杉か、それとも援軍に駆けつけた北条か、どちらかが砂久保(砂窪)に陣を構えたのか?
以前にあった解説板では文化・文政期(1804~1829)に編纂された『新編武蔵野風土記稿』にあるように「上杉憲政が砂久保に陣を敷き4月20日に援軍に駆けつけた北条氏康が攻めた」と書かれていたが
現在の解説板では『北条氏康書状』(「北条記」「歴代古案」に所収)や『北条五代記』にあるように
「天文15年4月20日に上杉憲政が攻めかかり北条氏康が迎撃、河越城内から北条綱成が撃って出て両方面から北条は勝利します」となっており
砂久保陣馬は上杉から北条へと変更され攻守が逆になっている。

新編武蔵野風土記稿は戦いからおよそ240年後の地誌、一方の氏康書状は戦直後のものであるから研究が進んだ結果、陣場の主も変わったのであろう。
何れにしても勝者は北条、敗者は上杉であるがこの後豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすまで武田信玄、上杉謙信、前田利家など幾多の武将が武蔵国に兵を進めてきました。

砂久保稲荷神社のところで市道46は右に曲がるがそのまま直進して市道6342に入り、市道6341市道6359市道6360市道6358を経て市道64に出た。
このあたりは所々に住宅があるものの江戸時代の武蔵野開発の跡をとどめる短冊状の大区画の畑がかなり残っている。地図上に描かれている道幅をもった道は昔から人が往来した道かあるいは近年の宅地化によって作られた道であるが、一本線で描かれている道は昔からの農道で土地の区画を留めている。
2砂久保の畑_9288
     Photo2 砂久保地区の畑 関東ロームで赤土だが腐葉土を入れると黒くなる

江戸時代の初期までの開発では土地の区画は一塊になった数件の農家を取り巻くように畑があるが、
川越城主が松平伊豆守信綱や柳沢吉保のときに開墾されたところは農家が道路に沿って一列に並び、土地の区画は短冊状になっているので地図を見れば開墾されたおよその年代がわかる。

市道50を西に進み関越道手前の交差点の右角に明治40年4月に建てられた「肥料共同購十週年紀念碑(ママ)」があった。
3肥料共同購入の碑_9291
     Photo3 肥料共同購十週年紀念碑

丁度明治30~40年頃は新河岸川舟運の最盛期にあたり、新河岸五河岸に加え仙波河岸も開かれていた。
市道50を更に進み関越道をくぐるトンネル手前で左折し関越道沿いの市道6433を進むと道の左側は雑木林になり緩やかな上り坂になっている。雑木林に差し掛かったところで散歩道らしき踏跡を発見し市道6433から外れて進んでみるが直ぐに民家に出たので再び関越道沿いの市道6433に出て南下。
4関越道_9292
     Photo4 関越道沿いに進む

関越道下を通る市道51を越えて道なりに進み市道49に出たところで左折して北上、再び雑木林の中を進んだ。
市道51に沿って下松原集落の農家が東西に建ち並び雑木林や畑の区画が短冊状に残っているので江戸時代の開墾跡だということが良く解る。
市道49を進むと市道51沿いに並ぶ農家の裏側の雑木林の中に数箇所の屋敷墓があった。
5屋敷墓_9294
     Photo5 雑木や竹林の中にある屋敷墓

遠くから見ると新しそうな墓も見受けられたが、寺ではなく自宅近くに死者が葬られ開墾当時から代々受け継がれてきたのだろう。

地図上に一本線で描かれた雑木林の中の径の殆どは市道49との交点に車の進入を防ぐように横棒が架かっているがその中の交点の一つの道角に古い木彫を発見したので立ち入ってみた。
6木彫_9295
     Photo6 “木彫の径”入口

落ち葉がきれいに掃かれた雑木林の中の径を進むと
7木彫_9296
     Photo7 “木彫の径”注意の林の落ち葉はきれいに掃かれている

やがていろいろな木彫が置かれた小広場に出た。
8木彫_9298
     Photo8 “木彫の広場”

木彫は雑木林の中の太い木を使いチェーンソーで刻まれた1mほどのもので味わいがあり、木々が芽吹く季節には良い休憩所になる。(名称が無いので勝手に“木彫の径””木彫の広場“と呼びました)
木彫のある広場から雑木林に囲まれた隠田のような畑の片隅を通り
9雑木林の中の隠田_9301
     Photo9 周囲を雑木林に囲まれた隠田のような畑 里芋植え付け中

市道6394に出て「森のさんぽ道」(仮称)に入り雑木林を抜けて送電鉄塔(東京電力京北線16)の下を進むと市道51に出た。
市道51を少し進んで鋭角に曲がって市道6420に入り、左側の畑の遥か先に見える家並みの間から市道64(川越街道旧道)に抜けられそうな畑の中の作業道を進み、市道64に出て左折し川越方面に少し進んで市道6402に再び右折しR254に出る手前の分岐を右に進んでR254に出て横断。
川越方面に国道を進むと右側にブロック塀に囲まれた「藤間流発祥地」がある。
10藤間流発祥の地_9305
     Photo10 藤間流発祥地の碑

日本舞踊藤間流の創流者藤間勘兵衛の出身地で碑が建っているが、藤間流は勘右衛門派・勘十郎派・勘兵衛派にわかれその後勘兵衛派は断絶してしまった。
藤間勘兵衛は新井氏といわれ、現在も血脈が残り藤間地区には新井氏が多い。

R245から市道5442に右折し、諏訪町・稲荷町・藤原町を経て
11ホトケノザ_9308
     Photo11 農家にとっては雑草のホトケノザもレンタル菜園では? 

高階市民センターへ戻った。途中のレンタル菜園にはホトケノザが満開だった。






  

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ふじみ野市 六道の辻

0六道の辻_9271
     Photo0 “六道の辻”にある六道地蔵
記録
日程:2019,02,20

メンバー:安田
02/20天候 晴れ:
行程12.4km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

久々に気温が上がり春めいてきたので高階市民センターがある台地から隣の台地・上福岡を歩いてみることにした。

上福岡の台地上には”六道の辻”と呼ばれるところがあり、今では解りにくくなっているがかつては麦畑の中を通る古道が交わっていた。
東上線西側部分に昭和30年代初めに住宅公団により霞ヶ丘団地を造成され始め、34年に完成して入居が始まるとあたりの景色も一変し、高階市民センターのある台地の南端、今の藤原町や稲荷町の坂上からは建設中の白く聳える公団住宅が遠望できた。
高階市民センターと上福岡の台地はともに武蔵野台地末端部なのでその間にある低地は縄文時代には海の入り江だった。崖線部には住居跡や土器などが見つかっている。
上福岡の台地北西端は霞ヶ丘団地の影響もあって民間業者による開発が進み、昭和30年代後半になり台地の間の低地が区画整理されて熊野町・清水町・稲荷町の4町が生まれたが既に宅地化された部分は区画整理から取り残されてしまった。
現在、市道5455と市道5458にはさまれた北斜面の地域は台地の上から低地に向かって櫛の歯のように道が並び、坂道の途中が石段になっていたり行き止まりになっているところがある。台地の崖線下には着色した水や汚水が流れる江川が流れていたが今は地下を流れる江川都市下水路となっている。

いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5425に入り藤原町を通過して坂を下りしばらく進んで市道5455とのT字路で右折。少し進んで曲がりくねった市道5457に入った。
1南開発_9268
     Photo1 川越市道54575 左右の地面の高さ違いから崖線下と解る(振り返って撮影)

市道5457は直ぐにR254に出てしまうが、道の左側はコンクリートや石積みの擁壁になっておりかつての崖線の様子を色濃く残している。
R254に出て左折してすぐの藤間歩道橋のところから
2藤間歩道橋_9269
     Photo2 藤間歩道橋

六道の1つ”まちや道”に入った。住宅街の中の一方通行の道を進み正面に地蔵が見え出すと“六道の辻”に出た。
3六道の辻_9270
     Photo3 “六道の辻“ 右上に進むと上福岡駅方面

仏教で言う六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という輪廻転生する6種の世界だが、
ここでいう六道とは①福岡・引又道(引又とは志木市にあった新河岸川の引又河岸のこと)、②亀久保・江戸道(江戸道とは旧川越街道のこと。川越街道と呼ばれるのは明治以降で江戸時代は江戸道)、③鶴岡道、④藤間・町屋道(町屋とは川越城下のことか?)、⑤寺尾・新河岸道、⑥古市場道という交差している6古道をいう。

“六道の辻“でV字ターンをして”つるおか道”に入り暫く進むとR254に出た。
交通量の多いR254を避けて手前のR254と並行する路地を進み県道56に出たところで左折、暫く県道56を進んだ後上福岡駅を目指して左折、住宅街の中を歩いてわずかに”ひきまた道”の痕跡を残す駅前に出た。ここから再び“六道の辻”を目指して進み、“六道の辻”で再びV字ターンして”えど道”をしばらく歩いて上福岡青果市場のところから再び県道56に出た。
4上福岡青果市場_9274
     Photo4 上福岡青果市場 県道を進むと東上線踏切方面

上福岡青果市場は一般客相手の小売市場ではなく、川越南部やふじみ野市など周辺の農家から出荷される野菜類の集積市場で丁度箱詰めにされたホウレン草が運び込まれていた。

上福岡青果市場から県道56を少し進んで右折し、県道56に合流する狭い裏道を北東に進み、東上線踏切の少し手前で県道56に合流して東上線を越え直ぐに左折。
5上福岡駅_9276
     Photo5 東上線で分断された”ひきまた道” ホームを越えた先が”六道の辻“

東上線に分断された”ひきまた道”に出たところで右折し県道56を横断して直進した。
県道56を越えたところから”ひきまた道”は商店が連る中央通りと名を変え、七夕のときには垂れ下がった七夕飾りと人出で進むのが困難なほどの賑わいをみせたが、今ではシャッター通りの様相を呈しマンションや駐車場、空き地が目につく。

図書館前の交差点で再びV字ターンで折り返し、上野台団地が再開発でコンフォール上野台と名前を変え、その一角にある中央公園横の道路を上福岡駅方面に戻った。
上野台団地以前にあった火工廠ができる昭和初期までは地図上に赤線で示した古道(新河岸と引又河岸を結ぶ陸路)があった。

上福岡駅入口交差点で右折し、
6寺尾街道_9278
      Photo6 寺尾街道(川越市に入ると市道44)

直ぐに左折して古道の跡を少し歩いて再び左折して上福岡駅東口前に出た。ここから東上線に沿ってマーケットの間を通り抜けた先の突当りが”ふるいちば道”で左手は線路で行き止まり(A地点)、
7ふるいちば道行き止まり_9279
     Photo7分断された”ふるいちば道”  線路の先は”六道の辻“へ繋がっていた

右に暫く進んで左から鋭角で合流する道へV字ターンし、西に向かって暫く進むと再び東上線の線路で行き止まり(B地点)。
8行き止まり_9280
     Photo8 川越市とふじみ野市境の藤間歩道橋まで伸びていた古道跡

少し戻って線路と並行する道を北上し、川越市とふじみ野市境の道を東に進んで市道44に出て左折、坂を降る途中で左折し市道5403に入った。

市道5403は”六道の辻”から延びる”しんがし道”の一端で台地から降って寺尾街道(市道44)に合流する。
9しんがし道_9281
     Photo9 東上線と寺尾街道(市道44)の間に残る“しんがし道”

さらに寺尾街道を北西に進み、藤間諏訪神社の東側の分岐を右に進む(市道5341)と新河岸に出る。

市道5403も東上線に突き当たり(C地点)、左に折れて線路に沿って狭い坂道を上がってゆくと市境の市道5458に出た。
10藤間北野歩道橋_9282
     Photo10東上線を跨ぐ藤間北野歩道橋(線路の先が上福岡駅)

藤間北野歩道橋で東上線を越え、さらに市道5458を進んで旧霞ヶ丘団地の末端まで来たところで左折、B地点からの古道で右折しR254の藤間歩道橋の下に戻った。

藤間歩道橋からR254を少し歩いてR254と川越街道旧道(市道64)の間にある市道6406市道6404市道6400を経てR254を渡り出発点の高階市民センターへ戻った。

幸いにも”六道の辻”は霞ヶ丘団地に取り込まれずに残ったが”六道の辻”を通過していた古道は東上線建設で分断され、霞ヶ丘団地部分は消滅した。
”しんがし道”部分が残っているようにも見えるが霞ヶ丘団地時代に拡幅直線化され古道であったことが窺い知れる物は無い。





 

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川越市 南古谷 並木の大クス

0並木の大クス_9259
     Photo0 埼玉県の天然記念物 “並木の大クス”
記録
日程:2019,02,19

メンバー:安田
02/19天候 晴れ:
行程9.3km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
       記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

