新河岸と隣の福岡河岸

0新河岸河岸場跡_9342
     Photo0 新河岸河岸場跡に整備された船着き場と緑が増した対岸の堤防
記録
日程:2019,03,26

メンバー:安田
03/26 天候 晴れ:
行程10.6km  歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
        記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。
近所のホームセンターの桜が5分咲きになってきたが公園の桜は漸く咲き始めたばかり。ホームセンタ-の桜の下は駐車場でアスファルト、一方公園は土なので照り返しの気温差で開花が少しずれるのか?
まだ朝は肌寒いがだいぶ緑が目につくようになってきたので新河岸川の土手歩きに出掛けた。

高階市民センターから市道5322を東に向かい東上線に突き当たったところを道なりに進んで新河岸駅踏切を渡り、東上線に沿って戻るように市道44を進んでちょうど市道5322の延長になる市道5334で左折。
市道5334が突き当たる市道5339に出るとすぐに市道43に出る。市道43を新河岸川を目指して進み旭橋への緩い坂の途中で右折するとすぐに右手に新河岸川舟運の舟問屋”伊勢安”の建物が現れた。
1伊勢安_9341
     Photo1 かつては江戸にまで出店を持っていた舟問屋“伊勢安”

”伊勢安“”の向かい側の坂を下ると力石のある厳島神社前の広場に出た。
文献や案内書では新河岸日枝神社に力石があると書かれているが実際には日枝神社から石段を下ったところにある厳島神社が正しい。
川越市の市報”広報川越”のシリーズ「川越時間旅行」に「力自慢たちのモニュメント」として力石(市内元町の力石)が紹介れ、”ちから姫“さんのブログにも素敵な文章で紹介されています。昨年来市役所に力石の保護をお願いしていますが、今回広く市民に啓蒙いていただこうと広報誌の紙面に載せていただいた。

奥まったところにある力石とは逆に広場を新河岸川に向かうと新河岸河岸場跡があり、土手を下った河川敷には平成19年に整備された船着き場があり毎年季節には、”灯篭流し”や”ひらた舟の体験試乗”が行われる。
緑が増し黄色いからし菜の花が咲き始めた対岸を見ながら河川敷の踏跡を下流に向かって進むとやがて道は堤防の上に上がり、右手に寺尾調整けが見えてきた。暖かくなってきて芽吹いた調整池の中の柳の緑を眺めながら堤防上を進み、新養老橋を過ぎるとやがて県道335並木川崎線の川崎橋が見えてくる。
県道335は南古谷駅前からふじみ野市川崎で県道56さいたまふじみ野所沢線に合流する短い県道で、ふじみ野市にあった陸軍造兵廠川越工場(通称”火工廠”)と川越線の南古谷駅をほぼ直線で結んでいた軍用道路だった。

川崎橋から県道335を上福岡方面に進み緩い坂道を登りながら左手の森の中にある白山神社の入口を探したが、見つからないので県道335から横道に入ったやがて県道56に出てしまった。以前川崎橋から県道の養老橋まで歩いた時に河川敷の散歩道の途中に”白山神社“と書かれた案内板があったことを思い出し、養老橋畔から散歩道に入り川崎橋へ戻る途中にあった案内板のところから崖上に登ると白山神社があった。
2白山神社_9347
     Photo2 参道入口が不明な白山神社

神社から続く細い参道はすぐに途絶えてしまい民家の庭先を抜けて漸く舗装道路に出たが、ちょうど先ほどこのあたりが神社入口であろうと目星をつけた場所であったが道路からだと案内板もないし、それらしき細道を辿っても民家の庭先に出てしまうのでよく知らないと白山神社にはたどり着けない。

白山神社から県道を進み左に折れて坂を下ってゆくと途中に福岡河岸記念館がある。
3福田屋_9351
     Photo3 今は福岡河岸記念館として公開されている舟問屋“福田屋”

新河岸川福岡河岸の舟問屋”福田屋”の明治時代の様子(東上線開通以前の舟運最盛期)を再現したもので、現在は東上線開通に尽力した”福田屋”十一代目星野仙蔵氏の功績等が展示されているらしい。
新河岸の”伊勢安”が通り面した間口の広い今にも番頭さんが現れそうな大店の風情を残しているのに対し、”福田屋”は三階建ての建物で新河岸川を見下ろすようになっておりどちらかというと趣味風な建物になっている。
4養老橋_9352
     Photo4 福岡河岸と船着き場 養老橋を渡ると対岸に舟問屋”橋本屋“があった