以前出掛けた茂来山の”コブ太郎”(トチノキの大木)を思い出し、それよりは小ぶりだが埼玉県指定天然記念物になっている”並木の大クス”を見に出掛けた。
”並木の大クス”は目通り幹囲が5.8mと言われるが前回は遠くから眺めただけだったが今回は住宅街の中をうろついて漸く全体像を見ることが出来た。

いつもと同じように高階市民センターから市道5322を歩き市道43に出て東上線踏切を越えて新河岸川手前で県道336に入り、新河岸川の旭橋と九十川の共栄橋を渡ってR254(ふじみ川越道路)に出た。更に県道336を直進し県道335との交差点に出た。ここまで県道とはいうものの道幅は狭く曲がりくねっているので歩いただけでは市道と県道の区別がつかない。まぁ国道とは名ばかりのところもあるので同じようなものか。

県道335の起点である南古谷方面に北上し大クスが見えてきたところで市道4370に右折したが住宅街に入り込んでしまったので、そのまま道なりに進むと右に曲がったり左に曲がったりしたあと漸く県道113に出ることが出来た。市道4370は県道335から県道113への車の抜け道となら無いように考えられた道なのかそれとも都市計画以前の住宅開発の跡なのかわからないが車では入り込むには覚悟が必要な道だ。
県道113を南古谷駅方面に少し進んで市道4184に右折。大クスの全体像を見ようと程よい距離で周囲を巡るが住宅に囲まれていて全体像どころか姿が全く隠れてしまうようなところもあった。
市道4184の先には田圃が広がり、さらにその向こうにはJRの川越車両センターが見えてきた。
1川越車両センター_9257
     Photo1 川越車両センター遠景

川越車両センターは昭和60年に川越電車区として使用が開始され、平成4年に改称された埼京線・川越線・八高線の運行車両の基地。

市道4182市道7180と巡ったが大クス全体の姿を見ることが出来ないので住宅街の中に入り込んでみると狭い公園((大クス公園))の中央に大枝を広げていた。植生保護のため根元まで近づくことが出来ず幹に触れることが出来なかったが公園脇の道路から漸く全体像を捉えることが出来た。

”並木の大クス”を後に県道113を川越市内方面に向かい川越線踏切手前で市道5461に左折、川越線沿いに暫く歩くと九十川手前で道は左に折れ、九十側沿いの道となった。川越線の九十川橋梁は新しくなったコンクリート製の新河岸川橋梁と異なり、
2九十川橋梁_9261
     Photo2 JR川越線 九十川橋梁

古いままの鉄製ブレードガーダー橋なので近づいてみようと思ったが鉄柵で近づけなかった。次回訪れるときには対岸から迫ってみよう。
九十川左岸を進むと学校橋に出たがそのまま九十川の堤防上を進むと、かつて蛇行していた時代の河道跡と思われる空間(田圃)が現われた。
3河道跡流_9264
     Photo3 九十川直線化以前の河道跡

地図では田圃の向こうの道路が弧を描いているのが良く解るが全体を捉えられない写真では良く解らない。

九十川の堤防上を歩き県道336の共栄橋に出たところで右岸に渡り、
4共栄橋か上流_9265
     Photo4 共栄橋から九十川上流側

更に新河岸川との合流点を目指して進み、途中に唯一残された無名の人道橋で左折し堤防から降った。
5無名人道橋_9266
     Photo5 幅が狭い無名の人道橋

昭和初期に開鑿された九十川の両岸の田圃を結ぶ農道の橋でリヤーカーが通れるほどの幅しかなく、かつては欄干も無かった。記憶によると橋から田圃の中に伸びる農道があったはずなので市道5242を辿ると昭和52年に開校した牛子小学校に突き当たってしまった。どうやらそのときに一帯の区画整理が行われ記憶の片隅にあった農道は消滅したようだ。

牛子小学校から市道5231、市道5230を経て県道335に戻り、新河岸川を渡って市道5340に左折した。新河岸地区から寺尾地区に入るとかつては畑が広がっていたので周囲の景色から判断して迷うことは無かったが、住宅が建ち並んだ今は自分の位置さえ解りにくい。
市道5340から市道5345に入り漸く見通しの利く住宅街の片隅に出たところで、遠くに見える散歩している人の姿を追いながら農道を歩いてどうにか市道5322に出た。
市道5322から市道5331市道5322と歩きいつものように高階市民センターへと戻った。



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新河岸駅・南古谷駅・上福岡駅 3駅周回

0蓮光寺_9248
     Photo0 新河岸の対岸から見た蓮光寺 左の木立のあたりに惣門があります
記録
日程:2019,02,13

メンバー:安田
02/13天候 晴れ:
行程11.3km  歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

JR川越線の南古谷駅からふじみ野市に向かってほぼ直線で伸びる埼玉県道335(並木ふじみ野線)はふじみ野市に入ると直ぐに埼玉県道56(さいたまふじみ野所沢線)に合流している。
地図を見ると県道56は曲がりくねっていて古くからの道だったことは解るのだが・・・・県道335とは?
調べてみると県道335はかつてふじみ野市にあった火工廠(東京第一陸軍造兵廠川越製造所)と南古谷駅を結ぶ軍事道路だった。川越線が開通したのが昭和15年なので時を同じくして開かれたのであろう。

先日の散策で新河岸川の堤防の上から川越線(埼京線)を走る電車を見たので今日は東上線の2駅(新河岸駅とふじみ野市の上福岡駅)と川越線の南古谷駅の3駅を結んで歩いた。

いつものように高階市民センターから市道5322を東進し、東上線踏切を渡って更に線路沿いに進むと新河岸駅。
新河岸駅は大正3年の東上線開通から1ヶ月遅れて高階駅として開業、
1新河岸駅S36
     Photo1 開業時とほとんど変わらない新河岸駅踏切時代

その後大正5年10月に新河岸駅に変更された。駅が存在する村名から高階駅と名付けられたのであろうが当時はまだ新河岸川の舟運が運行されており、新河岸のほうが広く知れていたので駅名を変更したものと思われる。
その後東上線は電化、複線化されたが駅は殆ど変わらず、子供のころ駅舎からホームへは池袋側の踏切を渡って電車に乗った。

昭和40年頃川越側にホームが延長されたとき直近の踏切が廃止され電車は8両編成化、昭和54年に駅舎からホームへはそれまでの踏切から跨線橋になってホームが池袋側に延長され電車は10両編成となった。
2旧新河岸駅
     Photo2 跨線橋になった新河岸駅

新河岸駅ホームの古い基礎部分は大谷石が積まれているが川越側と池袋側にそれぞれ延長されると延長部分は鉄骨製になり、また基礎の高さも当初より増していることが横から見た拡幅・延長跡から解る。
3新河岸駅ホーム_9237
     Photo3 駅ホーム 延長部分は鉄骨製

新河岸駅は開業以来改札口が1ヶ所(西側、以前は東側には畑が広がっていた)だったので利用者の増加とともに東口開設の要望が増し、平成29年になって長年の懸案だった東西を結ぶ線路を跨ぐ通路をもった橋上駅になった。
4新河岸駅東口_9239
     Photo4 橋上新河岸駅 東口

新河岸駅から市道5309を進み県道336に出て新河岸川の旭橋を目指した。
途中の砂氷川神社と新河岸駅周辺は昭和29年に”人違いバラバラ事件”が起きたところで一躍有名になり今でも古くから住む人たちの間では語り継がれている。
事件は青年団の運動会帰りの19歳の女性が犯人の誤認で殺され、身体をバラバラに切断されて氷川神社や新河岸駅ホームの川越側への延長で廃止された踏切の西側にあった肥溜めに遺棄されていたというものだった。
乳房と性器は切り取られ膣や肛門には布切れを詰め込み、両足を切断したといった田舎の農村に起こった猟奇殺人事件だった
まだその頃のことを覚えている人たちによると、
”学校の社会見学で先生に引率されて現場を見に行った”とか”小学校の入学式が終わったら親と一緒に現場検証を見に行った”とか。
今でも”川越 バラバラ事件”や”高階村 バラバラ事件”などでネット検索すれば事件のことがいろいろ出てきます。

新河岸川旭橋から九十川の共栄橋を渡り市道5113進んで富士見川越道路(R254バイパス)の下をくぐり、さらに市道5090を進むと県道335並木川崎線に出た。
左折すると直ぐにJR川越線南古谷駅に出た。
5南古谷駅_9244
     Photo5 JR川越線(埼京線) 南古谷駅

駅前でUターンしてふじみ野市に向かって歩くと左側に”並木の大クス”(埼玉県指定天然記念物)が見えてきたが、
6並木の大楠_9245
     Photo6 並木の大クス

今回は立ち寄らずに暫く県道335を進んで新河岸川に架かる川崎橋(平成22年架け替え)を渡るとふじみ野市川崎地区に入った。
川崎橋を渡るとまもなく県道56との合流点(県道335の終点)だが今回は橋を渡ってすぐに新河岸川右岸堤防上に踏跡を見つけたので踏み入ってみた。
踏跡を辿り養老橋を越え更に進むと踏跡は崖線下の良く整備された散策道になり
7遊歩道_9247
     Photo7 新河岸川沿いの散策道

やがて対岸に蓮光寺が見えてきた。(ページトップの写真)
先日の散策のおり不思議に思っていた蓮光寺の建物の配置(本堂山門は西向きに対し惣門は北向き)が疑問だったが、かつては本堂山門惣門と直線状に並び西向きで新河岸川に面していたが昭和8年の新河岸川の拡幅・改修工事で惣門は移動されたとのこと。納得!

散策道の終点から右折し緑地公園から道路を横切ると権現山古墳群に出た。全く時代が異なるが江戸時代の初め家康が鷹狩りのときに小山のような古墳群の上から東に広がる低湿地帯を眺めたとき、新河岸川対岸の蓮光寺が目に入り茶を所望。そのときに寺領七石を寺に与えたとか。

権現山古墳群を横切りかつては火工廠(今は大日本印刷や新日本無線、団地や学校等の公共施設となっている)の外周に沿って進み県道56に出た。
8上野台の公園_9252
     Photo8 コンフォール上野台

県道56を横切って進むと直ぐに上福岡駅でここの西側には霞ヶ丘団地が昭和34年、東側の火工廠跡には上野台団地が昭和35年に竣工し上福岡駅は昭和34年に東武鉄道(東上線ではなく東武鉄道)で初めての橋上駅になった。
9上福岡駅_9253
     Photo9 上福岡駅 東口

日本住宅公団が造成した両団地は老朽化し今はUR都市機構により再開発されて、上野台団地はコンフォール上野台に霞ヶ丘団地はコンフォール霞ヶ丘になっている。
上福岡駅で東上線を越えて線路伝いに進み、ふじみ野市と川越市の市境の跨線橋を右に見て坂道を降って市道5428を北上し清水町・稲荷町を経て坂を上り藤原町に入った。

市道5428と東上線の線路の間に建つ大型マンション”ソフィア川越四季彩の街”は
101ソフィア川越_9256
     Photo10 藤原町遺跡があったところに建つマンション

縄文時代の住居跡が発掘された藤原町遺跡があったところだがそれをうかがい知るものは全く無い。
平成9年に出版された350ページに及ぶ川越市教育委員会の遺跡調査会報告書第19集も川越市中央図書館にあるのみでそれも貸し出し禁止となっているので殆ど一般人の目に触れることは無い。
川越市立博物館 を訪ねても資料は無く教育委員会を紹介されたにとどまった。

藤原町遺跡から更に市道5428を北上し市道5331市道5322を経て起点の高階市民センターに戻った。





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川越五河岸と仙波河岸

0下新河岸寺尾河岸_9205
     Photo0 川越五河岸のうち下新河岸跡(手前)と寺尾河岸跡(奥)
記録
日程:2019,02,07

メンバー:安田
02/07天候 晴れ:
行程9.3km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

武蔵野台地の末端に位置する川越の東側には新河岸川が流れている。江戸時代から明治にかけてその新河岸川を利用した舟運が埼玉県西部から青梅方面までの物資輸送を担ってきが、やがて鉄道輸送の時代を迎えると舟運は衰えていった。
今日は舟運で栄えた川越五河岸と最上流に最後に開かれた仙波河岸を歩いた。新河岸川の舟運については各種の研究や出版物があるがもっとも簡潔にまとめられている みなと文化研究事業 の "川越(新河岸川)の「みなとの文化」" が参考になる。

いつものように高階市民センターから市道5322を歩き東上線の踏切を渡って市道43を東に進み緩い坂を降ると新河岸川に架かる旭橋に着く。旭橋から新河岸川の右岸上流側が①上新河岸、下流側が②下新河岸、さらに少し下ると③寺尾河岸、旭橋を渡った左岸が④牛子河岸で、さほど広くは無いところに河岸が存在していた。

旭橋を渡って左折し、新河岸川左岸堤防上を上流に向かうと直ぐに旭住宅という住宅地。
1旭住宅_9206
     Photo1 旭住宅 右は旧九十川河道

昔の地図で見ると旧九十川と新河岸川の合流点で中州のようになっているところで大正から昭和の初めにかけての新河岸川改修で九十川の流路変更で出来たところで、昭和30年代に宅地化された。
丁度対岸にはそのときの新河岸川直線化で取り残された新河岸川の旧河道の一部がニジマスの釣堀(川越淡水魚センター)になっていたが、平成10年の洪水とその対策として実施された”激甚災害特別緊急事業”による堤防のかさ上げで今は無くなった。

川越線を走る電車を眺めながら良く整備された左岸堤防上を進むと新扇橋(平成15年)が見えてきた。かつて少し下流に扇橋があったが都市計画で上流に移動し名称も”新扇橋”となった。対岸(右岸)の辺りが⑤扇河岸が合ったところで江戸時代には最上流の河岸で、①~⑤までが川越五河岸と呼ばれていたが、明治になって更に上流に仙波河岸(明治2年)が設けられた。

新河岸旭橋の畔に河岸場跡の碑と説明板、それにコンクリートで造られた船着場があるが
2新河岸河岸跡_9204
     Photo2 新河岸 河岸場跡

九十川の流路変更、新河岸川の直線化、堤防の強化など数回に及ぶ洪水対策でかつての面影を残すものは殆ど残っていない。

新扇橋の直ぐ上流は新河岸川と不老川の合流点で
3新河岸川不老河合流点_9208
     Photo3 不老川(左)と新河岸川(右)の合流点

ここを過ぎると新河岸川は右に曲が始めJR川越線の新河岸川橋梁に差し掛かる。
昭和15年に大宮から高麗川に至る川越線が開通し、そのときに造られた鉄製橋桁のブレートガーダー橋(昭和11年)が架かっていたが、新河岸川改修工事に伴って平成22年にコンクリート製の新しい橋梁となった。

新河岸川橋梁から少し遡るとかつての川越市の下水処理場”滝ノ下終末処理場”(昭和41年から運転開始)が
4水循環センター_9213
     Photo4 新河岸川上流水循環センター

あるが今は埼玉県に移管(平成18年)され、”新河岸川上流水循環センターとなっている。
不老川が昭和58年から3年連続で”日本一汚い川”になり、その対策の一環として水循環センターで処理した水を不老側上流の狭山市の入曽まで送り放流している。

滝ノ下橋を渡り市道を進むとR16をくぐる手前左側に仙波河岸史跡公園がある。
5仙波河岸公園_9216
     Photo5 仙波河岸史跡公園入口 左のトンネルの上はR16

R16は直ぐ先の崖の上、仙波河岸史跡公園は崖下になっており仙波の滝の湧水があるがこの時期は水涸れ。
6仙波河岸跡_9217
     Photo6 仙波河岸跡

仙波河岸の跡が整備され保存されているが子供の頃は整備されていなくて、朽ち果てた川舟が沈んでいた。

五河岸は江戸時代に繁栄していたが台地上の川越城下までは距離もあり、烏頭坂という難所もあったので明治2年に仙波河岸が開かれた。
先ほど通った市道は台地上に上がる道路だが、坂の両側は切り通しのように削られ勾配が緩くなっている。これも仙波河岸と同時期に出来たものであろう。武家社会が崩れ民衆が取って代わった時代の変わり目に出来た仙波河岸は城下の川越商人が従来の勢力に取って代わろうと開かれたのかも知れないが、川越商人の勢力もやがて外からの力、鉄道と新河岸川の洪水対策により大正になると衰え始める。
明治28年の川越鉄道(国分寺と川越間、現在の西武新宿線の一部、川越資本は殆ど参加せず))の開通でそれまでの所沢飯能入間など埼玉西部への物資輸送は舟運から鉄道に変わり川越商人の商圏は狭くなった。

仙波河岸が開かれる以前から新河岸川は川越北辺を流れる赤間川が注ぐ伊佐沼を源流としていた。伊佐沼周辺は低湿地でその後の陸上輸送には不向きだったのに対し新河岸は水量も多く緩やかな坂で台地に上がることができたので埼玉西部への陸送が容易だった。
仙波の滝から流れが注ぐ不老川は渇水する冬になると干上がってしまう”としとらず川”なので水量が少ないうえに季節変動も大きかった。以上のような要因で五河岸が繁栄したと思われる。

新河岸川の曲がりくねった河道が舟運を可能にする水量を保つ上に大きな役割を担っていたが一方洪水も多かった。
大名や旗本などが分割統治していて治水対策もままならなかった江戸時代から明治になると広い範囲で洪水対策が行えるようになり、関東平野を襲った明治43年の大洪水の対策の一環で新河岸川下流の改修が行われると水量が減った。
さらにそれまで川越城下の北辺を流れていた赤間川の流路が、
7新河岸川上流方向_9212
     Photo7 新河岸川上流方面 この辺りから上流が昭和9年までに開鑿された

川越城の外堀の一部を利用し台地縁辺を南下して新河岸川に直結する流路に変更され、昭和9年までに田谷橋から仙波河岸付近まで開鑿され、現在のR16とR254に沿った両岸に桜並木がある新河岸川となった。
地図上では旧赤間川部分も新河岸川となっているが今でも古くからの川越市内に住む人は赤間川と呼んでいる。

仙波河岸史跡公園から坂道を上り愛宕神社に立ち寄ってR16を西進、R!&とR254の交差点の歩道橋から眺めるとここが下からJR川越線(昭和15年開通)、東上線(大正3年開通)、R254(川越街道 昭和16~20年)、R16(昭和44年)と重なっている川越の交通の要所。
8東上線東京方面_9221
     Photo8 左から中央が東上線 一段低く右から中央が川越線 トンネルで東上線と交差

旧川越街道市道46とR254(現川越街道)は直ぐ先の東京寄りの烏頭坂途中で合流している。旧川越街道が出来たのが江戸初期、現在のR254は旧高階村内で出来たのが資料(高階村史)によると昭和15年。
9国道延伸
     Photo9 現在の川越街道(R254)が出来る前後の様子

そのときに市内まで一気に繋がったのかどうか調べたら思わぬところで発見した。
昭和16年の航空写真では旧高階村の県道336までしか道路が出来ていません。昭和21年の写真を見ると市内まで延びているのでおそらく昭和20年の終戦時には出来ていたのではないかと思われる。
河川改修、道路建設等の大きな工事は時間を要するのでどの部分がいつ出来たかということがなかなか解らない。公文書や文献を調べても年と年度の表記があるので判りにくい。今も昔も年度末駆け込みが多いのは相変わらず。

交差点から烏頭坂を降り旧川越街道市道46を暫く進むと不老川の御代橋。
10不老川_9226
     Photo10 不老川 御代橋から上流に向かって

先日下流のR25の不老橋を車で通ったときには水が涸れていたが今日はすき無いながら水流があった。
ここから右折して不老川右岸の堤防上を歩き県道336の砂久保橋を目指した。
水は透明度があるもののやはり多少臭う。先ほど通った新河岸川上流水循環センターからの水が放流されていつのだろうが・・・・・。
不老川の両岸には住宅が建ち並んでいるが少し離れると立川面の関東ローム層の赤茶けた土の畑が広がっている。不老川の川床には拳大の角が丸い石があるので水に入っても泥に足をとられることなく、太古の時代に関東山地から流れ出た多摩川によって運ばれたものか堆積しているので
武蔵野台地(基本的には多摩川の扇状地)を東に流れる川は涸れやすい。武蔵野台地から降ると表土の黒土を集めて川床は泥深くなり台地端の崖線(仙波の滝や新河岸日枝神社下など)では水が湧いている。

砂久保橋に出たところで左折し県道336を東に進み直ぐに市道6348に右折すると砂久保共同墓地に着いた。
11源五右衛門の墓_9231
     Photo11 将棋盤の上に乗る石川源五右衛門の墓 (中央右)

先日のブログで書いた農兵反対一揆の一方のリーダー石川源五右衛門の墓地は文献にあった”墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は将翁博石居士”を探すと墓地の中央に見出したが、裏面に記されている一揆の概要を読み取ることは出来なかった。散歩知識としては先日のブログ程度のことがわかっていればまぁ良しとするか。

共同墓地から再び市道に戻り五ツ又で市道に右折、近道を歩こうと思い途中で左折してみたがぐるりリ巡ってもとの道に出てしまった。結局市道6324から市道6325を経て高階市民センターに戻った。











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川越市 高階地区の時代の変わり目の出来事

0武蔵野の雑木林_9199
     Photo0 武蔵野の雑木林は昔と変わらず。落ち葉や枯れ枝は集められています。
記録
日程:2019,02,01

メンバー:安田
02/01天候 晴れ:
行程9.1km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

江戸から明治、昭和になると大東亜戦争で政治が一変し人々の暮らしも大きく変化した。高階地区でも江戸から明治への移り変わりのときと昭和20年に大きな事件があったので今日はその痕跡を求めて歩いた。

いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325を南下、市道5332に突き当たったところで左折して道なりに進み東上線と市道44を越えると右側に花山稲荷宮がある。昭和20年4月24日午前にB29がこのあたりに墜落した。
1花山稲荷宮_9195
     Photo1 花山稲荷宮 この辺りにB29が墜落

当時空襲を避けるため東上線の電車が停車している近くにB29が墜落したので乗客は電車から降りて見学に押し寄せたと言う。B29の搭乗者はパラシュートで脱出し付近に着陸後に捉えられて高階村役場に連行された。戦争中だったので犠牲者の家族、鎌や鍬の農具や竹槍を持った人たちが押し寄せて忙殺寸前の状態だったが押しとどめて当時貴重だった”サツマイモ”を与え身振り手振りで食べ方を教えて命を救ったといわれる。
当時の若者は兵役か軍需工場の動員に駆出され地元に残っている大人はわずかだったので目撃者は殆ど亡くなっているがいまだに地元では語り継がれている。

この花山稲荷宮は明治41年に寺尾日枝神社に合祀されたがその後他所で独立していた。しかし旧地である現在の場所に戻ったのが昭和251年と言うことなのでお稲荷さんは丁度B29の墜落を避けていたことになる。

花山稲荷宮から少し進んで右折し古くからの道市道5341を進んで市道5304市道5310を経て新河岸駅に抜けた。新河岸駅は平成29年に川越寄りに移動して東西を結ぶ通路を持った橋上駅舎となった。新河岸駅については次の機会に譲る。
新河岸駅から市道5302でR254に出て市道47を進み市道46に左折、高階幼稚園裏で右折して市道48を進み五ツ又で左折して市道6324を南下、市道6334を道なりに進んだ。
市道50と合流、この辺りから市道50は”河岸街道”と呼ばれるらしい。初雁高校、川越南文化会館(ジョイフル)を過ぎ市道52との交差点で左折した。この交差点の左側に”肥料共同購入”の記念碑が建っている。
市道52の周囲が畑から広葉樹の雑木林に変わり緩い坂を登ると砂久保地区の共同墓地横に出た。道路の交点にある墓地は周囲を武蔵野の雑木林に取り囲まれていて子供の頃と殆ど変わらない雰囲気だ。ここに農兵反対一揆のリーダーの一人砂久保の源五右衛門の墓があると思い、始めて共同墓地に入り込んでみることにした。

ここで川越の農兵反対一揆について触れておく。
江戸から明治への転換期、川越城主は幕府の重職だったので江戸湾(東京湾)のお台場警備による財政負担や武士の人員不足、慶応2年の天候不順にる農作物(麦作、養蚕)の不作による武州一揆の発生と鎮圧など騒然とする中、費用は村負担で農民を取り立てて農兵として家臣団の補強を行い領内の治安維持を図ろうとした。
年貢以外に農兵の費用が村に押し付けられることに反発して、代表が江戸の藩邸へ直訴に向かう途中で引き戻され指導者は牢に入れられたがそのうちのリーダーだった砂久保の源五右衛門と藤間の浅右衛門2名は永牢となり、川越藩主が前橋に転封となったのちも身柄を前橋に移され、幕府滅亡後の明治元年12月21日に釈放された。
(参考:川越市史第三巻近世編 昭和58年発行)

その後源五右衛門は石川姓を名乗り福原小学校の教員となり教育にあたったのち77歳で永眠し砂久保共同墓地に埋葬された。墓石の台座は将棋盤を模ったもので戒名は”将翁博石居士”、裏面には一揆の概要が記されている。一方藤間の浅右衛門は細川姓を名乗り、自宅で商売を営み生前東光寺に辞世の句を刻んだ墓碑を建て86歳で永眠した。
墓碑に刻まれた戒名は”細川院文翁居士”辞世の句は「生まれきて 世の憂き山の道過し 今は帰らんみ仏の浄土へ」と写真とともに紹介されている。
(参考:小泉功著 ”川越歴史散歩”1995年初版一刷)
(本中の農兵反対の一揆の項で名前と記述と写真のタイトルに乱れがあります。熟読の上理解ください)