”福田屋”を通り過ぎて福岡河岸跡に出るとここにも新河岸と同じような船着き場があった。対岸の養老橋の畔には”はしもと”と看板の出ている店があるが古市場河岸で舟問屋を営んでいたという”橋本屋”の後裔であろうか?
船着き場から河川敷を行けばやがて武蔵野台地端の権現山古墳群の下に出るが、次の坂道を登り返し台地上に出た。住宅街の中で見通しが利かず適当に進むとやがてコンクリート塀が現れた。
5火工廠跡の塀_9355
     Photo5 大日本印刷工場の工場を取り囲む塀 内側はかつて火工廠だった

左に進んで県道56まで出てコンクリート塀の内側がかつての 陸軍造兵廠川越製造所(通称“火工廠”)の跡地(現在は大日本印刷)であることを確認して立ち戻り、コンクリート塀に沿って進んだ。
左手の住宅が途切れると樹木が生い茂った新河岸川への崖となり、樹木の隙間から対岸の低地が見下ろせる。やがてコンクリート塀が途切れると3世紀の古墳時代の遺跡、雑木林に覆われた権現山古墳群があらわれた。
6権現山古墳群_9358
      Photo6 権現山古墳群

一見途切れたように見えたコンクリート塀は左に続くので塀沿いの道を進みやがて2車線の道路に出たところで右折、再び県道56を目指した。
火工廠跡を2分しているこの道は火工廠時代には無かった道で戦後火工廠跡が民間に払い下げられた時にできたらしい。
今まで歩いてきた道に囲まれた部分は火工廠の東側半分で他の軍用地と同じように今では大日本印刷や日本無線、新日本無線といった会社の敷地になっている。西側半分は昭和30年代前半に日本住宅公団によって上野台団地ができさらに最近再開発されマンション群が立ち並んでいる。

県道56を越えると戦前の国策会社 ”日本無線電信株式会社” の跡地があり、
7日本無線通信跡_9359
     Photo7 アンテナがある建物がKIID  右側がイトウヨーカドーとその駐車場

現在大部分はイトウヨーカドーに一部が日本無線電信の流れをくむKDDIの総合研究所になっている。
子供の頃には火工廠は現在のとは違う高いコンクリートで囲まれ、中には高く目立つ給水塔が建っていたがいつの間にか撤去されてしまったので、今では地図上で住宅に囲まれた広い工場敷地や公共機関が火工廠跡だと確認できるだけで当時を物語るものは無くなってしまった。
県道56のKDDI総合研究所横から踏み入った大原あたりは一面の麦畑で、丸太を継ぎ足した背の高い鉄塔(木塔)があちこちに立ち並びその間を電線で繋げたアンテナが林立していたが今ではすっかり姿を消し住宅街に変貌している。
このあたりは道路整備が遅れたので各所で行き止まりや屈曲した連続したコーナーがあり地図なしでは通り抜けられない。唯一通り抜けられるのが昔からの道だがこれも今となっては狭く大部分が一方通になっている。
地図を持たずに歩いたのでひたすら目指す方向に進み、コーナーごとに曲がっていたが目的地を定めない散歩だからよいようなもの目的地があるときは近道だと思ってもこのあたりには踏み入らないほうが賢明だ。
どこをどう歩いたか記憶が定かでないがようやく上福岡東口駅前に出ると埼玉県で一番たばこの売り上げが多いという”上福岡タバコセンター星野”がある。
8星野タバコセンター_9364
     Photo8 駅前の角にあるタバコ屋が“上福岡タバコセンター 星野”

上福岡タバコセンターは福岡河岸の”福田屋”星野仙蔵の後裔で女優星野真理さんの実家。といっても住まいは違いますが。
高校生の時に同姓の友達に聞いたときの記憶による上福岡駅東口一帯は星野一族の所有だとか。今となっては友達の消息は解らないが・・・星野タバコセンターのオーナーになっているかもしれない。