先日の散策のときに石標で砂久保共同墓地であることを確認しておいたので中を探しまわってみたが源五右衛門の墓に該当するものは見つからなかった。
帰宅後いろいろ調べたら砂久保地区には共同墓地が2ヶ所あることが判ったので次の機会に訪れてみることにする。

共同墓地から戻り、市道52の反対側の雑木林の中にある胞衣(えな:胎盤や卵膜など後産の際に体外に出されるもの)を収めたと伝えられる祠を訪れた。
2胞衣祠_9197
     Photo2 胞衣(えな)を納めたか埋めた祠 みかんが供えられていた

今では病院での出産が普通だがかつては自宅出産だったので胞衣をここに納めたあるいは埋めた名残であろう。雑木林は落葉し、落ち葉も掃き集められたこの時期だと道路からも祠を見出すことが出来る。

再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。
3開明地蔵大菩薩_9201
     Photo3 開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)

再び市道52に戻り雑木林と畑の境にある”森のさんぽ道”の外周路を通って市道51に出て左折、暫く進んで市道46と合流したところに”開明地蔵大菩薩”がある。”首切り地蔵”ともいわれかつては川越藩の処刑場”御仕置場”が在ったところで川越市内にはもう一ヶ所、上野田町にも刑場があった。

子供の頃先生が斬首のときの音は”濡れ手ぬぐいを両手で横に広げて持ち、勢い良く水を払うときの”バサッと言う音だ”と実演してくれたが、先生もまさか実際に聞いたわけでもないだろう。

開明地蔵大菩薩から市道46を進み下り坂の途中にある東光寺に農兵反対一揆のリーダーの一人藤間の浅右衛門の墓がある。
4東光寺_8976
     Photo4 東光寺

藤間東光寺で尋ねると解らないとのことなので小泉功著の”川越歴史散歩”(高階図書館蔵)の本に写真が載っていることを告げると本の存在もご存知無かったのでしょう。
早々に辞して若くして亡くなった友人の墓参を済ませ水屋に戻ると横にある武甲山遭難慰霊碑の後ろに
5武甲山遭難慰霊碑_9203
     Photo5 武甲山遭難慰霊碑 この後ろに浅右衛門 細川院文翁居士の墓があります

”川越歴史散歩”に写真が載っている浅右衛門の墓を発見。もう少し注意深く見渡せば所在を聞かなくても直ぐに見出せたのでしょう。諸般の事情により写真は載せられませんが細く背の高い墓碑なので直ぐに見出せるでしょう。

東光寺から坂を降り市道6399に左折、もう一度左折して狭い市道6400から市道6398へと進みR254を横断、藤間白ゆり幼稚園の角を曲がって高階市民センターへ戻った。

川越市史の直訴総代階層票には砂久保源右衛門持高3.5石・生業農外車引渡世、藤間右衛門持高0.9石・農間飲酒餅菓子商・易者取締小前とありますから富農ではなかった。しかし片や小学校教員を務め、片や墓石に辞世の句を残すなど知識教養人だったのでしょう。直訴ご法度の時代から一変した明治の新しい時代を生きた人たちが墓からも自分たちの生き様を後世に語り伝えようとしています。



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川越市 藤間地区 かつての行政区界探し

0高階村境の送電鉄塔_9193
     Photo0 送電鉄塔下を通る高階村の行政区界
記録
日程:2019,01,27

メンバー:安田
01/27天候 晴れ:
行程9.1km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

今は川越市高階地区、合併する以前は高階村だった。高階村と周囲の村の行政区界を偶然見つけたので現在の地図に反映してみると市道になっていないところが何箇所かあった。
明治6年の地租改正とそれに伴う明治7年の地籍編成事業で地主の住所で何処の村に所属するかきめられたので道でないところも土地の所有者で区界がきめられた名残であろう。専門家ではないので良く解らないが・・・・・飛び地もおそらくそのような理由で出来てしまったのだろう。
かつての区界をまたいで今は住宅となっているところもあるが今回は高階南西部の区界探しに歩いてみた。

いつものように高階市民センターを出発し東に向かって市道5322を歩き東上線の新河岸踏切へ、踏切を渡って直ぐに左折し昭和60年に出来た地下道を歩いて線路の反対側へ出た。
新河岸駅に電車が停車している間も踏切が閉まっている時間が長く、特に朝夕は踏切を通る車も多いので歩行者用の地下道が出来た。
この地下道内部の東面には舟運が盛んなときの新河岸川の風景を、
1新河岸地下道レリーフ_9172
     Photo1 地下道のモザイク画 新河岸川

西面には杉並木の川越街道を人馬が行き交う風景を描いた素晴らしいタイルモザイク画がある。一見の価値あり。
2新河岸地下道レリーフ_9173
     Photo2 地下道のモザイク画 川越街道

地下道から出て新河岸踏切まで戻り、緩やかな坂を登って砂新田地区と藤間地区の境界となっている市道5321を西に進むとR254と交差する直前で緩やかな降りになる。
右側にある高階地区自主地域防犯センター”高階254ステーション”には平成20年に高階市民センターが出来るまで川越市役所の高階支所と高階公民館があった。
市道5321を挟んで左側にはかつて高階駐在所があったが記憶によると平成20年代後半に廃止され今では住宅となっている。
高階254ステーションと市道5321の間には小さな花壇がありその中にかつて新河岸踏切のところにあった道祖神が移されている。
3新河岸踏切の道祖神_9177
     Photo3 新河岸踏切のところにあった道祖神

東上線開通(大正3年)以前は市道5321と市道44が踏切のところで交差していたので道祖神はそこにあったと思われるが東上線建設で踏切横に移動。地図を見ると痕跡でわかるが解るが鉄道で分断されるまで市道44と市道6301は一直線の道だった。
道祖神が踏切横にあったのを覚えているので高階支所(昭和47年)が出来てから移動したものと思われる。

坂を降った右側には川越中央消防所高階分署(高階254ステーションの一階部分)、目の前には高階地区に2箇所ある歩道橋の1つ高階歩道橋がある。
4高階歩道橋_9178
     Photo4 高階歩道橋

かなり古い歩道橋で出来たのは昭和42年、近くにある高階中学校のために設けられたと思うがなぜか階段は中学校とは逆向き。
歩道橋の近くにある市道43とR254の交差点にある信号機が出来たのが昭和39年、設置予算のことが市報に載るような時代だったので川越市内でも早かったのだろう。
信号設置の時期は調べても解らず記憶に頼ったが、歩道橋の設置時期は国土交通省の資料で判明した。
道祖神は諸般の事情で簡単に移動出来ても、信号や歩道橋は道路がなくならない限り他所へ移動したり消滅しないので交通の安全を願う現代の道祖神といえる。

歩道橋を渡り市道6325に出て川越街道市道46に入り南下、直ぐに右折して市道6333を進んだ。今は市道6325が市道46道から更に先へ延びているがかつては市道46までだった。
市道6333から市道50に出て初雁高校を過ぎ、左折して川越南文化会館”ジョイフル”の横を抜けると、
5川越南文化会館ジョイフル_9182
     Photo5 川越南文化会館 ジョイフル

武蔵野の面影を残す雑木林の中を巡る”森のさんぽ道”の入口。
6森の散歩道入口_9183
     Photo6 森のさんぽ道入口

子供の頃に中を探検した雑木林だが遊歩道が整備され歩く人が多いのか小路に落ち葉は無く、土の路面が現われていた。
7森の散歩道_9185
     Photo7 武蔵野の面影が残る雑木林の中の小路

かつて正月が過ぎると農家では家族総出で落ち葉を熊手で掻き集めて堆肥を作っていたので、雑木林が管理され下草が茂ったり落ち葉が堆積して残ることも無かったが今は遊歩道から外れると落ち葉がいっぱい。
ナラやクヌギは薪にするので成長して直径が10~20cmになると切り倒され、残った切り株から新たに芽吹いて木が育という循環をしていたのでそれほど高木は無かったが今では手入れをしないので高木が多い。カブトムシやクワガタの宝庫でもあったが・・・・。

森のさんぽ道の要所には番号が書かれた道標が立っているが、勝手知ったところとばかりに昔と違って踏跡の濃い小路をそのまま進んだらいつの間にか今福の松原地区だった。
農家の庭先を抜けて市道51に出て左折し高階村との区界になっている市道52に復帰すべく東へ進んだ。
途中、今まで訪れたことが無い下松原の稲荷神社に立ち寄ると
8下松原稲荷神社_9187
     Photo8 中央の稲荷神社本殿と左側の愛宕神社

本殿左側の小山の上にある境内社のひとつ愛宕神社に力石を発見。
9下松原稲荷神社力石9186
     Photo9 愛宕神社の前に置かれた力石

今までの経験によると鳥居付近に力石が置かれていることが多いので再び鳥居まで戻ってみると
10下松原稲荷神社_9189
     Photo10 稲荷神社の鳥居 

やはり左右の柱のそばに石が置かれていたが、
11下松原稲荷神社力石_9188
     Photo11 鳥居左側の力石

左の石は力石と思われるが右の石についてはは少し自信が無い。
帰宅手持ち資料を調べると記載されていないので直ぐに専門家に連絡、後ほど実際に確認していただくことに成った。

下松原の稲荷神社から更に北東方向に進み高階西小学校のところで右折、市道6420を南下し現在は市道と認定されていない地図に示した区界Aを探したが民家が建ち並んでいて良く解らない。次に区界Bを探すと送電鉄塔下を通る農道があった。
このあたりには畑が広がっているので野菜が栽培される時期になれば畑と畑の境界が解りやすくなるだろう。そのときには農作業中の人を見つけだし聞けば良さそうだ。
乾燥して土がパフパフの区界の農道を歩き市道6525に抜け高階南公共広場のところで左折して市道6415から市道6418を通り、市道46の旧川越街道に出て
川越市とふじみ野市の市境へ向かった。旧川越街道とR254の合流点あるのが高階地区にあるもう一つの歩道橋で昭和45年に出来た藤間歩道橋。
12藤間歩道橋_9194
     Photo12 藤間歩道橋

これで高階地区の歩道橋を2つ確認できたので帰路は車で立ち入ることの無い古くからの道、市道6406から市道6405を通り抜け再び市道46に出て高階支民センターへと戻った。

先日寺尾調整池を歩いた折に改修中の江川都市下水路の写真を撮った歩道橋、川越市とふじみ野市と市境にある歩道橋は西沼歩道橋といい平成6年に出来たふじみ野市管理の歩道橋です。

今日の散策の目的、区界探しは一勝一負ながら途中で立ち寄った下松原の稲荷神社で手持ち資料には無い力石を見つけた。
ただ歩くだけでなく目をキョロキョロして歩けば思わぬものを発見できるものだ。歩道橋を確認し出来た時期を特定しようなどと思う者は私ぐらいだと思うがただ歩くだけの身体の健康管理だけでなく頭の健康管理にも役立つ。





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川越市 高階地区の小学校

0高階小学校_9165
     Photo0 高階地区で最も歴史が長い高階小学校
記録
日程:2019,01,22

メンバー:安田
01/22 天候 晴れ:
行程12.5km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

かつては高階地区に1校しかなかった小学校が人口増加に伴い今では5校になった。先日のブログで高階地区の小学校のルーツが川越市渋井の蓮光寺だということに触れたので今回は高階地区の小学校を巡ってみた。

まだ高階村成立以前の砂新田、藤間村、寺尾村、上新河岸村、下新河岸村、扇河岸村、砂村と分かれていた時代の明治5年に学制が発せられ、それまでの寺子屋をもとに渋井の蓮光寺にできた渋井学校の分教場として明治7年に砂学校、藤間学校、江川学校が設けられ、明治8年にそれぞれ独立した。
明治22年に上記7ヶ村が合併して高階村が成立すると明治24年には砂学校は高階尋常小学校、藤間学校は藤間尋常小学校とそれぞれ改称し、明治33年には尋常小学校の授業料が無償化された。

この間に江川学校の名前が消えている。古い地図を見ると藤間学校は民家が並ぶ川越街道沿いに、砂学校も舟運で栄えた新河岸に近く更に川越城下への道筋にあったので相応の就学児がいたと思われるが、寺尾にあった江川学校は台地端で坂を降ると湿地帯が広がっており民家が少なく就学児数も限られていたのでやがて藤間学校や砂学校に通うようになったと思われる。

明治36に氷川神社の西側に高階尋常小学校の新校舎が出来て勝光寺から移転し、高階村の教育は北部を高階尋常小学校、南部を藤間尋常小学校が担うことになった。

大正12年になると藤間尋常小学校と砂の高階尋常小学校が統合されて高階尋常小学校が発足し、東上線の開通新河岸駅の開業を経て経済的、地理的に高階村のほぼ中心である現在位置に昭和2年に高階尋常高等小学校が開校した。
昭和16年に高階国民学校、昭和22年には高階村立高階小学校と改称、昭和30年に川越市と高階村が合併し高川越市立高階小学校となったが、それの以降急激な人口増加によって昭和40年代には高階地区に新たに小学校が4校開校した。

小学校の歴史を時代順に歩くと複雑なコースとなるので今回は一筆書きになるような時計回りで巡るコースを選んだ。

いつものように高階市民センターから歩き出し市道5325から市道5332,市道5425を通り稲荷町の坂を降って高階南小学校(昭和44年高階小学校分校、昭和45年開校)を半周した。
1高階南小学校_9151
     Photo1 高階南小学校

もちろんかなり昔のことなので藤間学校の痕跡すらなく、今では境内の一隅が幼稚園になっている。
2東光寺_9152
     Photo2 藤間学校があった東光寺

東光寺から市道6409を西に進み、高階西小学校(昭和49年開校)を訪れた。
3高階西小学校_9153
     Photo3 高階西小学校

ここでは正門が開放されていたので校庭内に入り込んで写真撮影。何処の学校でも周囲は金網のフェンスで囲まれているが、ところによっては更に内側にネットが張り巡らされている。諸事情によるとは思うが・・・・・もっと開放的であって欲しいものだ。
子供の頃は放課後一度帰宅してから再び校庭に戻って遊んだり、あちこちへ出掛ける待ち合わせ場所でもあったので小学校は今よりもっと身近だったように思う。

高階西小学校から始めて西中学校(昭和60年開校)に向かったが案内板に従うと道は正門で行き止まり。仕方がないので畑を横切って市道6391に出て更に西へ進む。
このあたり武蔵野の面影を残す雑木林が続き、”武蔵野ふれあいの森”として林の中に散歩道があるが先を急ぐので今日はパス。
4武蔵野の森_9156
     Photo4すっかり落葉したナラやクヌ 緑の松が混じる雑木林

市道6387に出て二又で折り返し市道49に入る。
5二又_9157
     Photo5 二又 左から来て右へ折り返す 左の道は砂利道

この道は川越市文化会館ジョイフル(平成6年)とゴルフ練習場のトミーゴルフプラザ、初雁高校(昭和58年)で分断されてしまっているが現在の市道6319とは一直線の道だった。二又からトミーゴルフプラザまでの間は昔と変わらぬ砂利道、中学生の頃体育の授業で走らされた頃と殆ど変わっていない。
五ツ又の交差点を過ぎると市道49は市道6319となって区画整理地域に入る。かつて一面の畑だったところには同じような住宅が建ち並び 何処が何処やら戸惑いながら住宅の隙間から垣間見る高階北小学校(昭和48年開校)を目指して漸く辿りついた。
6高階北小学校_9161
     Photo6 高階北小学校

高階北小学校から砂学校があった勝光寺へは県道336今福木野目線を歩いたほうが距離が短いが、先日歩いているので今回は別の古くからの道を歩こうと思いいったん県道336に出てから右折し市道6280市道6275市道6274市道5299を歩いて再び県道336に出た。
7勝光寺_9162
     Photo7 砂学校があった勝光寺

勝光寺にも砂学校の痕跡は皆無。ここから少し歩いて高階尋常小学校があった砂氷川神社西側は今では住宅が建ち並んでいるので立ち寄らずに氷川神社前を直進、古くからの道、市道5318市、道5339、市道5335、市道5381を伝って江川学校があった寺尾の勝福寺に向かった。
8勝福時_9163
     Photo8 江川学校があった勝福寺 本堂前の天水桶や香炉には三つ葉葵の寺紋

遊びまわっていた子供の頃は気にも止めなかったが勝福寺の天水桶に描かれた寺紋は三つ葉葵、天台宗なので川越喜多院と結びつきが深かったようだ。喜多院といえば徳川家康の側近の天海が住持だったのでその縁によるのか?寺尾調整池周辺のブログでも触れたが家康、家光の鷹狩りもこのあたりで行われたようなのでその折には寺にも立ち寄ったであろう。

余談だが天海が開いた東京上野の東叡山寛永寺は慶応4年に彰義隊が上野のお山で戦った折に殆ど消失してしまったので、今の根本中堂は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築したものです。

勝福寺から坂を降って寺尾中学校横を通り抜け寺尾小学校(昭和53年開校)へと進んだ。
9寺尾小学校_9164
     Photo9 寺尾小学校

前回とは川越市とふじみ野市の市境を歩こうと試みたが入り組んでいて良く解らず。
市道5455に出て直ぐに右折、ここでも記憶を頼りに古くからの道を歩き寺尾地区を通り抜けて市道44に出た。市道43に出て東上線踏切を渡り市道43を西に進むと高階小学校。
10旧高階小学校
     Photo10 木造の高階小学校 バスケットボールのポールがあるので昭和30年代か

かつては市道44に面して立派な門があり校舎へ向かうのには校庭の真ん中を横切らなければならなかった。今では正門は閉ざされたままで門柱のみが残っている。
私が学んでいた頃の校舎は大正13~14年の竣工、昭和2年の開校時と殆ど変化なく木造平屋の校舎で中央にあったモルタル造りの2階建て本館を挟んで東西の後ろには開校時からの裏西側校舎と戦後の昭和28年に出来た裏東校舎があり、3教室ほどのあたらしい校舎は6年生が使っていた。

高階小学校からは市道5324に出て高階市民センターへと戻った。

現在の小学校の校舎はどれを見ても似たり寄ったりで基本パターンと言ったものがあるのだろうかこれと言った特徴がない。かつての木造時代の高階小学校には新河岸の舟問屋”伊勢安”から寄付された講堂があり、今全景の写真を見ても個性的でと堂々としている。
村に唯一の学校(当時はまだ中学校はない)を建てたときの高階村の教育に対する熱意が伝わってくる。
松本の開智学校を始め各地に残る古い小学校のなんと個性的なことか。今の画一的な建物の校舎で学んだ人たちからは熱意や個性が生まれないのでは。




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新河岸川の旧河道と力石 古市場 渋井

0旧新河岸川_9133
     Photo0 新河岸川旧河道 富士見川越バイパスからの風景 富士山も見えた

記録
日程:2019,01,19

メンバー:安田
01/19天候 晴れ:
行程9.7km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

旧新河岸川の下流側の河道を辿るついでに先日の寺尾調整池周回のときに見つからなかった江川都市排水路と北江川の合流点を探しに出かけた。

いつものように高階市民センターから歩き出し市道5332に出て直進、東上線踏切を渡って三角地帯で右折し市道5341から市道5353へ進み、
1寺尾後原_9121
     Photo1 寺尾の後原(せどはら) 台地の上は北風による畑土飛散防止の麦畑

市道5367で寺尾の台地を抜けて寺尾調整池に出た。
新河岸川上空を優雅に飛ぶ白鷺を見ながら新河岸川の堤防上を進み江川都市下水路の樋門で右折、
2新河岸川のサギ_9126
     Photo2 新河岸川で餌の小魚を狙うサギ

江川都市下水路右岸の葦原中学校横を進むと対岸にある元福小学校と寺尾調整池の間の道路の下辺りに流出口らしきものがあった。
3北江川樋門_9129
     Photo3 北江川の江川都市下水路への流入点

出口には蓋があり北江川から水圧がかかると蓋が開き、江川都市下水路側からは逆流しない構造になっている。地図で見ると寺尾調整池が出来る前とおなじ位置。
宿題を終えたところで再び新河岸川堤防に戻り、下流へと向かうと直ぐに県道335並木川崎線の川崎橋。
4川崎橋_9130
     Photo4 新河岸川を越える県道335の川崎橋

少し前まで架け替え工事をしていたが完成したのはいつだったか?平成10年の激特事業の新河岸川改修と同時期だったと思うが記憶が曖昧。
よく欄干の親柱のところに橋の名称と竣工年月日の銘板があるが、ここには名称しか書かれていない。架橋時ならたいしてお金が掛からないはずなので竣工年月日ぐらい書いたらどうでしょうかね。

川崎橋を渡り直ぐに右折。
5旧新河岸川河道_9132
     Photo5 新河岸川の旧河道

新河岸川旧河道左側に沿って重機のキャタピラー跡を進むと直ぐに消失したので畦道を通って市道4385に出た。
旧河道に沿って進みR254富士見川越バイパスのサイクリング道兼歩道に出て南下。現在の新河岸川と昭和初期の河川改修で出来た新河岸川の旧河道に囲まれた部分はふじみ野市。一面に田圃が広がり建物が無いため見晴が良く写真では解りにくいが冨士山が見える。
歩道を暫く進んで信号のある交差点で市道38に右折すると直ぐに古市場氷川神社の前に出た。
道路横にある左右の幟掲揚石柱の手前に力石と見受けられるものがそれぞれ1個ずつ置かれていた 。右側の石には刻字があるが左側の石には無く、手持ち資料によるとこの神社にはある力石は1個ということなので右側のものだけが力石?刻字が無い左側の石も素人目には形、大きさともに力石のように見えるのだが。
6古市場氷川神社_9137
     Photo6 古市場氷川神社の力石

両者ともに土に埋もれかかっているがわざわざ左右の石柱のところに置かれているので地元の人たちは両方とも力石と見なしているのかも知れない。掘り起こせば刻字が出てくるかもと思いつつもひ弱な現代人では転がして確認できそうも無い。
この古市場氷川神社では見慣れた狛犬の前に始めてみる大理石製の狛犬があった。
7古市場氷川神社_9141
     Photo7 手前は大理石の獅子 奥は良く見かける狛犬

獅子宮氷川神社とも書かれたものがあったので獅子かとも思ったが良く解らないので調べてみたら獅子像も狛犬と言い、大陸から伝わった当所は獅子だったらしい。
不思議に思ったこと、解らないことをネット検索しながらブログを書くので時間がかかる。今回の得た知識は狛犬と親柱。橋の欄干は知っていが欄干の一番隅の柱を親柱と言うこことは知らなかった。

古市場氷神社の直ぐ後ろが河道なので忠実に辿ろうとしたがとても無理なのでなるべく旧河道に沿うように道路を歩き、
8旧新河岸川河道_9136
     Photo8 古市場氷川神社裏の新河岸川旧河道

民家のブロック塀の間から旧河道に出て踏跡の無い草の土手を進み排水機場の横を抜けて新河岸川の堤防に出ると直ぐに県道56さいたまふじみ野所沢線の養老橋に出た。
更に堤防上を対岸の福岡河岸と福岡河岸記念館を見ながら進み蓮光寺を訪れた。
9福岡河岸_9144
     Photo9 川辺が河岸場 左奥の黒い建物が河岸場記念館

蓮光寺は立派な門構えの寺だが山門と総門が違う方向を向いている。山門・本堂ともには西向きで道路を隔てた新河岸川の土手、更にはその先の台地の方に向いて建っているのに対し、江戸時代の総門は新河岸川と直角で川越城下に向かって建っているのは、
10蓮光寺総門_9145
     Photo10 川越城下の方を向く蓮光寺総門

長禄二年(1458)に開かれたという蓮光寺の長い年月の歴史の間に氾濫を繰り返し、流路を変えた新河岸川の影響があるのかも知れない。

蓮光寺は高階の近代教育のルーツでもある。明治5年に初めて学制(太政官第214号)が発せられ蓮光寺に学校が出来、その後高階の砂の勝光寺と寺尾の勝福寺、藤間の東光寺に蓮光寺学校の分教場が出来て、明治8年にはそれぞれが砂学校、寺尾は江川学校、藤間学校として独立した。以降の推移については後日散策予定。

蓮光寺から往路の堤防上の道ではなく参道を経て県道56へ出て養老橋へと戻った。
11養老橋_9143
     Photo11 県道56の養老橋

養老橋の親柱には平成十三年三月竣工と書かれていたので平成10年以降の激特法以前から進められていた埼玉県による新河岸川流域河川改修の一環として架け替えられたものであろう。養老橋で対岸に渡り直ぐに左折、新河岸と同じように整備された河岸場の横を通り直ぐに右折して坂道を上がってゆくと右側に福岡河岸で回漕問屋を営んでいた福田屋の建物が福岡河岸記念館として保存公開海されている。今回は立ち寄らずに県道335に出て、立ち並ぶ住宅の中に張り巡らされた網目のような道から古道を探しつつふじみ野市から川越市域に入り高階市民センターへと戻った。
12上福岡北野の二又_9150
     Photo12 1918年の地図に描かれている二又分岐

住宅が立ち並び自分の位置さえ良く解らなくなるようなところでは所では行き止まりが多い。行き止まりかどうか見分けるコツは道幅で4m程度なら通り抜けることが出来るが6mなら行き止まり。更に新しく出来た道か古くからの道かを見分けるには道の曲がり具合。古くからの道はくねくね曲がっていることが多い。山なら踏跡と周囲の地形で判断できるが込み入っていて高い建物など目印となりそうな物の見通しが利かない市街地では数百メートル進むのも難しい。


追記
雨宮清子(ちから姫)さんからコメントいただきました。
古市場氷川神社の石は両方とも力石として記録されているとのことです。神社は舟運で賑わった福岡河岸にも近く、昭和の大改修以前は新河岸川が直ぐ裏を流れていたので
力仕事の人たちも多く、その上境内の前は直ぐ道なので行き交う若い娘たちの視線を浴びて若衆たちが力自慢を争ったのでしょう。