上福岡駅前の歩道横には”上福岡開設記念碑”があり
9上福岡駅開設記念碑_9362
     Phot9 駅前の歩道横にある“上福岡駅開設記念碑“

東上線開通に尽力した星野仙蔵氏の事跡が刻まれています。物資の輸送手段を舟運から鉄道輸送に切り替えた舟問屋の経営者ですから新河岸の”伊勢安”主人とともに時代の流れを見据えた先見の明がある人だった。
上福岡駅から一旦県道56の踏切に出て川越方面に向かって線路沿いに戻り、ふじみ野市と川越市の市境になっている市道5458を横切り、坂を下って市道5428を進み稲荷町の坂を上ると縄文遺跡が出土した藤原町遺跡の横に出た。
10藤原町遺跡跡マンション_9367
     Photo10 藤原町遺跡という縄文遺跡があったところに建つマンション

現在、遺跡だったところには遠くからも見える大きなマンションが建っているが、建設時に遺跡が発見された際の350ページほどの発掘調査報告書が川越市立図書館に所蔵されているが貸し出し禁止。
11藤原町遺跡発掘品
     Photo11 縄文遺跡から発掘された住居跡と土器

知人を尋ねてみると関係者だったので報告書を持っているとのことだったので早々に拝借するが・・・中身が専門的過ぎてよく解らないが、遺跡からは縄文早期後半や中期の住居跡や土器、石器、落とし穴跡、石鏃などが出てきたらしい。遺跡は台地上の畑だったところで覆土が薄く当時の地表下まで農作物の牛蒡が侵入していたらしい。出土品は川越博物館に保存され特別展の時だけ出展されたとのことだった
縄文遺跡といってもよく解らないのだが・・・・住居跡はどこかへ移り住めば住居跡は残る。破損した土器はその場に当然捨てられる。土器は粘土が入手できれば制作可能なので重いものは残す。
しかし石鏃のような鋭利な石の材料は和田峠や他の遠隔地からもたらされた貴重品でしかも容易に持ち運ぶことができたので狩猟採集生活は必需品だった石鏃が残されていたということは・・・・・食量を求めて移動以外に敵に襲われ逃げ去ということもあったのか?

藤原町遺跡からは市道5414市道5427市道5332市道5325を辿って高階市民センターへと戻った。
江戸から明治にかけての舟運、縄文遺跡や古墳、戦争時の火工廠跡と頭の中が大混乱した散歩だった。




テーマ : 散策・自然観察
ジャンル : 趣味・実用

川越街道 藤間あたり

0開明地蔵大菩薩_9201
     Photo0 処刑場跡に立つ開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)
記録
日程:2019,03,22

メンバー:安田
03/22 天候 晴れ:
行程6.95km   歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

春彼岸の中日、春分の日が過ぎたら都内の桜の開花宣言が出ていよいよ春本番。風が少しあるものの自宅近辺を歩き回るには丁度良いので江戸時代初期に整備された川越街道旧道(現在は市道64)の散策に出かけた。

いつもの事ながら高階市民センターから歩き出し、市道5233を東に向かい、東上線に突き当たったところで道なりに新河岸駅方面に進んで新河岸駅踏切手前で市道5321に左折した。市道5321は高階村成立以前は藤馬村(明治の初めに藤間村と改称。江戸時代は藤馬村。更にそれ以前は藤間村)と砂新田の境だった。
1市道5321_9330
     Photo1 藤馬村(藤間村)と砂新田の境界 現在は市道5321

市道5231を進みR254(川越街道)に出るとその先は現在高階中学校になっているが、戦後の教育改革で高階中学校が出来る以前はR254を越えて川越街道旧道(現在の市道46まで延びていた。
戦後直ぐの航空写真を見つけたので高階中学校付近の写真を切り出してみるとかつての村境(中学校建設当時は大字の境)の道をつぶし、畑と雑木林だった土地に中学校が建設される様子が良く解る。
2高階中学校
     Photo2 高階中学校建設の様子

R254を越えて市道5325を西に進み市道46 (川越街道旧道)との交差点で左折し高階中学校に沿って進むとやがて市道51との分岐に出る。
3開明地蔵大菩薩_9315
     Photo3 市道46と51の分岐 分岐の中央が開明地蔵大菩薩

かつての川越街道のこの間は両側が杉並木で子供の頃にはまだ何本か杉の巨木が残っていたが、今では伐採され住宅や商店が建ち並び痕跡すらのこっていない。姿を消してしまった川越街道の杉並木は有名な日光街道の杉並木と同様に川越城主松平伊豆守信綱によるものだった。