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川越市 新河岸周辺 河川改修の跡を追って

0寺尾調整池付近_9100
     Photo0 新河岸川対岸の寺尾調整池付近 水辺にはサギの姿も

記録
日程:2019,01,16

メンバー:安田
01/16天候 晴れ:
行程9.6km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

寺尾調整池から新河岸周辺を歩いたときに遊びまわっていた当時との地形の変化に驚いた。
平成10年8月の台風4号による大雨で新河岸川があふれたため河川激甚災害特別緊急事業(激特法)に指定され、5年間にわたる新河岸川の河川改修工事で寺尾調整池の設置や樋門、排水機場の新増設や整備が行われた。

今回は高階市民センター横の市道5325を北上し市道5321を通って市道43に出て東上線踏切を越え東に向かって直進。2005年に17年に架け替えられた旭橋を渡って牛子地区に入った。
1新河岸川旭橋_9082
     Photo1 県道今福木野目線 新河岸川旭橋

このあたりは新河岸川の舟運が栄えていた時代には地形の変遷でも解るように九十川(くじゅうがわ)と新河岸川の合流点だった(図中Ⅰ)が、
2新旧新河岸旭橋付近
     Photo2 新河岸川旭橋周辺の地形変化

大正11年から昭和6年にわたる新河岸川改修工事で九十川の流路が変更になり合流点は新河岸川のずっと下流に変更された(図中Ⅱ)。
やがて中州だったところは整備され住宅が立ち並ぶようになった(図中Ⅲ)。ちょうど私がこのあたりを遊びまわっていた子供時代です。
そして平成10年の水害で激特法が適用され新河岸川の河川改修の結果、旧河川の旭住宅周辺の河道が少し変更になった(図中Ⅳ)。
旭住宅は新河岸川の向こう側にあるにもかかわらず新河岸(高階地区)の飛び地だがかつては中洲、新河岸川や九十川の昔からの河道変化を見れば納得できる。

旭橋を渡って左折し旭住宅入口で旧河川の土手に出た。
3旧九十川旭住宅横_9084
     Photo3 旧河道 左側が旭住宅

ここから旧九十川沿いに歩いて昭和初期に開鑿された現在の九十川との分岐点、共栄橋を目指すが旭住宅を回りこんだ先からは土手上に踏跡が無く田の畦を歩いたり冬枯れした草を掻き分けて進んだ。
途中の用水路に架かった石橋は流路変更前には田んぼから九十川への流水を堰き止めた田島堰の残骸であろうか?”田島堰”と刻まれていた。
4田島堰石標_9088
     Photo4 旧田島堰の残骸 石標が今では石橋

共栄橋近くになると”旧牛子堰”の跡があり、
5旧九十川牛子堰_9090
     Photo5 旧牛子堰 大正2年竣工

かつての水門に刻まれた文字を読むと”大正貮年”
この旧牛子堰は昭和初期に新しい流路が開鑿され九十川の共栄橋のところに出来た新しい”牛戸堰”に役目を引き継いたのでわずか10数年の稼動だったようだ。
6共栄橋上流工事_9093
     Photo6 共栄橋から上流側 牛子堰は共栄橋の直ぐ隣

田に水を張る時期に牛子堰を閉じるとその直ぐ下流の共益橋あたりは水量が減り川床や堤防の法面が蛇篭だったのでザリガニの宝庫だった。
共栄橋から九十川は少し弧を描いて後は一直線に新河岸川に向かい合流する。
7九十川下流に向かって_9094
     Photo7 昭和初期に開鑿された九十川 1つだけ残る橋

九十川左岸堤防上を新河岸川との合流点目指して進むと以前は九十川の左右を繋ぐ農業用の渡るのが怖い欄干が無い橋が2本ほどあったが今残っているのは1本のみ。残存する橋は橋脚に昔の面影を残しているが両岸ともに宅地化が進み欄干が設けられていた。他の橋は撤去され場所さえわからなくなり跡形も無い。

激特法で出来た九十川樋門周辺はまだ堤防と川床改良工事が進行中で
8九十川樋門_9095
     Photo8 九十川樋門

九十川樋門のとなりに出来た九十川排水機場は九十川と新河岸川に囲まれたた地域の出水時には九十川を経て新河岸川に排水するようだ。
9九十川排水機場_9098
     Photo9 九十川排水機場

新河岸川左岸堤防上の道を対岸の江川樋門・新鷹匠橋・寺尾町制池排水機場を見ながら上流に向かいて進み、途中から堤防から降って市道5255に出た。

道路横の牛子稲荷神社に立ち寄り、赤い鳥居の根元に力石2個見つけたが文字は刻まれていない。
10牛子稲荷神社_9102
      Photo10 牛子稲荷神社の力石

更に市道5255を進み県道336今福木野目線と交差、市道5212から市道5202に入り砂中学校横の新河岸川堤防上に出た。このあたりにかつて扇橋があったが今は無く、砂中学校西側を通る市道99が新扇橋で新河岸川を越えている。
11新扇橋_9107
     Photo11 新扇橋

新扇橋の直ぐ上流は不老川と新河岸川の合流点だが今日は市道99を新河岸方面に向かい、新扇橋を渡って扇河岸に入った。
かつては新河岸五河岸(寺尾河岸、牛子河岸、下新河岸、上新河岸、扇河岸)の一番上流のにあった扇河岸も私が遊びまわっていた当時にも既に面影は無く、点在する民家と田んぼだった。市道99から左折して市道5266に入ると堤防に突き当り、多分この延長に扇橋があったと思うがあたりの風景は一変していた。

新河岸川右岸堤防上を少し南下すると右側に今は干上がってしまった”弁天沼”跡。当時弁天沼かられ出す川は深く両岸は葦が茂っていたが今はわずかな水流と葦原が残っている。
12弁天池跡_9112
     Photo12 弁天沼跡

深い水を湛えていた弁天沼も今では広場となり、沼の畔にあった弁天様を祭る厳島神社も古びているものの昔の社殿ではなかった。
弁天沼から道路を隔てた旧養魚池の横を抜け、かつてあった釣堀”川越淡水魚センター”を目指した。
”川越淡水魚センター”は昭和初期の新河岸川改修工事のときに出来た旧新河岸川の河道跡にあった池で虹鱒などの管理釣り場。
13釣堀跡_9114
     Photo13 川越淡水魚センター跡

川魚魚料理の”かしわや”もあったが残念なことに平成10年の水害い、その後の激特法による新河岸川工事で池の大半が増強された堤防の下になってしまった。
残る一部も干上がって残念な姿になり新河岸川との間に排水機場が出来ていた。

川越淡水魚センター跡から先日訪れた砂氷川神社の横を抜けて新河岸駅前を通り起点に戻った。




    

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高階五社と力石

0藤間諏訪神社力石Ⅱ_4905
Photo0 藤間諏訪神社境内の一隅に置かれた力石

記録
日程:2019,01,13

メンバー:安田
01/13天候 快晴:
行程5.7km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

小学校や中学校それに市民センターなど川越市の地区として名を残す”高階”。この地区は昭和30年に川越市と合併する以前は高階村と呼ばれ、その高階村成立(明治22年)以前は藤間村・寺尾村・扇河岸村・上新河岸村・下新河岸村・砂村・砂新田村と分かれていた。

いま、高階地区にはかつての村を代表する神社が五社(藤間諏訪神社・寺尾日枝神社・新河岸日枝神社・砂氷川神社・砂新田春日神社)あります。
五社を巡って参拝することを”高階五社巡り”といって正月には最近まで各神社にスタンプと台紙が置かれていたそうですが・・・・私は実物を1回見たことがあるだけです。子供の頃は当然無かったし社会人現役地元空白時間中は初詣に出かけても神社を徘徊することが無かったので気がつかなかった。
それぞれの神社には子供の頃には良く遊びに行ったものだがその後半世紀以上ご無沙汰。今日は神社に置かれている力石探しで一気に五社を巡ってみた。

高階市民センターを起点に一番近い藤間諏訪神社に向かうが正月中だった先日とは異なり鳥居横に幟は立っていなかった。目当ての力石は鳥居をくぐって石段を登りきった境内の片隅、石段の左右に一つずつ置かれていた。
1藤間諏訪神社境内_9055
     Photo1 藤間諏訪神社の力石 石段上両側

次は寺尾日枝神社。先日寺尾調整池へ歩いた道とは異なり今度は台地の中腹を行く細道を進むことにした。今は市道5359になっておりすぐに左に曲がって台地の上に向うように伸びって居る。左へ曲がる突き当たりを見れば民家の裏に延びる細い踏跡があったのでこれを進むと直ぐに市道5360に出た。
2寺尾市道消滅箇所_9056
     Photo2 市道5360突き当りから振り返った細道

地図を見ても道が無いが子供の頃は家も殆ど無かったので勝手に通っていたのか。
市道5360に出ると寺尾日枝神社は目の前だが道を下って鳥居をくぐり正規の参道から境内を目指した。
3寺尾日枝神社力石_9059
     Photo3 寺尾日枝神社の力石 石段を登って左側

力石はここでも参道の石段を登りきった左側に1個置かれていた。

次に新河岸日枝神社目指すが寺尾日枝神社周辺から新河岸日枝神社の間は畑が広がり、北側に防風林を持った農家が点在していた往時とは様変わりして道の両側は立ち並ぶ住宅で見通しが利かない上に新しく出来た道もそこかしこ。子供の頃に通った道を記憶を頼りに曲がり具合を確認しながら進むが道幅が狭くその上新しく出来た道で複雑になってしまったのでとても車で乗り入れる気になれない。
観音堂と境内を一にする新河岸日枝神社の社殿は左手奥の一段と高くなった小山の上にある。
4新河岸日枝神社_9062
     Photo4 左奥小高いのが新河岸日枝神社 右は観音堂

境内と社殿の周りを探してみたが力石は発見できず、境内左から石段を降った広場奥の厳島神社の
5厳島神社_9050
     Photo5 厳島神社
社の裏に台座に乗った力石3個を見出した。
6厳島神社力石_9064
     Photo6 日枝神社それとも厳島神社?の力石 台座の上に3個

厳島神社の広場から隣の新河岸川河岸場跡を通り抜け県道336今福木野目線の新河岸川に架かる旭橋の畔に出た。
ここから川越街道市道46までは県道336今福木野目線を歩くことになる。とても県道とは思えない生活道路のような道だが川越地方の物資輸送の拠点として栄えた新河岸から川越街道を経て川越城下に通じる道なのでいち早く主要道として県道になったらしい。
今は県道を示す道路標識も見受けられず、沿道の住民さえ殆ど知らないのでは?
旭橋から新河岸川に沿って進むと道は直ぐに左に曲がりさらに進むと正面に砂氷川神社がある。道はここで今度は右折し更に屈曲を繰り返して東上線を踏切で越え、
7県道踏み切り_9071
     Photo7 とても県道とは思えない今福木野目線の東上線踏切

R254と交差(信号は無い)、その後更に右、左と曲がってやがて川越街道市道46に出る。

砂氷川神社では社殿左側の御大典記念碑の前、左右に並べられた2個の力石を見つけた。
8砂氷川神社力石_9069
 Photo8 砂氷川神社の力石 御大典記念碑前に2個
いつから現在地に置かれているのか解らないが大典記念碑は多分昭和天皇即位時のものと思われるのでそれ以降ということになる。

この砂氷川神社で思わぬものを発見。
     Photo9 “〆の子”を垂れ下がった注連縄

丁度正月直後なので各神社とも鳥居には真新しい“紙垂(しで)”の垂れ下がった注連縄が張られていたが、ここ砂氷川神社では“紙垂”の代わりに”〆の子"と言われる藁を束ねたものが下がっていました。
見たとき不思議に思い帰宅後調べてみて"〆の子”ということが解りました。漫然と歩いていたのでは頭上にあるものにまでなかなか気が回らないが今回は力石探しでキョロキョロしたおかげでまた一つ知識が広まったのは五社巡りの御利益!
神社入口のご神木と鳥居の“〆の子”飾りの注連縄は他の4社とは異なるという個性表現ですかね。

砂氷川神社から再び県道に出て砂新田春日神社を目指す。
かつて並んでいた背後に防風林を持った家々はすっかり様変わりして今は防風林も無くなりかつてのかつての農家は大きな新築の家になっていた。
川越街道市道46に出て左折し少し進むと左側に砂新田春日神社。
10砂新田春日神社_9075
     Photo10 石段の上が砂新田春日神社

鳥居をくぐって石段を登り社殿に進んでみたが周囲を石垣に囲われた小山の上なので社殿周囲を巡るのが精一杯。
力石を探して違う石段を降ると境内社の稲荷神社の社の前に力石が1個置かれていました。
11砂新田春日神社力石_9076
     Photo11 境内社 稲荷神社前の力石

春日神社で高階五社巡りを終え、ここからは川越街道を南下してすっかり変わってしまった道路両側の家並みを見ながら起点の高階市民ンセンターまでもどった。
今回確認できた力石は高階五社で9個。全て重さが刻まれているものばかりで大きさも様々だった。かつては力石を持ち上げられれば一人前と認められ、15歳以上で酒一升で若者組に仲間入りが出来たとか。
若者組は祭りやその他村の行事を取り仕切ったと言うことなので村で中心的な役割を果たしたのでしょう。村で認められ生活してゆくためには課題の力石挙げを受けなければならないのですから現在の資格試験と同じ様なもの。

神社に残された力石の重さがまちまちなので若者組に入った人たちは自分が持ち上げた石の重さを自慢しあい、娘たちにもモテて熱い視線を注がれたたのでしょう。それとも別に試験用の石があったでしょうか?今となっては解りませんが・・・・・
現存する重さが刻まれた力石は力自慢の村のエリートたちの記念碑?




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藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り

0諏訪神社末社5社_9009
     Photo0 藤間諏訪神社 摂末社5社の社

記録
日程:2019,01,07

メンバー:安田
01/07 天候 晴れ:
行程6.3km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

新年を迎え氏神様への初詣は毎年の事ながら今までチョット気になっていたことが・・・それを解明すべく散歩に出かけた。
今日の散策のテーマは藤間諏訪神社に
1藤間諏訪神社_9005
     Photo1 藤間諏訪神社 

祭られている摂末社5社の旧地はどこだったのか?ネット検索すると摂社とは神社の主祭神(本殿に祭られた神)とに関連した神様のことを摂社、それ以外の神様のことを末社というらしい。従って由緒書に記されている摂末社とは・・・・・?
2諏訪神社末社由緒8
     Photo2 摂末社(境内五神)御由来書

由緒書には神明社、熊野神社、天神社、稲荷社、八坂社の故地が大字(おおあざ)で書かれているものの今では何処だかさっぱり解らない、
その上現在は川越市藤間は正しくは大字藤間、旧地が大字伊勢原仲や大字開癸南・大字熊野腰だとか大字であることも疑問。字(あざ)が正しいのでは?
高階村成立(明治22年)以前は藤間村だからそのときは大字だったのだろうか?しかし旧地から合祀されたのが明治40年つまり高階村成立以後なのだが・・・・

ともかくも現在の住所がわからないと旧地探しは出来ないのでネット検索したが見当たらないので図書館で調べた。その結果幸いにも漠然とした地域を示す字ではなくもっと詳細な区画整理後の住所を見出したので諏訪神社の末社巡りに出かけた。
(巡った結果、神明社を除き民家あるいは畑だったので現住所は記載しません。民家だったところは写真も載せません)

今回も高階市民センターを基点に先日同様に旧川越街道市道46へ向かい旧川越街道・市道46で左折。南に少し歩いて左折し戻るように歩いてR254に出た。
国道を越えて石標に近寄ってみたが書かれている文字が読み取りにくいので早々に紙を取り出し赤鉛筆で文字を浮かびあがらせた。
3神明社石標_8998
     Photo3 神明社の石標と赤鉛筆で浮き上がらせた“神明社”

神明社の旧地であることと石標が建立された日付が旨が記されていた。それによると昭和9年4月3日建立。現在のR254が川越街道の新道として開通したのが昭和15年、今とは違って人力作業であったであろうから、おそらく道路建設当初に建立されたと思われる。
1880年代の地図に記載されているのは末社5社のうちこの神明社のみで他の記載はない。
1880年代古地図神明社
     Photo4 1880年代古地図にも載っている神明社

神明社旧地を確認後R254を南下し市道5332から市道5404に入り天神社と八坂神社の故地に向かう。このあたりは既に区画整理地域になっているので探してみても痕跡すらない。
天神社・八坂神社の旧地にも今は民家が建っているので早々に稲荷社旧地に向かうことにする。坂道を下って市道45に出て左折、見つけた資料にある住所を探すがここも民家が立っている。
少し引き返し今度は市道5424に入り高階南小学校横を南下、熊野社旧地に向かうも資料にあった住所は住宅の立ち並ぶ中に残った畑。
4熊野神社旧地_9003
     Photo5 熊野神社旧地 このあたりを熊野腰というらしい

つまり区画整理地域には神社の痕跡すらなく、確認できたのはR254で最も早く旧地がうしなわれた神明社のみであった。

熊野神社旧地からは先日の散策で東上線線路下に確認した古道跡のトンネルを潜って間諏訪神社に向かう。
5東上線歩行者トンネル_9004
     Photo6 東上線を潜る古道跡の歩行者用トンネル

このc地点の歩行者用トンネル(先日の地図でc地点)は高さ2m弱、幅は自転車を押して通れば1人ぐらいしか通ることが出来ない狭いものであった。トンネルは車の通ることが出来るガードがあるa地点とe地点の丁度中間、車はそちらを通れということであろう。

諏訪神社下には子供の頃コンコンと湧く泉があり川が流れていたが今は埋め尽くされて住宅が立ち並んでいる。泉から更に上流にも小川が流れていたが今では市道45の暗渠になってしまった。
6諏訪神社下ガード_9017
        Photo7 市道45 東上線ガード付近の暗渠

諏訪神社から市道45に戻りコンクリート板で覆われた暗渠をたどると一部市道から外れるものの先ほど歩いた高階南小学校に突き当たり、再び道路横の舗道下を暗渠が延びやがてR254に出た。
国道を横断すると畑の中に細い開渠が姿を現し、
7旧道新道間_9021
     Photo8 畑の中に残る僅かな開渠

川越街道旧道市道46を過ぎるとまたもや暗渠になった。
8田園の中_9024
     Photo9 田園地帯へ延びる暗渠

暗渠の上を歩いて民家の間を抜けると広がる田園地帯の中にコンクリート板で閉じられた暗渠がマンホールの四角い鉄製の蓋を最後に消えうせた。
良く見ると直角に曲がった農道先に同じような蓋が見えたのでたどると市道6410に出て
9西小学校南側_9025
     Photo10 確認できる北江川最上流点

その先の高階西小学校下からは見慣れた丸い蓋のマンホールとなってしまった。この蓋には"汚水”の文字があったのでどうやら繋がってはいないと思われるので先ほどの四角い鉄製マンホール蓋のところが確認できる最上流であった。

区画整理以前は背丈の低いボケの花や雑草に彩られたこの川辺で遊んだことがあったが、梅雨時や台風シーズンでないと殆ど水の流れが無かったので上流までたどったことは無く、当時の大人や周囲の同年代からも川の名前を聞いたことも無かったが、ブログアップでいろいろ調べているうちに国土交通省の資料から"北江川"という名前であることがわかった。
今まで子供の頃からの知人と川の話をすることがあってもその川の名前わからなくても話が通じたので不自由せず今まで知らなかったわけだが幾つになっても新しい知識を仕入れることは楽しい。





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川越市高階地区散歩 藤間周回

1藤間火の見櫓_8973
     Photo0 高階藤間のかつてのランドマーク 火の見櫓(昭和29年)

記録
日程:2019,01,04

メンバー:安田
01/04 天候 快晴:
行程7.21km  歩いたルートマップは こちら  参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップ の道路台帳を参考にしました。

新年を迎えて4日目。上空は高気圧で穏やかな日になった。昨年からちょっとした足の故障でリハビリに励んでいたが、そろそろ山に出掛けようとしても思っても今度は体が寒さに慣れずについウダウダ。この間にひょんなことから自宅付近の古地図と100年前の古い地図を発見し、天気の良さに誘われて古い地図と現在の地図を見比べながら自宅周辺を歩いてみた。

自宅のある川越市の藤間地区は昔の藤間村、明治になって周辺の村々と合併し高階村(明治22年)になりその後昭和30年に川越市と合併。古地図には鉄道や国道も無く,寛永16年頃に出来た川越街道(旧道、現在の市道46号線)が北西から南東に縦断するのみだった。

今回は東上線開通直後の100年前の古い地図の道を歩き、更に区画整理や鉄道輸送力アップ・安全強化に伴い失われた踏切跡も探してみた。

現在地域のランドマークとなる高階市民センターを基点に
1高階市民センター_8997
     Photo1 高階市民センター
 
西に進みR254を越えて川越街道(旧道、現在市道46)との交差点で左折, そのまま進むとかつては藤間地区全体を見渡したであろう火の見櫓(昭和29年)。
横を通り右に”首切り地蔵”を見て、やがて坂を降る途中にある東光寺を過ぎ暫く進むと古地図にある現在の市道6414の入口を見つけた。
ここで右折するとやがて人家が途切れ田園地帯の中の道となった。子供の頃には良く通った道であるが車を運転するようになると子供の頃には無かった南側にできた市道6418を通るようになってしまい、周辺の新しく家が建ったり、生垣からブロック塀になったりといった景観変化で古道の入口さえ解らなくなってしまった。

古道を進みやがてこれも古道の市道64208に合流して直進、市道52に入ってふじみ野市との市境寸前で左折今度は市道6525を川越街道目指して進んだ。
新興住宅地を抜け川越街道(旧道、市道46)に出て右折、緩い坂を登って行くと直ぐに川越市とふじみ野市との境界、かつ川越街道旧道と新道(現在のR254)の合流点にでた。
2国道ふじみ野市に向かって_8980
     Photo2 R254上の歩道橋より東京方面を望む

ここでR254を歩道橋で越えて更に市境の狭い市道5458を進むとやがて東上線の線路に突き当たった。
3市境東上線跨線橋_8983
     Photo3 東上線の歩行者用跨線橋 かつてはここにも踏切があったようだ
 
歩行者のみ通行できる跨線橋を渡って右に上福岡市(ふじみ野市成立以前)の住所、左に川越市の住所が書かれた表札を見ながら進み突き当りを左折、坂を降って交差点で左折し市道5455を西進して東上線のガードをくぐり直ぐに右折して市道5429に入った。この右折は歩行者のみ可能。
4市道5455ガード_8984
     Photo4 東上線のガード 下はかつて江川、今は暗渠

このガード(a地点)は子供の頃は川越江川を渡る東上線の鉄橋だったがいつの頃か川は暗渠になり上は道路に変わった。ガードを支える両側の擁壁には昔の名残が残る。
東上線に沿った市道5429を線路土手を観察しながら進むと微妙な形状変化が認められた(b 地点)ので地図をチェック、区画整理外だった東上線反対側にはやはり分断された古道の名残の市道5396があった。

更に進むと線路をくぐるトンネルが反対側に通じている(c 地点)が、通ることが出来るのは歩行者のみ。
5市道5394跡_8986
     Photo5 古道の名残で反対側に抜ける歩行者用トンネルがある
 
ここも古道の名残だ。線路の向こう側は市道5394。
更に進んで古道があったと思われるところ(反対側は市道5394)を探したが痕跡すらなかった(d地点)。やがて市道45と交差、ここで右折して再び東上線のガードをくぐったが、このガード(e地点)も先ほどと同様にかつては川を越える東上線の鉄橋だった。
6市道45ガード_8987
     Photo6 ガードもかつては川を越える鉄橋 川は今は暗渠になっている
 
線路を支えるガードの壁は東上線下り側がレンガ積、上り側はコンクリート製、土手の法面は玉石を積み上げコンクリート補強したものだ。
下り線側レンガ壁は東上線開業(大正3年)当時のもの、コンクリート壁は複線化(昭和32年)のときのものと思われる。市道45を進んで左側に藤間諏訪神社の石段が見えたら左折、
6藤間諏訪神社_8988
     Photo7 正月で幟が立っている諏訪神社
 
神社下で更に左折して市道5351を西進すると線路で行き止まり(f 地点)。鉄道と其の前後の道路の高さが同じだった踏切があったが区画整理とともに先ほどの線路を潜り抜けられる市道45が出来て踏切は消滅。7市道5351踏み切り跡_8989
     Photo8 道路と線路の高さがほぼ同じ高さだった廃踏切 

少し戻って坂を登り市道5358に出て西進、またもや線路で行き止まり(g 地点)。この道は古地図にはあったが100年前の地図には踏切が無い。
丁度線路が切り通しのようになっているので線路の前後の道は坂道になるので踏切で線路を楽に越えられた先ほどの市道3251が近いこともあり鉄道開通時には踏切が設けられなかったようだ。
ここから少し戻って更に線路に沿って北上、子供の頃諏訪神社参りのときに歩いた道を探すと畑の中に道跡を発見。
両脇の畑とは違和感のある長さ数メートルで線路に行き止まる道(h 地点)。地図をチェックすると昔の里道は幅はそのままで今ではちゃんと市道5350になっていた。
8市道5350踏み切り跡_8991
     Photo9 畑の中に残る里道、川越市のマップを見るとこんな所も市道として載っています 