市道46と市道51の分岐のところにある開明地蔵大菩薩(首切り地蔵)は”お仕置き場”と呼ばれ刑場跡だと言われているが、高階村の外れでもないし、ましてや藤間地区の中央部だし?????なぜこの場所にあるのか子供の頃から疑問だった。

新編武蔵野風土記稿”や”寛政重修諸家譜”といった古書の活字本が国会図書館のデジタルコレクションの中にあり、自宅のパソコンでも見ることが出来るので調べてみると徳川家康の関東入府以来川越城主は酒井家、堀田家、松平家(大河内)、柳沢家、秋元家、松平(越前)家、松平(松井)家と変わっている。
更に所領について調べてみると酒井家から松平(大河内)家の時代まで藤馬村を取り囲む砂新田や寺尾村砂村は川越領となっていたが藤馬村だけは旗本米津(よねきつ)氏の所領となっていたことが解った。
つまり藤馬村は川越街道が整備された松平伊豆守信綱時代は米津氏領、元禄時代になって柳沢吉保が城主になったときに加増で藤馬村は川越領となったので藤馬村が川越城付領に組み込まれるまでは砂新田が川越城付領のもっとも外れになっていた。
江戸の府内の外れにあった日光街道の小塚原刑場や東海道の鈴ヶ森刑場と同じように人の行き来が多かった川越街道の砂新田の外れに刑場が置かれたのであろう。
米津領藤馬村が川越城付領になってもそのまま残され現在に至っていると思われる。
専門家ではないので断言することは出来ないが漸く長年の疑問に対し答えを見出すことが出来た。

市道46を更に進み東光寺前の坂を降って行くと(武蔵野台地から降ると)かつて川越街道には川越城下に近いほうから一の橋、二の橋、三の橋があったという。
先日歩いた(藤間諏訪神社末社5社の旧地巡り)流路の痕跡が残る北江川に架かっていた橋が一の橋、
4一の橋下流_9320
     Photo4 川越街道の一の橋から下流側

そして現在は江川都市下水路となって地下トンネルになっている江川の橋が三の橋だったというが川五街道を歩いた記録のブログや記録を見ても二の橋の場所は不明になっている。
一ノ橋と二の橋の中間あるはずの二の橋の痕跡を探しながら歩くと市道46から左側の民家に入る私道の横にそれらしき掘割を見つけた。
5二の橋下流_9322
     Photo5 川越街道二の橋から下流側 道路右側が流路 道の突き当りは民家

市道46の右側の家々は塀が密着し川の痕跡と思われるものが見当たらないので下流に向かって進むと、民家の間を縫うように曲がりながら掘割が続き
6二の橋R245付近_9323
     Photo6 明瞭になった掘割 奥がR254

やがて市道6402に出た。

直ぐに交わるR254を越え市道5422に出ると道に沿って暗渠が続いているので、
7市道5244暗渠_9324
     Photo7 市道5422右側が暗渠

区画整理される前には間違いなく二の橋の下を流れる川があったことが解った。市道5422を暗渠の行き先を求めて進むと東上線の線路手前の市道5428との交差点で暗渠が消え失せてしまった。

道路を良く見るとマンホールの蓋に”うすい”とかかれたものと”おすい”とかかれた2種類あることを発見したので
8雨水マンホール_9325
Photo8 雨水マンホールの蓋

今度は”うすい”のマンホールを探しながら市道5428を進むと地下を江川都市下水路が通っている市道5455に出てしまった。おそらくここで下水路に合流していると思われる。

市道5455を越えてコンクリート階段を上り、武蔵野台地上にあるふじみ野市との境の市道5458に出て左折、藤間北野歩道橋で東上線を越えて市道44に出たところで左折し、区画整理で変わってしまった東上線西側とは違い未整理のまま住宅が建ち並んでしまった東側から川の痕跡を探してみたが何も発見できなかった。
一の橋があった北江川、三の橋があった江川(今は江川都市下水路)は共に東上線の鉄橋(今では道路)があったが、この間は東上線が土手の上を走っているので区画整理されて暗渠になる以前の東上線開通時から二の橋があった川は江川に合流していたのかもしれない。

古い地図にも現われていないので普段は水が無く、降雨後に流れが現われるような小河川だったのであろう。(地図上のa、b、c、dは以前のブログと同じで区画整理後失われた古道が東上線と交わる地点を示しています。)