ここからは新しく出来た市道5579を寺尾地区と藤間地区の境界をなす市道44(昔は寺尾街道と呼んでいたけど今は?)に出て新河岸駅目指して北上。
市道5334とのT字路のところで線路側に踏み込んでみるが、
9市道5334踏み切り跡_8992
     Photo10 かつてはここにも踏切があった
 
ここにもかつてあった踏み切りの痕跡が残るものの現在市道5344は線路まで延びておらず、行き止まり部分は廃道になった(I 地点)。
記憶にある限り市道5344と市道5322は繋がっており踏切で東上線を越える一本の道だった。両側が坂道だった踏切が廃止され東上線西側に新たに駅に向かう道が出来て分断された。
東上線開通直後の100年前の地図にも踏切は無いが、線路は周囲の地面より低く其のうえ線路上に橋を掛けるほどの高低差も無いので踏切の前後は坂道だった。従って開通当時は踏切が無く、その後に設置されたと思われる。参考にした後の時代の地図では踏切になっている。
つまり開通当時は古道が分断されその後設置、更に時間が経過してまたもや廃止されたということか。
鉄道開通以前の新河岸川舟運が盛んなときは重要な道であったが東上線開通、昭和6年の通船停止令による新河岸川の舟運停止とともに重要性は次第に薄れ、遂には分断されてしまったのだ。

更に新河岸駅方面に進み東上線を渡って反対側を線路沿いに南下、先ほどの分断箇所の反対側地点に出て市道5322を西進、出発点の高階市民センターへ戻った。

住んでいて何気なく地域の変化を見ているもののいつ変ったかを思い起こすと記憶はあやふや。覚えているのは活動時間の大半を地元で過ごした幼少期、変化後の様子がつぶさに解るようになったのはリタイヤ後。
この間の地元以外ところで活動時間の大半を過ごしている間のことは住まいが変わらずともスッポリ抜け落ちている。探してみても案外周囲の出来事の記録は残っていないものだ。ましてや記憶はあやふや。





テーマ : 散策・自然観察
ジャンル : 趣味・実用

高立一本岩 夫婦岩   

御場山 Appendix

高立の一本岩
0高立一本岩_8003
     Photo0 高立一本岩

その昔、横川から百合若大臣が妙義山に向かって矢を放ち星穴岳を射抜いた 射抜き穴。 その矢が落ちてきて突き刺さったといわれるのが高立一本岩。
脆い岩質で初登は 山野井さん (07/11/08) です。高立集落から谷間に目立つ一本岩を目指して矢川沿いに進むとやがて木々で視界が遮られるが程なく道路左側に岩上に石祠がある大岩が現れる。
1大岩_8001
     Photo1岩上から一本岩を望む大岩 クサリで登ることができる

クサリに掴まって大岩の上に登ると至近に一本岩を見ることができる。地図は こちら
一本岩と呼ばれる奇岩峰は南牧村高原にもある。参考は こちら

夫婦岩
下仁田から軽井沢に向かう県道43の横を流れる矢川の河床にある奇岩で、河床に露出した大岩の上に岩質の違う転岩が寄り添うように並んでいます。
道路わきに案内板が立っているのですぐわかります。
2下仁田夫婦岩_8007
     Photo2 河床の大岩の上に乗る夫婦岩

西上州には“ジジ岩ババ岩”、一本岩などなど奇岩が多いですね。



福寿草と梅

0福寿草_7978
     Photo0 陽光を受けて花開く福寿草 
漸く我が家の庭にも春が忍び込んできたようです。
周囲には北風を遮る丘陵も無く暖かい陽射しをいち早く捕らえるような地形ではないのですが太陽が顔を出すと庭先の福寿草が咲いていています。
福寿草は陽が出ないと花を開かないので山に自生する福寿草を観ることが出来るのは好天のとき。山行予定を立てるのが難しい。自生福寿草の記事は こちら 。

3本ある梅は毎年一番先に花をつける木は1月末から咲き出して丁度今が見ごろ。蜂が忙しなく飛び回り仕事始め。
1白梅1_7979
     Photo1 一番早く咲く白梅

2番目の木は漸く数輪咲き始めました。
2白梅2_7980
     Photo2 漸く数輪咲いた白梅

最後に咲く紅梅はまだ蕾のまま。
3紅梅_7981
     Photo3 まだまだ蕾が固い紅梅

実のつく様子を毎年観察しているのですが蜂の動きが活発になる頃に咲く木に実がよくつくようです。

貧乏神追放神社(招福神社)

14貧乏神追放神社_6447
     Photo0 貧乏神追放神社(招福神社)

群馬県みどり市から日光に向かう途中にある草木湖畔にある草木ドライブインに立ち寄った際ちょっと変わった神社を見つけた。
この道路は足尾の沢や山に出かけるときに通る道であるが草木湖はいつもスルーしていた。今回何気なく立ち寄ってみたところ駐車場の一隅に”貧乏神追放神社”の幟が立っていたので幟の文字につられて神社を訪れてみた。

幟は”貧乏神追放神社”であるが社の額は”招福神社”
社の中には中央に”ご神木”右側に打ち出の小槌を持った大黒様の石像。
奥にはいかにもといった感じの2体の木造があるがどちらが貧乏神でどちらが疫病神かわからない。
15貧乏神と疫病神
     Photo1 何れが貧乏神?疫病神?

案内板によれば
      大声で「貧乏神・疫病神出て行け」
      ”御神木を三回叩いて
      三回蹴飛ばすと”
      ”御神木を三回叩いて悲鳴を上げて退散!


16貧乏神追放神社_6447
     Photo2ボコボコに打たれた御神木

左手前に並んでいる竹の棒を握ってご神木を叩いて足でご神木を蹴ってきました。
貧乏神と疫病神の間の壁に窓があいていたのでそこから退散したでしょう。ご利益はいかに。
多くの人の願いを担って叩かれた御神木はボコボコ、かなり摩滅していました。

黒髪尾根周回あれこれ

榛名 黒髪尾根・相馬山周回    Appendix
   
洗い越し
3洗い越しⅠ渡渉_6198
     Photo1 洗い流し構造

登山に出かけ林道を歩いていると時たま道路を横切るように沢が流れるようになっている場所がある。普通は沢や川には橋を架けて道路が横切るものだと思い込んでいたので道の上を水が流れるのは工事の手抜きや氾濫による災害跡と思っていた。今回2箇所も道路上を横切る沢を渡渉したので調べてみると道路上を水流が横切る構造を”洗い流し”と呼ぶことが判った。
”洗い流し”とは?
          川に橋を架けずに道路と川が平面交差している構造

最初から意図された立派な構造だったんだ。疑問を持って調べるといろいろ勉強になる。山行でちょっとお利口になった。

大正13年の旱魃
19大正旱魃碑_6205
     Photo2 大正12年旱魃の石碑

林道脇にあった大岩の上に立つ”大正13年の旱魃”碑から気になって調べてみると大正13年には西日本、中部日本を中心に全国的に大旱魃に襲われた事が分かった。
この旱魃災害が契機となり各地に用水が整備され、四国を中心とする瀬戸内海沿岸では田野々池(豊稔池)などの近代式ため池の築造がはじまった。碑が残されているということは榛名山麓でも旱魃災害が大きかったのであろう。
まだ90年そこそこの時間しか経っていないので災害の記憶は忘れ去られ大旱魃の碑は訪れる人も殆どいない。
いまや廃道になってしまった黒髪山登山道の脇に建っている碑だが建てられた頃には多くの登山者、参詣人が碑の前を行き交ったのであろう。

黒髪山登山道
20石碑列_6208
     Photo3 黒上山登山道 両側には石碑が並んでいます。

今回歩いた登山道は既に廃道になって久しいようだが、明治時代の鎖がかかっていたように昔から厳しい山道だったようである。
私が確認できた鎖は明治15年のもの、情報によると明治43年のものもあるらしい。
登山道の始点となる棒東村の黒髪山神社は相馬山(黒髪山)への登拝が困難な老人や婦女子のために明治20年に建てられた里宮で境内には”相馬山登山道"と刻まれた石碑も残るとか。
麓の榛東村の黒髪山神社(里宮)から山頂の黒髪山神社(奥宮)までの 古の登山道 を予想して地図に書き入れてみました。今では陸上自衛隊の演習場の中を通っていたようです。

右京の泣き堀
14右京の泣き堀_6254
      Photo4 右京の泣き堀

高崎城主松平右京太夫輝貞は榛名南麓の新田開発をするためスルス岩の下をくり貫いて榛名湖から水を引き白川へ流そうと考えたが工事に失敗中止となった。その用水トンネル跡が"右京の泣き堀”、”むだ堀”、”馬鹿堀”などと呼ばれる。榛名山麓は火山灰地なので旱魃のときだけでなく常日頃から水不足だったようだ。

デ・レーケ巨石堰堤
21巨石堰堤Ⅰ_6264
     Photo5 デ・レーケの巨石堰堤

明治政府に雇われたオランダの土木技師ヨハンス・デ・レーケの指導を受けた技術者によって作られた砂防堰堤、大きな自然石を積み上げたアーチ形状。
今ではかなり埋まってしまったと思うが現在のコンクリート堰堤と違い自然石を積上げているので周辺の景色に溶け込み違和感が無い。榛名山山麓のデ・レーケ砂防堰堤は土木遺産になっている。

とまぁ、今回の山行で見かけた石碑や山岳信仰の跡・珍しい砂防堰堤など歴史的なもの、今まで疑問に思っていた道路構造など技術的なものを帰宅後に調べてみるとなかなか面白い。パソコンでいろいろ情報を漁っていると次から次へと拡大し・・・・・なんだか知恵熱が出そうです。


        記事本文 榛名 黒髪尾根・相馬山周回




テーマ : 山登り
ジャンル : 趣味・実用

野反湖周辺の花

0_5903.jpg
     Photo0 シモツケソウ、ハクサンフウロ、ノゾリキスゲが入り乱れて

野反湖周辺にはいろいろな山野草の花が咲いていたのですが 前回のブログ に載せた写真は殆ど色物なし。花の写真を何枚か撮ったのですが眺めてみるとピンボケの嵐だったがどうにか見ることのできそうな写真をアップして みた。
といっても花の名前がかなり怪しいのでお気付きの方がいらっしゃいましたらぜひ正しい名前を教えてください。

山野草なので同じものが群をなして咲いているところもあるし、いろいろな種類が入り混じって咲いているところもあります。花をアップにせず見た目そのままの風景を撮ったのでは後から見るとガックリ。こんなじゃなかった。
経験がある方はざっくりした風景から花が咲き乱れている様子を想像していただけるとありがたい。
1ノハナショウブ_5915
     Photo1 ノハナショウブとハクサンフウロ

今までアヤメとショウブの違いが解らなかったのですが写真を見ながらネットで検索しているうちに漸く違いが解りました。ショウブは大きな花びらの付け根が黄色ということで今までアヤメと思い込んでいた紫色の花が実はショウブだったのです。野反湖周辺で見かけた花はノハナショウブといってよく公園で見かける花の改良以前の原種だそうです。
2ノハナショウブ_5994
     Photo2 花びらの付け根が黄色いノハナショウブ

何気ない風景の中に写りこんでいたアザミ。良く観れば違う種類でまっすぐ上を向いて咲いているのがノアザミ、数個の花が集まって下を向いて咲いているのがオニアザミ(ひょっとしたらジョウシュウオニアザミかも)
3オニアザミ_5983
     Photo3 オニアザミ(ジョウシュウオニアザミ?)

4ノアザミ_5987
     Photo4 ノアザミ

なぜかアザミは道端に多く、狭くて避けようがないトラバース路に咲いていると葉の棘がチクチク刺さり痛い。今まで気にも留めなかったが・・・・登山者の大敵であることは間違いない。まぁ、相手が攻撃してくるわけではないので一方的に敵だと思っているだけなのだが。

ハクサンフウロも沢山咲いていました。
5ハクサンフウロ_5919
     Photo5 ハクサンフウロ

シモツケソウは休憩舎の案内図に写真が載っていたのでたぶん名前は正解。
6シモツケソウ_5904
     Photo6 シモツケソウ

白い花も沢山咲いていたのですが写真で見られるのはヤマハハコぐらい。ほかにもアワモリショウマ?とかセンジュガンピなどなど
7ヤマハハコ_5981
     Photo7 ヤマハハコ

黄色の花は・・・・良くわからないのですが何種類も咲いていました。

とどめはクルマユリですが・・・・今までオニユリとクルマユリの違いが解らず???
今回撮った写真を見ると葉が茎の周りに車輪のスポークみたいに放射状についているのでクルマユリだと解りました。
8クルマユリ_5924
     Photo8 クルマユリ

良く山で見かけるオダマキですが今回目にしたのはキバナノヤマオダマキのみ。濃い紫色のオダマキは見かけませんでした。季節によるのか環境によるのかは良くわかりません。全草毒草だったとは・・・初めて知りました。
9キバナノヤマオダマキ_5991
     Photo9 キバナノヤマオダマキ


テーマ : 山登り
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