藤馬村と寺尾村の境界の道、市道44(寺尾街道)を更に新河岸駅方面に進み市道43に出て踏み切りを渡り直進、高階小学校前から市道5538市道5537市道5325を経て高階市民センターへ戻った。





テーマ : 散策・自然観察
ジャンル : 趣味・実用

砂久保陣場跡と藤間流発祥地

0砂久保稲荷神社_9283
     Photo0 河越夜戦のときの砂久保陣場跡がある砂久保稲荷神社
記録
日程:2019,03,10

メンバー:安田
03/10 天候 曇り:
行程9.7km    歩いたルートマップは こちら 参考にした100年前の古い地図は こちら です。
         記載した川越市の市道番号は 小江戸川越マップの道路台帳 を参考にしました。

庭の福寿草の花が散り数本ある梅も遅咲きの紅梅が満開になっていよいよ近所の桜を待つだけになってきたので、道から見える花木を楽しもうと後北条氏が関東覇権を完成させた河越夜戦の陣場跡と、江戸時代になって生まれた日本舞踊藤間流の発祥地を巡る散策に出かけた。

いつものように高階市民センターから市道5325を北上し江戸時代の開墾の跡を残す一列に並んだ農家の庭先を抜けて西に進みR254を横断。市道6325市道6316を経て市道46で五ツ又の五差路を直進して戦国時代に関東の覇権をかけて上杉と北条が戦った河越夜戦の陣を張ったと伝えられる砂久保陣場跡の解説板が建つ砂久保稲荷神社に着いた。
1砂久保稲荷神社解説_9284
     Photo1 砂久保稲荷神社境内に建つ陣場跡の解説板

砂久保陣場跡について少し詳しく触れます。
情勢
天文6年(1537)、扇谷上杉朝定の河越城を後北条氏2代の北条氏綱が奪取して武蔵国支配を確定し、「河越衆」と呼ばれる精鋭部隊が置かれた。
天文14年(1545)、上杉朝定は古河公方足利晴氏、山内上杉氏の上杉憲政と連合を組み10月から8万の大軍で河越城を包囲。
河越城主北条綱成は半年に及ぶ篭城で抵抗し、天文15年(1546)4月に包囲している上杉勢を小田原から出陣した北条氏康と共に撃退し(河越夜戦)北条氏による武蔵国の支配を完成した。(当時は河越ではなく川越)

解説版について
砂久保というところは河越夜戦から100年後の正保の頃(1644~1648)に開墾されたので更に100年遡る当時はススキの原野か雑木林だったと思われ、陣馬跡といっても土塁などの遺構は無く、古文書にある「砂窪」という地名に導かれて陣場跡という史跡としたので、川越市教育委員会が便宜上藤久保稲荷神社に解説板を建てたようです。

このとき河越城を包囲した上杉か、それとも援軍に駆けつけた北条か、どちらかが砂久保(砂窪)に陣を構えたのか?
以前にあった解説板では文化・文政期(1804~1829)に編纂された『新編武蔵野風土記稿』にあるように「上杉憲政が砂久保に陣を敷き4月20日に援軍に駆けつけた北条氏康が攻めた」と書かれていたが
現在の解説板では『北条氏康書状』(「北条記」「歴代古案」に所収)や『北条五代記』にあるように
「天文15年4月20日に上杉憲政が攻めかかり北条氏康が迎撃、河越城内から北条綱成が撃って出て両方面から北条は勝利します」となっており
砂久保陣馬は上杉から北条へと変更され攻守が逆になっている。

新編武蔵野風土記稿は戦いからおよそ240年後の地誌、一方の氏康書状は戦直後のものであるから研究が進んだ結果、陣場の主も変わったのであろう。
何れにしても勝者は北条、敗者は上杉であるがこの後豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすまで武田信玄、上杉謙信、前田利家など幾多の武将が武蔵国に兵を進めてきました。

砂久保稲荷神社のところで市道46は右に曲がるがそのまま直進して市道6342に入り、市道6341市道6359市道6360市道6358を経て市道64に出た。
このあたりは所々に住宅があるものの江戸時代の武蔵野開発の跡をとどめる短冊状の大区画の畑がかなり残っている。地図上に描かれている道幅をもった道は昔から人が往来した道かあるいは近年の宅地化によって作られた道であるが、一本線で描かれている道は昔からの農道で土地の区画を留めている。
2砂久保の畑_9288
     Photo2 砂久保地区の畑 関東ロームで赤土だが腐葉土を入れると黒くなる

江戸時代の初期までの開発では土地の区画は一塊になった数件の農家を取り巻くように畑があるが、
川越城主が松平伊豆守信綱や柳沢吉保のときに開墾されたところは農家が道路に沿って一列に並び、土地の区画は短冊状になっているので地図を見れば開墾されたおよその年代がわかる。

市道50を西に進み関越道手前の交差点の右角に明治40年4月に建てられた「肥料共同購十週年紀念碑(ママ)」があった。
3肥料共同購入の碑_9291
     Photo3 肥料共同購十週年紀念碑

丁度明治30~40年頃は新河岸川舟運の最盛期にあたり、新河岸五河岸に加え仙波河岸も開かれていた。
市道50を更に進み関越道をくぐるトンネル手前で左折し関越道沿いの市道6433を進むと道の左側は雑木林になり緩やかな上り坂になっている。雑木林に差し掛かったところで散歩道らしき踏跡を発見し市道6433から外れて進んでみるが直ぐに民家に出たので再び関越道沿いの市道6433に出て南下。
4関越道_9292
     Photo4 関越道沿いに進む

関越道下を通る市道51を越えて道なりに進み市道49に出たところで左折して北上、再び雑木林の中を進んだ。
市道51に沿って下松原集落の農家が東西に建ち並び雑木林や畑の区画が短冊状に残っているので江戸時代の開墾跡だということが良く解る。
市道49を進むと市道51沿いに並ぶ農家の裏側の雑木林の中に数箇所の屋敷墓があった。
5屋敷墓_9294
     Photo5 雑木や竹林の中にある屋敷墓

遠くから見ると新しそうな墓も見受けられたが、寺ではなく自宅近くに死者が葬られ開墾当時から代々受け継がれてきたのだろう。

地図上に一本線で描かれた雑木林の中の径の殆どは市道49との交点に車の進入を防ぐように横棒が架かっているがその中の交点の一つの道角に古い木彫を発見したので立ち入ってみた。
6木彫_9295
     Photo6 “木彫の径”入口

落ち葉がきれいに掃かれた雑木林の中の径を進むと
7木彫_9296
     Photo7 “木彫の径”注意の林の落ち葉はきれいに掃かれている

やがていろいろな木彫が置かれた小広場に出た。
8木彫_9298
     Photo8 “木彫の広場”

木彫は雑木林の中の太い木を使いチェーンソーで刻まれた1mほどのもので味わいがあり、木々が芽吹く季節には良い休憩所になる。(名称が無いので勝手に“木彫の径””木彫の広場“と呼びました)
木彫のある広場から雑木林に囲まれた隠田のような畑の片隅を通り
9雑木林の中の隠田_9301
     Photo9 周囲を雑木林に囲まれた隠田のような畑 里芋植え付け中

市道6394に出て「森のさんぽ道」(仮称)に入り雑木林を抜けて送電鉄塔(東京電力京北線16)の下を進むと市道51に出た。
市道51を少し進んで鋭角に曲がって市道6420に入り、左側の畑の遥か先に見える家並みの間から市道64(川越街道旧道)に抜けられそうな畑の中の作業道を進み、市道64に出て左折し川越方面に少し進んで市道6402に再び右折しR254に出る手前の分岐を右に進んでR254に出て横断。
川越方面に国道を進むと右側にブロック塀に囲まれた「藤間流発祥地」がある。
10藤間流発祥の地_9305
     Photo10 藤間流発祥地の碑

日本舞踊藤間流の創流者藤間勘兵衛の出身地で碑が建っているが、藤間流は勘右衛門派・勘十郎派・勘兵衛派にわかれその後勘兵衛派は断絶してしまった。
藤間勘兵衛は新井氏といわれ、現在も血脈が残り藤間地区には新井氏が多い。

R245から市道5442に右折し、諏訪町・稲荷町・藤原町を経て
11ホトケノザ_9308
     Photo11 農家にとっては雑草のホトケノザもレンタル菜園では? 

高階市民センターへ戻った。途中のレンタル菜園にはホトケノザが満開だった。






  

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